ジャック・ランシエール "Malaise dans l'esthetique"その1

読書感想文の時間がやって参りました。今日のお題はジャック・ランシエールの"Malaise dans l'esthetique"(アクサン記号は略)。こちらのサイトhttp://site-zero.net/_review/galilee2004/では『美学における居心地の悪さ』と訳されていますが、ここではすこし手を加えて『美学=感性学における居心地の悪さ』とすることにします。

美学、という言葉は「美とは何か」といった高踏な問いと結びついた特殊な学問領域を思わせるものですが、上に挙げたサイトでも紹介されている通り、esthetique(エステティック)というのはもともとは感性の学という意味です。同じくランシエールの"l'inconscient esthetique"(『美学的=感性的無意識』)では確か、カントがエステティックにおける感性の学から美の学への移行期に位置する、ということが述べられていた気がしましたが、たとえば『純粋理性批判』の導入部に置かれた「超越論的感性論」というのは、明らかに感性の学としてのエスティックに属しています。そこでは、美というものが関係する手前のところで、ある対象を感覚するということの基本的な条件を問う議論として感性論というものが考えられており、空間と時間とが感性の二つの形式として数えられています。

『美学=感性学における居心地の悪さ』でのランシエールの議論においてきわめて重要な役割を果たす言葉にle sensibleというものがあります。上に挙げたサイトでは「感性的なもの」と訳されていますが、むしろ「感覚可能なもの」と訳すのがいいかと思います。『純粋理性批判』におけるカントの感性論は、人間の意識にとってそもそも(=アプリオリに)なにが感覚可能なのか、というものを問うものでした。容易に見てとられるように、このカントのその感性論においては美や芸術というものは問題にならないのですが、ランシエールの場合はそうではない、というのが重要なところです。ランシエールの議論では、感覚可能なものの問いがそのまま美や芸術の問いと結びつくのです。

ところで、カントの哲学は批判哲学と呼ばれるわけですが、そこで「批判」と呼ばれているものはある対象の悪口のことではなく、しばしば権利問題の整理と呼ばれる作業のことです。たとえば『純粋理性批判』は認識における権利問題の整理であるわけですが、そこで「権利」と呼ばれているのは、認識を可能とするアプリオリな条件のことです。実際に生み出される認識は、その認識を可能とするアプリオリな条件に基づいており、認識における権利問題の整理の作業である認識の批判は、そのアプリオリな条件を取り出していくことになります。『純粋理性批判』では最終的な審級として機能するのが悟性であり、そこに認識のカテゴリーというアプリオリなものが見出されるわけですが、しかし同時に感性の次元においても、空間と時間の形式というものが外界の直観を可能とするアプリオリな枠組みとして見出されます。

感覚可能なものはどのように決定されるのか、という問いに対してカントがどのように答えるのかは明らかです。アプリオリな形式によって、というのがその答えです。そして、『美学=感性学における居心地の悪さ』でのランシエールによるエステティックの捉え方は、このカントの答えに対して明確に反対するものとなっています。というのもそこでのエステティックは、「感覚可能なもの」と「感覚不可能なもの」の境界をアプリオリなものとしてはけっして認めないからです。しかしそうなると、エステティックは「感覚可能なもの」についての学ではないのか、という異論が当然ながら予想されます。「感覚可能なもの」を切り分ける境界が存在しなければそれについての学もまた不可能ではないのか、というわけです。実はここに、エステティックの両義性、すなわち感性の学であると同時に美についての学でもある、ということの意味が現われてきます。

ここではひとまず、エステティックについて問うよりも、芸術について問う方がわかりやすいでしょう。ランシエールにとって芸術とは何か。いきなり結論から言ってしまえばそれは、「感覚可能なもの」と「感覚不可能なもの」との境界を動揺させ、そこに新たな境界を引きなおすものです。そしてランシエールにとってのエステティックとは、その境界の動揺と再画定について思考するもの、あるいはその動揺と再画定というプロセスの曖昧さの中に身を置くものに他なりません。ここに、ランシエールエステティックとカントの感性論との決定的な相違が見られます。後者が境界をアプリオリなものであるとしているのに対し、前者はそれを絶えざる構築のなかに置くわけです。

ランシエールのこのエステティック観が、そのまま政治的含意をもつことは言うまでもありません。『不和』においてランシエールは、政治とコンセンサスを結びつける政治観に反対して、「不和」というものを政治の条件として見出していました。コンセンサスに基づく政治がいってみれば「感覚可能なもの」として確立されている境界の内部での利益の再配分を行なうのに対し、「不和」とはそこに「感覚不可能なもの」を持ち込みます。ここでの「感覚不可能なもの」とはつまり、そこで再配分がなされるステージの内部には存在していなかった者のことです。本が手元にないので正確ではないですが、ランシエールは政治の出発点を「俺にも権利をよこせ」という持たざる者による権利主張に設定していたはずです。それまでの再配分のステージには入っていなかったものがそこに入り込んでくること、ここに根源的な「不和」があり、その「不和」を排除することなく政治的なプロセスへと乗せていくこと、ここに政治の本来の役割がある、というのがランシエールの主張でした。

ところでここで「権利」という言葉が登場してきたわけですが、この言葉は厳密に理解される必要があります。少し前に、「「政治屋」と「政治活動家」はなぜいけないか」(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070111#p1参照)のなかで、政治と理念との関係について書きました。理念とは「来たるべきもの」として目指されるものですが、このような理念なくしては権利というものは存在しえません。たとえば「自由」というのは、厳密には歴史上一度たりとも存在したことはありませんし、またこれからだってそうでしょう。「平等」についても同様です。しかしだからといって、「自由」や「平等」という理念が意味をもたないわけではありません。というのも、「自由」や「平等」は、存在したりしなかったりする「事実」ではなく、全ての人がそれを主張することのできる「権利」であるからです。いうまでもなくそれはフィクションでしかないわけですが、しかしそれは現実世界をそちらへと引っ張っていくフィクションであり、カントの言葉を借りれば「統制的な」機能を果たすフィクションであります。そして、わたしたちがいくらかなりとも「自由」や「平等」を手に入れていると感じることができるのだとすれば、それは間違いなく「自由」や「平等」というフィクションを「権利」として主張してきたからに他なりません。「自由」や「平等」という言葉を強調すると、いわゆる「左巻き」(もう言わないか?)と取られそうですが、たとえば「日本」や「皇統」というものを当てはめてもかまいません。「皇統」というものを、それが結局はフィクションなのだからという理由で批判する人には、「自由」や「平等」を擁護する資格はありません。問題はフィクションの機能であるわけです。と、少し話がそれました。

この「来たるべきもの」としての「権利」は、実は『純粋理性批判』における権利上の次元、すなわちアプリオリな認識の枠組みともある意味では平行するものです。前者がいわば発明の対象であるのに対し、後者はアプリオリなものとして設定されているのだから正面から対立するようにも見えるのですが、しかし「事実」との対比という点では、両者ともそこからは明確に区別されるという点で共通しています。ここでは、『純粋理性批判』と『実践理性批判』との関係を思い出すのがいいでしょう。もとよりカント自身が、『実践理性批判』においては権利の次元に位置するものを理性によって見出される格率という理念に与えていたのでした。つまり、そこでは権利は理性による発明の対象であるのです。カントにおける問題は、『純粋理性批判』と『実践理性批判』、すなわち認識の領域と実践の領域との分断にあった、と捉えるのが妥当でしょう。実際には、実践の領域のみならず認識の領域においても権利の次元は発明の対象であり、つまりアプリオリな枠組みなどというものは存在しないわけです。そしていうまでもなく、ここにランシエールの議論の焦点もあります。

さしあたり、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』に、ランシエールの『美学=感性学における居心地の悪さ』と『不和』を並べてみるのがいいでしょう。カントの場合、二つの領域が純粋に切り離されてしまっており、それにともなって認識の領域、さらには感覚可能なものはアプリオリな枠組みによって境界づけられているとされていたのに対して、ランシエールの場合は、芸術を通しての「感覚可能なもの」の再配置が、そのまま政治における「不和」への開けと結びついていきます。この見通しはそれほど間違っていない気がします。

と、ここまで書いて誤解されそうだと不安になったのですが、実はランシエール自身は、『判断力批判』については触れながらも、『純粋理性批判』と『実践理性批判』については議論を展開させていません。ここまでの文章は、僕が個人的にランシエールの議論をもっともわかりやすくすることができるだろうと判断した補助線を引いたものです。本当はこのあとに具体的な内容に入っていこうと思っていたのですが、それなりに長くなってしまったのでここで止めにして、また別便で続きを書こうかと思います。

なお、ここでのカントにおける「権利」のまとめに関しては、ベルナール・スティグレールの「新しい批判」という概念の解説という形で修士論文の末尾のところで展開されたものを(脳内)参照しています。興味のある人は、コメント欄かプロフィール欄のメールアドレスからその旨を伝えていただければ、修士論文を送ります。