スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過ち』その三

↓以下の二回の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070227#p1
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070301#p1

● 現在地

全体のイントロダクション
  第一部 人間の発明
イントロダクション
 第一章 技術的進化の諸理論
 第二章 テクノロジーと人類学 ← いまここ
 第三章 《誰?》《何?》人間の発明
  第二部 エピメテウスの過ち
イントロダクション
 第一章 プロメテウスの肝臓
 第二章 すでにそこに
 第三章 《何》の救出

● 第一部第二章 テクノロジーと人類学

 シモンドンは「具体化」のプロセスを通して次第に自律性を高めながら技術は発展していくとしながらも、同時に技術が機能するためには人間の先取り能力を必要とする、とも述べた。とするならばそこには人間と技術との決して解消されえない紐帯が存在するかのように見える。スティグレールはこのシモンドンの主張に、産業化時代以降、技術的発展に対する不安が決して途絶えることなく表明されつづけてきたという事実を対比する。一方では人間と技術との本質的なつながりが、他方では人間に対する技術の脅威が主張される。この一見両立不可能な二つの主張に対して、ときには技術と結びついているとされ、ときには技術によって脅かされているとされる「人間の本質」とはそもそもなんであるのか、と問いかける。そしてその「人間の本質」という問いを中心として構造化されている人類学という領域に目を向ける。そこで取り上げられるのが、レヴィ=ストロースによって人類学の父であると指定されたルソーである。

 ルソーは『不平等起源論』において「人間の本質=自然」を独特の自然人イメージを通して描き出しているが、しかし「人間の本質」という問いそのものはつねに形而上学の中心にあったわけではない、ということをまずスティグレールは確認する。プラトンにあっては、そこで問題とされていたのは人間の地平を越えるイデアの次元であった。しかしイデア的次元を目的とするプラトンにあっても、「人間の本質」を目的とするルソーにあっても、そこで問題とされているのが起源に関する物語である、という点は共通している。ルソーの人類学=人間学が扱うのは事実としての人間ではなく権利としての人間であり、そこから現在の人間の状態が測られるような人間の理想としての人間像である(いうまでもなくこのことはプラトンイデア論にも同様に当てはまる)。それゆえスティグレールはルソーの人類学を超越論的人類学と呼ぶ。それは事実としての人間にではなく、権利としての人間に関わるのだ。

 起源に関する物語はつねに起源からの堕落の物語を形成するが、ルソーがそこで堕落として名指したのは理性と進歩であった。そしていまだ理性を持たずいかなる進歩をも知らない無垢な自然人が、人間の起源として措定される。ルソーはこの物語を人間に起こった事実の説明としてではなく、あくまでも権利上の人間の本質の虚構的構成物として提示するのだが、スティグレールはその身ぶりのうちに根本的な矛盾を見出す。それは、ルソー的物語に登場する自然人とはいかなる技術性、人工性にも汚染されていない純粋状態にある存在であるとされているにもかかわらず、ルソーはその純粋状態をまさしく人工的な物語として提示している、という点である。そしてスティグレールはその矛盾が、ルソーによって語られる物語の内部にも入り込んでいる様をつぶさに取り出していく。

 たとえばルソーは自然人もまた直立歩行し解放された両手を有しているとする。スティグレールは『身ぶりと言葉』におけるルロワ=グーランの議論を引き合いに出すことで両手の解放が人間による技術の獲得と不可分に結びついていることを確認しながら、ルソーが両手の解放という事態にともなう帰結を完全に無視してしまっていると述べる。ルソーにとっての自然人はその解放された両手をたんに手近にあるものを掴むことのみに用い、何かを操作するという技術的営為のためには用いられないとされるのだ。しかしスティグレールによれば解放された手が掴むのはつねにすでに技術的な道具であり、そこから「純粋な手」などというものを取り出すことはできない。ルソーは自然人を純粋な内部性として捉え、技術をそれを汚染し堕落させる外部性として捉えているとスティグレールは述べるが、外部性はつねにすでに内部へと入り込み、外部なき内部というものを不可能としている。

 またルソーは、自然人はその自然=本質において十分にたくましく、それゆえ自らの弱さを技術によって代補する必要がないとされるのだが、しかしそこには微妙な留保が持ち込まれる。たとえばルソーが自然人の「現在的範例」として挙げる「カリブ人」は、「ほとんど」裸であり「たんに」弓矢で装備しているだけであると説明される。スティグレールはそこに現われる「ほとんど」と「たんに」という限定辞の機能に注目し、そこにルソー的物語の典型を見出す。ルソーが描き出そうとする汚れなき始源は、つねにすでに「ほとんど」や「たんに」が端的に表現している「最小の差異」によって汚染されているのであり、そのことによってそこにはつねにすでに技術が入り込んでいるのだ。

 ルソーによる技術の体系的な排除は、同時に自然人を未来との関係から保護しようとする企てでもある。ルソー的自然人は完全に現在のうちに充足しているとされているのだが、技術はそこに未来との関係を持ち込む、と捉えられているのだ。ここに、技術の問いがまさしく時間の問いとして現われてくる。スティグレールは技術によって持ち込まれるものとしての時間を、いくつかの要素と結びつける。まずは死。未来という時制の先取りは、最終的には自身の死の地点を避けることができない。それから不在。未来との関係が可能であるということは、現在の中になんらかの不在が持ち込まれている必要がある。またこの不在によって、いまここにはない他なるものとの関係も開かれる。そして、想像力。現在のただなかに隙間が生み出されることで、そこに想像力の働く余地が生まれる。死、不在、想像力、ルソーが自身の自然人からこれらの要素を技術性という名のもとに排除していく手つきをスティグレールは丹念に取り出していく。そしてその同じ身ぶりによって、そこで排除されているものがつねにすでに起源を汚染してしまっていることをもスティグレールは示していく。技術はつねに現在の中に入り込んでおり、そのことによって時間の地平を切り拓いている、というわけだ。

 技術は起源に外から到来するものではなく、それゆえルソーが描き出そうと試みた技術に汚染されていない起源というものは決定的に不在であるのだが、スティグレールは逆説的に、その不在こそが起源的である、と述べる。起源の不在が、技術という第二の起源を構成している、というのだ。そしてスティグレールは、時間を存在の問いの地平として考察しようとしたハイデガーの議論を暗に参照しながら、技術こそが存在と時間の関係を捉えるための地平をなすのだと暗示する。