山本哲士『場所環境の意志ー地球環境設計へむけて』

場所環境の意志―地球環境設計へむけて

場所環境の意志―地球環境設計へむけて

怪著というべきか奇著というべきか。とにかく、独自の用語法を駆使して展開されていく山本氏の議論に分け入っていくのは本当に大変で、読みながら「いったいこれまで何人の人がこの本をちゃんと読んだのだろう」と思わざるを得ませんでした。独特なのは用語法だけではありません。フーコーブルデュー、それに西田幾多郎吉本隆明が中心に置かれながらも、ありとあらゆる議論が山本氏の議論に流し込まれていて、どこまでがそこで参照されている人たちの議論でどこからが山本氏の議論かがまったくわからない、という点も人を大いに戸惑わせます。しかし山本氏の議論を見ると、それも致し方ない、と思わせます。というのも、山本氏の開拓しようとしているパースペクティブは、先駆的な発想は(たとえばフーコーブルデューがそう)そこかしこに見出されるのだとしても、きわめて斬新なものであり、そういった大胆さをもってしてしか提示できないようなものであるからです。むろん、山本氏が提示しているパースペクティブから事後的に見れば、むしろもろもろの先駆的な発想がもっている可能性を極限まで徹底しただけだ、ということになるのかもしれませんが。

と、最初に「怪著」だの「奇著」だのと書いたのですが、この本がきわめて重要なもので、まさに現代において徹底して考えられなければならない問題を徹底して考えようとしており、しかもその問題に対してかなりの答えを導き出している、ということは間違いなくいえると思います。この本の出版は1997年ということですが、たとえば東浩紀氏がいっているような環境管理型権力や工学的設計の問題などに関して考えられるべきことの大半は、すでにこの本のなかで論じられている、という気がします。

環境とは何か、環境と人間との関係とはどのようなものか、そこにおいて科学的次元、社会的次元、文化的次元はどのように関係しているのか。『場所環境の意志ー地球環境設計へむけて』はこういった問題を、実際の環境設計に向けられた実践的意識のもとに徹底して考察し、さらに具体的な学問的、産業的、制度的なプログラムまでをも提出します。そこで論じられていること、また論じる際に取られている戦略、があまりにも複雑なので、僕にはそれをここで簡単に要約する自信はありません。ちょっと間を置いて、後日、あらためて書こうと思います。しかしだからといって、「みなさん読んでみてください」とお気楽に進めていいのかもよくわかりません。とりあえず、場所環境について論じている三章(だったはず)が一番読みやすい気がするので、そこを読んでもらう、というくらいならいいかもしれません。

不満としては、あまりにも特殊な用語法を用いているために、そこでの議論に入り込むのにかなりハードルが高いということがあります。もっと一般的な用語法で論じられていれば、より広く受け入れられるはずなのに、と強く思いました。そこで論じられていることがきわめて重要な問題であると思うだけに、よけいそう思います。個人的には、進化論のターミノロジーを用いて、そこから技術の、さらには人工的環境の進化論を考えていく、という方向に向かっていけば、もっとわかりやすく同じ問題を捉えることができる、という気がします。そしてその可能性をもっとも深く展開しようとしているのがベルナール・スティグレールである、と僕は考えています。山本氏には、ぜひスティグレールの『技術と時間』を読んで欲しいと思っています。

あと、フーコーの最晩年の「自己のテクノロジー」を環境設計の問題につなげていく、という発想は、きわめて正しいというか、恥ずかしい表現ですが「我が意を得たり」という感じがしました。スティグレールは『無信仰と不信』の一巻第二章で、フーコーの「自己の書法」という晩年の試論で触れられているヒュポムネマータについて論じていますが、その議論も山本氏にはぜひ読んで欲しい気がします。

そうそう、あと山本氏の議論の内容からいって、なぜアンリ・ルフェーブルの『空間の生産』が触れられないんだろう、ということも疑問に覚えました。山本氏が説明する自然、文化、社会の循環関係のイメージは、『空間の生産』におけるルフェーブルの議論ととても相性が良さそうに思えるのだが。

なお、ウィキペディアで調べたら山本氏は現在はオンライン出版に精力を注いでおり、またブログもやっている、ということがわかりました。
http://hospitality.jugem.jp/?eid=24
↑これによると、続々と書物を公刊する予定であるようです。

空間の生産 (社会学の思想)

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