スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過ち』その二

前回(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070227#p1)のつづきです。

● 第一部第一章 技術進化の諸理論

「技術と時間」というテーマに取り組むその手始めとしての時間のなかの技術という観点から、スティグレールが最初に取り上げるのは、特定の時代における技術の総体を強い内的連関を有したシステムとして捉えるベルトラン・ジルの技術論である。ジルは技術を一つのシステムと捉えることで、それ自身のうちに内的論理を有し、外部からの影響には還元されえない独自の発展原理を有するものとして技術を描き出した。そのようなシステムとしての技術は、経済、政治、文化といった他の社会システムとの間に絶えざる齟齬を生み出しながら、社会そのものに変化への圧力を与えつづけていくものとして理解される。またジルは、技術システムが経済システムと緊密な関係を結び、経済的な動機づけが技術システムの発展を主導的に活性化し始めた近代の産業化時代にも注目するのだが、そこでは同時に形而上学を基礎づけているエピステーメーとテクネーとのあいだの区別もまた根本的に動揺している、とスティグレールは指摘する。というのも近代における産業化された時代においては、経済的な動機に牽引された技術の発展が事後的に科学的知見を増大させていく、という逆転関係が見られるからだ。そこではもはや人間の知が技術を手段として利用する、という素朴な技術観は通用しなくなっている。それゆえこの事態は人間と技術との関係を新しく捉え直すことを要請している、とスティグレールは主張する。

 人間と技術との関係を新しく捉え直す手がかりとして、技術的傾向という技術に内在する不変性から出発して技術と人間文化との関係を論じていく『人間と物質』におけるアンドレ・ルロワ=グーランの議論にスティグレールは着目する。ルロワ=グーランは、一方に技術的傾向の普遍性を、他方に民族文化の地域性を置き、この両者の弁証法を通して次第に技術的傾向のもつ普遍性が現実化していく、という技術的進化の見取り図を提示している。その見取り図において技術は、人間と物質を媒介する、生物にも物質にも還元しえない準?生物学的な組織物として位置づけられており、スティグレールはそのような技術を「組織された無機物」と呼ぶ。ルロワ=グーランは『人間と物質』の二年後に公刊された『環境と技術』においては技術の進化を、民族文化の精神的ネットワークとしての内的環境と、それを取り囲む地理的、物質的な外的環境という二重の環境を通して淘汰されていくものとして描き出している。そこでは、当初は内的環境のサブシステムとして機能していた技術が、次第にそこから独立して技術的環境そのものが民族文化にとっての環境を構成するようになる、という技術進化の流れが想定されている。その進化の先には当然ながら、ジルが技術システムと経済システムとの産業的カップリングとして指し示していた事態の出現が見出されることになるのだが、しかしルロワ=グーランはこの産業化時代に固有な技術の性格を主題的に論じることはできなかった、とスティグレールは断じる。

 そこで取り上げられるのがジルベール・シモンドンの技術哲学である。シモンドンは、産業化時代においては技術の単位が職人から機械に移行し、人間は機械の付属物、あるいは操作技師という地位に追いやられる、と指摘する。この技術単位をめぐる根本的な変化は、技術進化のプロセスがまったく新しい段階に入ったことを意味し、シモンドンは技術の「具体化」という独自の概念を用いてこの新たな技術進化の相を描き出す。シモンドンの言う技術の「具体化」とは、技術のシステムが自身の内部に非決定性を持ち込むことで、外的環境から比較的自律して機能することができるようになることを意味する。そこでは、有機的柔軟性によって多様な環境に適応していく生物が「具体的」なものの範例としてイメージされている。ただし生物が完全に「具体的」であるのに対して、技術には「具体化」への傾向が具わっているのみである、とシモンドンは注意促している。つまりルロワ=グーランにおいてと同様にここでもまた、技術は準?生物学的なものとして理解されているのだ。ところで産業化された時代においては、このような自律性を有した技術が第三の環境を構成するとシモンドンは述べるのだが、スティグレールは、ここにおいてはテクネーとピュシスという形而上学的な二項対立が失効している、と指摘する。

 ジル、ルロワ=グーラン、シモンドンというスティグレールが取り上げていった思想家たちに共通しているのは、その進化論的なパースペクティブであり、その結果として、発明家の天才や民族的天才といった発想は徹底的に批判されることになる。技術は、その内的論理に従いながらありとあらゆる技術的パターンを生み出していき、環境による淘汰を通り抜けていくことで自己と再生産していくものとして理解されている。そこには特権的な天才性のようなものの入り込む余地はない。ただし、技術の進化のプロセスは繰り返し生物の進化のプロセスと類比的に捉えられる一方で、その類比にはどこかに限界がある、という点にもスティグレールは繰り返し注意を促す。技術の進化は準?生物学的なものであり、生物と同じように進化のプロセスを追っていくものではあるが、しかしそれは生物におけるそれとまったく同じであるわけではない。単なる非活性的な物質でもなく、また生命のような有機物でもない。このような技術のステータスをスティグレールは「組織された無機物」と呼び、この第一章ではその進化のプロセスに関する議論が追跡されたのだった。その作業は「時間のなかにおける技術」というこの章の問題意識に対応するものであったが、次には、非活性的な物質でも有機体でもないという「組織された無機物」という技術のもつステータスそのものに問いが向けられていく。そしてすでに示唆されていたように、その問いは不可避的に「時間を構成するものとしての技術」という問題に結びついていく。