プラグマティックな回路

書きたい候補が三つあって、帰り道にすこし悩みました。その三つはそれぞれ、「ちょっと下ネタ」、「よくできたネタ」、「まじめな話」というジャンルに大まかには分けられると思います。が、まずは下ネタ自粛令がまだ有効なので一つ消える。残る二つの選択肢で悩み、ここしばらくのテンションだったら間違いなく「よくできたネタ」を選んだところなのですが、そして帰り道を歩いている段階ではそれを選ぼうと思っていたのですが、でもなんだか気分が沈むので「まじめな話」を書くことにいまさっき決めました。

哲学のひとつのジャンルにプラグマティズムというものがあります。ウィキペディアを見ると、実用主義道具主義実用主義といった風に訳されるらしいですが、個人的には実践主義と訳す方がしっくりきます。ジョン・デューイウィリアム・ジェイムズといった人がその始祖にあたるのですが(ぼくはパースをここに加えるのにはちょっと違和感があります)、哲学というものがソクラテスの時代から始まるのだとすれば、このプラグマティズムはたかだか百年そこらの歴史を有するにすぎない、きわめて若輩だということになります。しかしながら、このプラグマティズムは哲学の歴史の若い一分岐とすることはできません。

哲学の歴史は、つねに超越的な存在の探究として続いてきました。超越的な存在というのは、時間とともに移り変わっていったりはしない存在のことです。たとえば真理や神、といったものがそれにあたるでしょう。ソクラテスがこの超越的なものを思考する道を開き、プラトンがそれを「イデア」として定式化したというのが西洋哲学の第一歩です。

この点からすれば、プラグマティズムは哲学ではないということになります。というのもプラグマティズムは、超越的な存在の探究は不可能である、という点から出発するからです。しかしながらそれは、不可能なものを不可能なものとして追求するという、これまた哲学的な否定神学とはまったく異なっています。プラグマティズムの姿勢は、それが現実にどのような効果を与えるのか、という関心からのみ出発する点にあります。

たとえば「神とは何か?」という古典的な問いがありますが、この問いに対するプラグマティズムの態度は明快です。つまり、「神とは神という観念が現実にもたらす効果のことである」ということです。神が「実在する」かどうかはわかりませんが、神という観念が存在することは確かです。そして現実の世界は、その神という観念に大きく影響を受けています。神という名においてなされた戦争はおそらく数えきれないでしょう。プラグマティズムが理解する神とは、神の実在うんぬんではなく、神という観念が現実世界にもたらしている効果の総体なのです。それは、神は実在する/実在しないという問いのあり方とはまったく別のところに位置しています。プラグマティズムは「神は存在しない」などと主張することは決してなく、端的にそういった問いには無関心であるのです。このことをさらに一般的な次元に言い換えると、プラグマティズムは超越的な次元が存在するかしないのか、それぞれの超越的な存在の本質はなんなのか、という問いには端的に無関心である、ということです。

「神とは何か?」という問いに上のような論理で答えたのは『プラグマティズム』におけるウィリアム・ジェイムズですが、興味深いことにこのジェイムズは神を信じていました。神とは神という観念がもたらす現実世界への効能である、という一見するときわめて醒めた理解を有しながら、一方では深く神に帰依するというこのジェームズの態度は、たんなる現実主義にも見えるこのプラグマティズムの奥深さを垣間見せてくれます。ちなみに「神が存在しないのならば、それを発明すればいい」と述べたというフランス啓蒙時代の代表的思想家ヴォルテール無神論者でした。このことは、啓蒙の理念の中心に位置していた「理性」が、実は裏返された信仰の対象であったということを示唆的に示しているような気がします。特定の信仰を憎むものは、つねに別の信仰に基づいてそれを憎んでいる、というわけです。

と、あいかわらず前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題です。それではこのようなプラグマティズムは、「哲学とは何か?」という問いに対してどのように答えるでしょうか。ここで僕が「哲学」という言葉で意味しているのは、たとえば「人生哲学」という言葉が指し示すような、それぞれの人間が生きていく上での支えとしているような個人的な基本理念のことです。自己の行為を説明する際に、「これは私の哲学です」と述べる時の哲学です。当然ながら、「哲学とは何か?」という問いをプラグマティズムの方程式に代入すればわかりきった答えがはじき出されます。「哲学とは、それが現実世界にもたらす効果の総体である。」

しかしこのように述べるだけではなんの意味もありません。これをさらに具体的にしていこうと思いますが、僕の考えでは、プラグマティズムの発想で考えるならば、哲学には二種類あります。それは、その哲学が自分が生きていくための指針となっている次元での哲学(哲学A)と、それが自分の哲学として他人に語られるという次元にある哲学(哲学B)です。このことを言いかえれば次のようになります。

哲学A:哲学とは、その哲学を有している人が現実世界で実現する行為の総体である
哲学B:哲学とは、その哲学を実際に語ることでまわりから生じた反応の総体である

そしてこの二つが実際に区別されうるということは、誰もが経験的に知っていることと思います。そのひとのいわば「生き様」としての哲学Aが立派であるとしても、それが自己正当化の根拠として実際に語られる哲学Bになってしまうとなんだか急にショボくなる、ということはきわめてありふれてますし、また立派な哲学Bが語られたとしても、そのひとの「生き様」が示している哲学Aがそれにまったくついていっていない、ということもまたきわめてありふれています。

会話の時になにか人生哲学めいたことを語ってしまいそうになる時にこのふたつの区別をつねに頭に留めておくことは、すくなからぬ処世上のメリットをもたらしてくれると思いますが、しかしこの区別がもたらしてくれるのはそれだけではありません。それは、ある種の「孤独」というものをももたらします。というのも、人間が生きていく上での人生哲学というものについて考えるならば、そこで問題となるのは哲学Aだけであって哲学Bはまったく関係のない別の事柄だからです。おなじ哲学という言葉で呼ばれうるのだとしても、この二つはまったく別の事柄であるわけです。そして、実際に人の心に届くのは哲学Aだけだったりするわけで、だとすれば人は、哲学に関しては、それについては語らずそれを淡々と遂行するしかない、ということになります。そして行為は言葉以上に届きにくいものであるのだとしても、そこで生じうる誤解や通じなさといったものを言葉でもって修正しようとすることは、プラグマティズムの欠如でしかありません。実際には、そこで語られることは哲学Aとは別物であるのです。さらに言えば、自分はこういう哲学にもとづいて生きているのだということをことさらに誇示しようとするための行為もまた、おそらく哲学Aとは別物でしかありません。それを誇示する行為は、そこで誇示されるはずの哲学Aとはべつのしょぼい哲学にもとづいていることは間違いないでしょう。これが、哲学の「プラグマティックな孤独」と僕はいま名付けたものです。人生哲学という意味での哲学は、それをまさに実践しているという場面においてのみいわば透かし彫りになるだけであり、そこに弁明の機会を望めばとたんにそれは消え去ってしまう。哲学のこの「プラグマティックな孤独」というものも、やはり誰しもが見覚えのあるものだと思います。プラグマティズムは、誰もがいつも現実に起こっているのをみているものを、その通りに定式化しているにすぎないのです。

なんだかそろそろ面倒になってきましたが、ここで黒沢清の『回路』という映画の話になるのです。この前も書きましたが、この映画、これみよがしな説明部分がやたらと気に障る。「この映画の深遠なテーマはまさにこれですよ」と繰り返しセリフのなかで主張される。つまり言いたいことは、上で哲学Aと哲学Bについて述べたことは、芸術作品にも同様に当てはまるということです。テーマの「説明」が哲学Bであるとすれば、テーマの「表現」が哲学Aにあたると思いますが、人の心に届くのは後者だけである、というのが古代からの真理であると思います。

ただ『回路』に関して言えば、哲学Aと哲学Bの区別をしっかりと保持するならば、そこに見出される哲学Bはその映画そのものが表現している哲学Aとは厳然と区別されるべきであるのだから、そこで実際に語られている哲学Bのことはとりあえず括弧に入れて、その映像の表現そのものがどのような哲学Aを表現しているのか、というところに注目するのが筋なのでしょう。

しかしながら忘れてはならないのは、「プラグマティックな孤独」は、それが人生哲学であれ芸術作品であれ、表現者にのみかかわるものではなく、その受け手の側にも同様の孤独が課されるということです。哲学の場合は、「あなたの哲学はこうですね」と語ることは勘違いも甚だしい。そのひとの「生き様」が表現する哲学Aに対しては、その人を好きになったり信頼したり憎んだり距離を置いたり愛したり無視したり、といった、これまた自分自身の哲学Aを動員した「応答」が要求されるわけで、その「応答」がどうしてそのようであるのかということを、言葉で説明することは哲学Aと哲学Bが区別される以上は勘違いでしかありません。受け手もまた、「プラグマティックな孤独」から逃れることはできないわけです。

芸術の場合も同様に、この作品の哲学Aはこうである、としたり顔で説明することにはなんの意味もありません。ここでもやはりまずは、好きになったり信頼したり憎んだり距離をおいたり愛したり無視をしたりといった態度から出発するしかないのでしょう。しかし、ただそれだけでこと足りるのでしょううか。確かなことはいえませんが、哲学の場合にもそれは当てはまるのかもしれませんが、芸術の場合にはより強く、それについてどうしても語りたくなる、ということがある気がします。しかし哲学Aと哲学Bの厳然たる区別を理解するならば、その欲望は「プラグマティックな孤独」と正面からぶつかり合うことになります。ものの道理として、解決策は次のようになるしかないでしょう。つまり、芸術作品について語る際に、自分がそこから受け取った哲学Aを説明するのではなく表現する、ということです。

とすれば芸術作品についてなにごとかを語りたくなった場合には、自分もまた作品を作らなければならないのでしょうか。しかし誰もが芸術家であるわけではありませんし、それにそもそもそこに結実するのが新しい芸術作品であるのだとすれば、そこに表現されているのはまた新しい別の哲学Aであるはずなので、自分が受け取った哲学Aを新しい芸術作品において表現するというのは原理的に矛盾しています。とすればやはり、ある芸術作品について、ほかならぬその哲学Aについて語りたいと思う時、ひとは絶望するしかないのでしょうか。

この問いに対して僕は確固とした答えをもっているわけではありません。ですが、さしあたりは芸術作品の哲学Aについて語るという「プラグマティックな孤独」との不可能な対決の行為に、ごくひかえめに「批評」という名前を与えておくことぐらいはしておこうと思います。そのような「批評」というものが実際に存在するかどうかはまた別の話です。プラグマティズムはあの「孤独」をぼくらに課してくる一方で、それが実際に存在するのかしないのかという次元とは別のところで、その「孤独」への対決であるところの「批評」という言葉もまた存在することを許してくれるのです。