ジャック・ランシエール "Malaise dans l'esthetique"その2

はいはい、宿題のお時間がやって参りました。長くなってしまい残りは次回に回してしまったランシエールの本の感想のつづきです。前回(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070129#p1参照)はカントの批判哲学との関係を見ていくことで、ランシエール特有の美学=感性学と芸術の捉え方を理解するための基本的な図式を描き出したところで終わってしまったのでした。しかし実際には、その図式でだいたいのことは言われていて、あとはランシエールが具体的に論じていることが、その図式の中でどこに位置するのか、ということを当てはめていけばいいだけです。

ランシエールの『美学=感性学の居心地の悪さ』は大きくは三部に分けることができます。それぞれの機会でなされた講演を集めたものらしいですが、「美学=感性学」というテーマについて論じているという点では共通しており、それゆえどの部分も、前回見た図式の中に位置づけることができます。と、とりあえず簡単に振り返っておくと、ランシエールにとっての「美学=感性学」とは「感覚可能なもの」と「感覚不可能なもの」との境界に関するものであり、芸術はその境界を組み替えるものと理解されています。

さて、『美学=感性学の居心地の悪さ』の第一部は、「美学=感性学の政治」と題されており、そこではまず、芸術に対する二つの立場が対比されます。一方は、芸術をそれ以外の領域から純粋に切り離して理解しようとする態度で、その現代における代表者としてリオタールが挙げられていたように思います。もう一方は、そのような芸術の特権視を批判し、芸術を社会における実践の一つとして社会の文脈の中に位置づけようとする態度であり、その代表者としてはブルデューが挙げられていた気がします。この両者は、「感覚可能なもの」と「感覚不可能なもの」という対立軸に対して、対照的な態度をとっています。前者は、芸術を一般的な「感覚可能なもの」の外部にあるものとして、つまり「感覚不可能なもの」として設定し、後者は芸術を「感覚可能なもの」として規定された領域の内部における、「感覚可能なもの」のひとつの表現として理解しようとするわけです。キーワードを挙げると、前者の発想に結びつくのが「崇高さ」、後者に結びつくのが「ハビトゥス」といったところでしょうか。そしてこの二つの態度が、一見すると正面から対立しているようではあるけれど、実は「感覚可能なもの」と「感覚不可能なもの」の境界に関わるものとしての美学=感性学を排除しているという点では一致している、とランシエールは主張するわけです。

ただ、ランシエールはこの二つの発想をともに批判するわけですが、そのウェイトは微妙にちがっているように思います。簡単にいえば、リオタール的な発想、すなわち「感覚不可能なもの」に芸術の根拠を見出す発想の方には救い出すべき部分がある、と考えているようです。というのも、ブルデュー的な発想が芸術というものを「感覚可能なもの」の内部に回収してしまうのに対し、リオタール的な発想は少なくとも「感覚可能なもの」と「感覚不可能なもの」との差異を前提としているからです。その上で、ランシエールはもう一つの芸術実践上の立場を引き合いに出します。それは「関係的芸術」と呼ばれるもので、具体的にはアトリエを飛び出し街に出ていくような芸術のことが念頭に置かれているようです。その芸術実践は、芸術と非芸術という境界を取り払い、作品がたんなる対象として鑑賞に供されるのではなく、作品によってひとつの「状況」を作り上げるものとして構想するものであるようです。そして無理矢理にまとめてしまうとランシエールは、リオタール的な芸術理解、すなわち「感覚不可能な」崇高なものに関わるものとしての芸術と、街に出て「状況」そのものを生み出そうとする芸術との〈あいだ〉に、しかるべき芸術理解というものを見出しているように思います。つまり、「崇高さ」という概念が体現するある「還元不可能性」を、たんに芸術の祭壇に祭り上げるのではなく「感覚可能なもの」と「感覚不可能なもの」との境界を組み替えていくために社会的な関係のただなかにおいて展開する必要がある、という発想です。実際にはいろいろな固有名が出てきますが(なんとかゴダールとかなんとなボルタンスキーとか)、その辺はよくわからないのでざっくり割愛。

第二部は「モダニズムアンチノミー」と題されており、簡単にいえば、バディウ批判とリオタール批判です。リオタール批判の要諦についてはすでに触れたので、ここでは簡単にバディウ批判について超訳でお伝えすることにします。結論から言えば、ランシエールによるバディウ批判は、「バディウの芸術観は姿を変えたプラトニズムでしかない」というものです。ランシエールが述べるところによると、バディウはリオタール的な「崇高さ」の概念ではなく「理念」というものを引き合いに出し、芸術をその絶対者としての理念の瞬間的な顕現へと還元してしまっているそうです。この発想においても同様に「感覚可能なもの」の彼岸としての「感覚不可能なもの」が絶対視され、さらにバディウの場合は、作品の具体的な肌理や物質性はおろかそれぞれのジャンル特性もまったくおかまいなしに、どれもが十把ひとからげにある「理念」を垣間見せるものとしてしか捉えられないそうです。つまり、肉体と魂という二元論が持ち込まれており、それぞれの作品という肉体は、「理念」という魂のいわば不純な乗り物でしかない、というわけです。ほんとにそんなこといってるんでしょうかねえ、バディウ氏。ほんとだったら、ランシエールが批判するまでもなく問題ありありだと思うんですが。ちなみに、作品と理念との関係ということでいえば、少し前に感想を書いたベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義の芸術批評の概念』とも大きく通じるのですが、ただしベンヤミンの場合は、理念の顕現を、たんに作品のみに見出したのではなく、作品に客体化された形式における、その作品に引きつづく批評の運動のうちに見出す、という複雑な手続きが踏まれています。まあここにも問題はあると思うんですが、でもやっぱりベンヤミンはすごいですねえ。

第三部は、「美学=感性学と政治の倫理的転回」と題され、そこで「倫理的転回」と呼ばれているものが批判されることになります。より具体的には、アウシュヴィッツという出来事にどのように接しうるのか、という問題が一つの争点になっており、アウシュヴィッツを表象不可能なもの=「感覚不可能なもの」として聖別し、そこに倫理的絶対者といったものを設定してしまうという態度が「倫理的転回」の代表例として挙げられています。さらに具体的には、クロード・ランズマンの『ショアー』や、再びリオタールの「崇高さ」の概念が、そのような「倫理的転回」の代表として槍玉に挙げられます。この批判は、ほんともっともだと僕も思うんですよね。ただ、このような「倫理的転回」的なものへの批判の先駆者は、あきらかにデリダと言えるでしょう。迂闊にも、というか誰でも通る道というか、大学時代にレヴィナスにちょっとハマって倫理倫理吠えていた僕の目を覚ましてくれたのはデリダでした。ゲーテさんは、「人は自分が抜け出したばかりのあやまちにもっとも厳しい」といいましたが、まさにその通りで、「表象不可能なもの」とか「絶対的他者」なんてことをナイーブに叫んでいる人を見ると、僕は無性に腹が立ってくるのです。それならば、むしろ「大文字の他者」の方がまだ許せます。実際には倫理的な「絶対的他者」もラカン的な「大文字の他者」も表裏一体の関係にあってどっちも問題だと思うのですが。

ランシエールの「倫理的転回」っていうのは、いわゆる「後期」のデリダも念頭にあるんでしょうかねえ。本文中にはデリダの名前は挙げられていないのですが。後期のデリダは、レヴィナスの大きな影響から「倫理」な感じの方面に向かっていったみたいなこともいわれたりしますが、これも本当でしょうか。レヴィナス的な絶対的他者に対して、「暴力のエコノミー」を説いたのは他ならぬ『エクリチュールと差異』におけるデリダでした。僕の見るところ、レヴィナス的な他者といわゆる「後期」デリダの他者は、実はけっこう違う気がします。簡単にいうと、レヴィナス的な他者は非歴史的であるのに対し、デリダ的な他者は徹底的に歴史的である、ということ。この辺は、いま読んでる"Mal d'archive"が非常に面白いので、たぶん読み終わったら感想書きます。あと、エコノミーに関しては、『エコノミメーシス』についても感想書こうと思っています。

と、ちょっと脱線してしまいましたが、最後にまとめというか、自分の問題意識に引き寄せてちょっと書きます。ランシエールの美学=感性学の方向性っていうのは、『不和』に見られる政治論と合わせて、僕にとっては非常に説得的に響きます。ただ同時に、技術の問題を考えることなくしてランシエール的な美学=感性学の問題を理解することはできないと思っています。たとえば、「感覚可能なもの」の選別には、メディアというものがきわめて大きな役割を果たしているのはまちがいないと思うですが、ランシエールの美学=感性学にはその辺の話がぜんぜん触れられない。というよりも、『美学的=感性学的無意識』などを読んでも、ランシエールは基本的に「感覚可能なもの」を芸術の領域におけるエピステモロジーのように捉えているんじゃないだろうか。実際には、社会的な事物が、象徴的な承認を得る以前に、そもそも舞台に上がるためにはなんらかの物質的な次元で姿をあらわす必要がある。メディアで扱われない対象は社会的にそもそも存在しないも同然となり、それゆえ政治的な争点になる可能性を、人口に膾炙している表現を借りるならば「環境」の次元ですでに排除されることになります。ランシエールの非常に魅力のある美学=感性学の観点を、昨今(なのか?)はやりの環境管理型権力うんぬんの問題と結びつけるためには、とにかく技術の問題を考える必要がある、と僕は考えており、またまたですが、その際にはベルナール・スティグレールの議論がもっともクリティカルだと思っています。ちなみにスティグレール自身も、ランシエールの問題設定を評価しながらも、そこでは技術の問題が忘却されている、と批判的にコメントしています。