[倫理] 子猫殺しの常識

もはや「旧聞に属する」というやつですが。

作家の坂東眞砂子氏が新聞紙上で子猫殺しを告白、というのをきっこの日記が批判的にとりあげ、それが発端になったのかどうかはわかりませんが、雑誌などでも取り上げられたし、当然ながらブログでも多く言及されているようです。が、僕にはどうも気持ち悪い。
ちなみに僕が最初に読んだのはこれ↓
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20060820

きっこの日記は、坂東氏に対してまさに激越な調子で非難をしていましたし、直近の日記でもとりあげています。
http://www3.diary.ne.jp/user/338790/
坂東氏を非難するその調子に、僕はどうにも気持ち悪さを覚えずにはいられませんでした。

「ことのは」の件に関して一度ここにも書き込みをしていただいたBigBang氏もそのことについて書いていたことに気づき、読みました。そしてそこでもまた、僕は気持ち悪い思いをしました。
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/08/post_ff71.html

ぼくは坂東氏の行為に賛同するわけではないですが、かといって単に非難することは躊躇してしまいます。むしろ、賛同はしないけれども、ある形で「認める」というような態度に近いかと思います。

先に触れたBigBang氏は、「なぜ殺してはいけないか」ということの理由を述べています。

その本当の理由は、おそらく生態系の必然にある。つまり、捕食を除いて、他の生き物の生をコントロールすることは、元来この世界は許されていない。この「許されていない行為」を強行すれば、かならずその反作用を引き受けなければならない。自分に帰ってくる。精神的、あるいは肉体的に、その本人を痛めつける。その痛みを選択するなら、それはマゾ的快感でしかない。

こうやって殺してはいけない理由が説明されていますが、これが気持ち悪い。finalvent氏のコメントなどに押されて、「これはだめ、これはいい」という決疑論がいくつか繰り出されていますが、やはりどうにも苦しいし、気持ち悪い。

僕の態度ははっきりしています。「なぜ殺してはいけないか」。そんなことは常識だからです。

「殺してはいけないというのは常識である」

これ以上でもこれ以下でもありません。常識(common sense)というのは、なにかの根拠があるわけではありません。ただそれが通用しており、通用しているがゆえに正しい、ただそれだけのことです。その正しさは最終的には無根拠であるわけです。たとえば坂東氏は一種の弁明として次のように語ったらしいです。

私は、子猫を殺しているだけではない。鶏も殺して食べてもいる。ムカデも、蟻(あり)も、蚊も殺している。生きる、という行為の中に、殺しは含まれています。それは、高知の自然の中に生きている人たちにとっては自明の理ではあるでしょうが、都会生活の中では、殺し、という面は巧妙に隠されています。今回のエッセーは、生と死、人にとって、さらには獣にとって生とは何か、という一連の思考の中から出てきたものです

蚊は殺していいが猫は殺してはいけない、こんなことは常識です。そして常識以外のなにものでもなく、それゆえ根拠などありません。

ベンジャミン・リベットという人の有名な実験によると、人間の決断は、それが意識される以前にすでに下されているとのことです。その実験に関する要約を見つけたので貼っておきます。

米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットは、人間が何かを決意してから、意識するまでに0.5秒のタイムラグがあることを実験で証明した。人間が何かをしようとする直前に、脳には「準備電位」というシグナルが発生している。準備電位が発生した瞬間こそ、何かをしよう(背中を掻こうとかコップを手に取ろうとか)と決意した”今”なのだ。その今から遅れて0.5秒後に、その決意が意識にのぼる。人間には自由意志というものはなくて、無意識が決めた後に意識が承認するだけということになる。http://72.14.235.104/search?q=cache:lwhInP65c-4J:www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html+ベンジャミン・リベット&hl=ja&ct=clnk&cd=10&client=safari参照

このようにある判断が意識的な決断以前につねにすでに下されているとするならば、倫理や道徳といったものはいったいどこにあるのか。すくなくとも、〜ゆえに〜をしてはいけない、といった意識によってなされる論理的判断は完全に蚊帳の外にあります。そしてここからが僕の意見ですが、倫理や道徳というものの場所とは、意識的な判断やその判断を支える論理ではなく、常識として沈殿しているほとんど無意識の反応図式です。

常識から逸れるものに対する人間の反応というのは、意識的な価値評価ではなく条件反射的な嫌悪感であり、また常識的だと判断される事象に対しては、たんに「当たり前」だと反射的に判断されるだけで批判的検討がされることなどはほぼありません。かといって常識は、太古に与えられそのまま永遠に不変であるのではなく、時代とともに変わっていくものであり、そしてそれを変えていくのは人間にほかならない。一方で常識は人間の価値判断の根底を構成し、他方で人間が常識を再構成していく。倫理や道徳というものの場は、ここにしか存在しない。論理づけというのは、場合によっては必要な迂回かもしれないが、しかし倫理と道徳が可能となっている場そのものではないわけです。

だからこそ倫理や道徳は、なんらかの論理づけによって安心しうるものではないわけです。それは単に通用するものであり、それ以上でもそれ以下でもなく、最終的には無根拠である。しかしときには、その常識が動揺することがある。たとえば、今回の坂東氏の件がそうです。この場合、本質的には二つの道があります。1、常識の観点から排除弾劾する。2、悩む。ちなみに僕は、論理づけによる常識の正当化というのはこの1の態度の変様体であると理解しています。常識の方が論理よりも根源的であると考えているわけです。むろん、きっこの日記の態度が1であり、BigBang氏の態度がその変様体である、というのが僕の見方です。

ぼくは坂東氏の文章を読んだ時、反射的に「作家的だな」という感想を覚えたのでした。坂東氏は自分の行為を正当化しているというよりは、たんに常識には根拠がないとある意味で開き直っているだけです。そしてその無根拠さから出発するという開き直り方が「作家的」だと感じられたのであり、そして僕は「命の問題」について現に悩み始めるはめになったのでした。

結局のところ僕は、この件に関しても「殺してはいけない」という自分の奥底に住みついている常識から出発するしかないわけですが、同時に坂東氏の振る舞いとともに、その常識には最終的には根拠がないということにも直面せざるをえません。常識への依拠と、その常識の無根拠性、この両者を両立させるのは当然ながら原理的に不可能であり、だから解決はない。だから、小飼弾氏が述べているように「常に悩み続ける」というのが、やはりどうしても基本態度にならざるを得ないだろうし、どうあがいてもそこに帰ってきてしまう。

この設問に対する「正しい」スタンスは、「常に悩み続ける」しかないと思っている。この設問を無視するのも、この設問に一般解があると主張するのも、どちらも「命を粗末」にしているのではないか。http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50607943.html参照

小飼氏のこの姿勢には、基本的には賛同です。だが、これではまだ弱い。

小飼氏は格差社会について触れているべつの記事につぎのように書いています。

結局全体状況と個別の処方箋では、個別の処方箋の方が優先なのは、格差社会に限らず社会問題の真理である。http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50613002.html

命の問題について「常に悩みつづける」しかないという結論は、おそらくここでの「全体状況」の俯瞰ということにあたるでしょう。しかしより重要なのは「個別の処方箋」であると小飼氏自身が述べている。では、この場合の「個別の処方箋」とは何にあたるのか。

結論から言ってしまうと、それは子供との関係である、と僕は思います。別の言葉を使えば、教育、ということです。たとえば父親である小飼氏は、自分の子供に対して、命の問題に関して根源的に「悩む」という姿勢を見せるのか、それともたんに「殺してはいけない」と教えるのか。ここには、二つの賭けが存在します。

そこにおいてもあえて「悩む」という姿勢を貫くのだとすれば、自分の常識そのものが覆され、しかもそのことを受け入れるということに賭けることを意味します。たとえば子供は何の抵抗もなく「殺してもいい」という結論を導き、そのまま大人になっていくかもしれません。そしてその結論が間違っているなどという絶対的な根拠は存在せず、たんに自己の(そしてあるいは社会の)常識と背馳する、ただそれだけのことです。ただそれだけのことですが、それはほとんどすべてです。子供の前で「悩む」ということは、すべてを子供に委ねることであり、そこからの帰結をすべて受け入れなければならない。それがひとつの賭けです。

もうひとつの賭けは、「殺してはいけない」と自分(そしてあるいは社会)の常識を押し付けることです。そして常識とは無根拠であり、無根拠でありながらそれを宣言する。これが、教育という名のひとつの賭けです。

むろん常識が生産され再生産されていくクリティカルな場面というのは教育の場に限られるわけではなく、社会のあらゆるコミュニケーションはそのような場面でありえます。常識を常識として受け取り通用させ、一方でそこから逸脱する行為を非難するというそれだけのことで、ひとびとは常識というものの生命に参与しているわけです。そしてその参与において、つねにすでにひとは絶対的な無根拠性へと迂回している。つまりわたしたちが依拠している常識の根本における無根拠性への迂回がそれであり、すなわちそれぞれのコミュニケーションがつねに一種の賭けである、というわけです。

坂東氏の振る舞いとそれについての文章は、この賭けの無根拠性というものを暴露しているという限りで、ぼくはそれを「認め」ます。もちろんそこにたいして自分がどのような「賭け」を行なうかはまた別の問題であるわけですが。

ちなみに、finalvent氏がこの件にちらっと触れながら結局は通り過ぎてしまっていますが、氏の意見も聞いてみたいところです。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060826参照