追記

hokusyuさんから返答がいただけたので
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060306#c
それについて追記。

「「歴史から学ぶこと」の困難」というタイトルがつけられていますが、まさにその通りだと思います。またそれに関連することですが、あるイデオロギーや前提とされたアイデンティティーを補強するためだけに歴史を利用する、あるいはそれに役立つ限りでの歴史しか認めようとしない、ということは往々にしてあることだと思いますし、今回の「町山/関東大震災」問題に関する論争でも、それに類すると思われる書き込みが多く見られたように思います。

一方で歴史はたんに既成のアイデンティティーを補強するだけのものでもないように思います。むしろその逆に、既成のアイデンティティを動揺させる媒体としても歴史は働くことがあるように思います。と、この場合、歴史という言葉はちょっと適切でないかもしれません。歴史的事実とするのがいいでしょうか。歴史はすでにある統一性に即して物語られてしまったものなので。

とすると、かなり単純化すると歴史というものに対して二種類の態度があるといえるような気がします。
・既成のアイデンティティー(物語)を正当化するために歴史を利用する。
・そういった物語にはおさまらない歴史的事実に目を向けていくことで、自明のものとなっていた物語を動揺させる。

いわゆる「歴史修正主義」というのが前者ですね。この姿勢は、しかし結局のところ歴史的事実そのものに目を向けるわけではなく、すでに用意されていた物語に当てはまる限りで事実を受け入れる一方で、都合の悪い事実からは目を背けるわけです。

では後者の姿勢はどのようなものか。これは単純で、既成の物語にとって都合が良かろうと悪かろうと、とにかく事実に目を向けていく。その結果として、既成の物語が補強されるかもしれないし、逆に動揺するかもしれない。けれど、そのような結果そのものは本質的ではありません。可能な限り歴史的事実に正面から向き合っていくという姿勢そのものが重要であるわけです。

ある状況においては、「本当にあったことを検証しなければならない」というスローガンのもとで歴史に対する上の態度の見分けがつかなくなるということがあるかもしれません。それに上に挙げた二つの態度のうち後者の姿勢でもって歴史に接するという人でもやはりなんらかのアイデンティティーは持っているはずで、そうすると場合によっては自分のアイデンティティーを揺るがすような歴史的事実に向き合わなければならないこともあるはずです。とすればそこには当然ためらいや戸惑いが生まれるでしょう。だから実際には、二つの態度はそれぞれのひとのうちで程度の差はあれ絡み合っているのだと思います。

で、finalvent氏においてはどうだったかと言うと、僕は後者であると理解したのですが、しかしそのこと自体はいまは問題ではありません。いかなる場面においても、「本当にあったことを検証しなければならない」というテーゼは守られるべきだと思います。いわゆる「歴史修正主義者」の問題点は、このテーゼをスローガンとして掲げながら、実際にはそのテーゼを厳密には運用せずに、自分の信じる物語にとって都合のいい事実が現れそうな領域のみに限ってそのテーゼを掲げることです。しかし、真にこのテーゼを徹底することは、「歴史修正主義者」の恣意的なそれとは違い、つねに既成の物語(アイデンティティーの根拠)を動揺させるきっかけを生みつづけることにつながるものだと僕は思っています。

僕の場合で言えば、関東大震災時における朝鮮人の虐殺を「異者の排除」のシンボルとして受け取ることはきわめて自然なことでしたし、それをめぐって論争が起きた際に「虐殺などなかった」と書き込む人たちの存在に暗鬱な気分になったものでした。それはおそらくhokusyuさんの「歴史修正主義者」たちに対する怒りと通じるものだと思います。finalvent氏のエントリに「ルワンダ虐殺と関東大震災朝鮮人虐殺とは異なる」というタイトルが見えたときにも同じような印象を受けましたが、その後、考えが変わりました。この僕にとっては、関東大震災における朝鮮人の虐殺が「異者の排除」という図式には当てはまらないという解釈のほうが衝撃的で、いわば僕のアイデンティティーを動揺させるものでした。というのも、歴史を歪曲して自分の見たくない事実から目を背けていると思っていた、僕の忌み嫌っていた人たちの言っていることにも一抹の真実が含まれている可能性が生じたからです。しかしだからといって彼らが全面的に正しいなんて事はなくて、結局はいくらかは正当でありその他はそうではないのでしょう。その線引きは、まさに事実そのものを洗っていく中でしか引くことはできないのだと思います。そして歴史的事実をみつめていくその過程は、僕の一種のアイデンティティーが動揺する過程ともなると思います。ここで動揺しているものは、hokusyuさんに「歴史修正主義者」を批判させているものといくらかは近いものがあるような気がしますが、まあそれは勘違いかもしれません。

ただ少なくとも僕は、歴史的事実を検証していた結果、関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺が本当に「異者の排除」という構図を持っていたとしたら、心底ほっとします。なにか歪んでいますが、実際そうなのだから今のところは仕方ありません。そしてその厳密な事実を、あの虐殺事件では「異者の排除」は存在しないといっている人たちに喜んで突きつけると思います。しかしいずれにせよ、準拠すべきなのはいかなるアイデンティティーでもなく事実であるべきだ、と考えています。