コミットメントと理性

ふたたびNakanishiBさんからトラックバックをいただきました(http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20070305/1173913588)。このような「繊細な」問題に関して自分がどこまで責任の持てる発言をできるのかという点についてははなはだ心許ないところはあるのですが、自分にとってはすこしづつ視界が開けている感触もあるので、NakanishiBさんの度量に期待してもう少し書いてみたいと思います。

NakanishiBさんは、コミットメントという要素を再三強調されるのでそこからはじめますが、まず、Apemanさんへのコメントでも書いたつもりですが、僕はこの問題にまったくコミットしていないとは考えていませんし、当然そのようなことは不可能であるわけです。たとえば日本人として生まれついた時点で、ある特定の歴史的文脈のなかにつねにすでに投げ込まれてしまっているわけであり、そこではそもそも「歴史認識」に対する中立などというものは事実として不可能です。このような次元でのコミットメントを、さしあたり「原理的コミットメント」と呼ぶことにします。

僕は記事のなかで具体的「コミットメント」に対する「距離」を再三強調してきたのですが、そこで念頭に置かれていたのは「原理的コミットメント」のことではありません。僕が繰り返し強調していたのは、「事実関係」に関する判断における「コミットメント」の宙吊りです。というのも、自分には具体的な判断を下せるだけのバックグラウンドはなかったからです。すくなくとも、「ちょっとした反省」という記事で書いた通り、「事実関係」に関して少しでも判断を下すことは当面は避けた方がいいと考えたため、「語用論的リアリズム」ではその姿勢を貫いたつもりでした。とりあえず、「事実関係」に関して具体的判断を下すという形でのコミットメントを、「事実判断コミットメント」と呼ぶことにします。

前々回の記事では、「事実判断コミットメント」に関しては距離を置きながら、「語用論的リアリズム」についての一般論を、「事実関係」に関する議論のプロセスのありかたと結びつけることで、いわば間接的な「コミットメント」を行なった、という形になるかと思います*1。ところで、前回述べたように僕はこの一般論を「理性的推論」という形で展開したつもりでした。それゆえ、その妥当性についての判断そのものは、さしあたり「事実判断コミットメント」とは無関係に、すくなくとも無関係であるという積極的な擬制のもので下されうるものだ、という風に思います。

たとえば、「南京事件が存在したという必然性はなかった」という主張から「南京事件が存在する可能性はなかった」と結論を導き出す、という論理を展開している人がいた場合、いったん「事実判断コミットメント」を中断して、「Xが存在する必要性はなかった」から「Xが存在する可能性はなかった」を導き出せるかどうかを、「純粋に理性的に検討する」、ということは可能かと思います。そしてそこでの「理性的検討」そのものは、あきらかに「事実判断コミットメント」には無関係です。が、間接的には、「事実判断コミットメント」を巡る全体的なコミュニケーションの行方には関係することになります。

「事実判断コミットメント」と「理性的検討」というのは、基本的にステータスの異なるものだと思います。さしあたり要約的に対照してみると、前者が具体的な判断を下すのに関し、後者はたんに間違えた道筋をたどらないための予備的な作業の役割を果たす、ということになるかと思います。前者の議論で混乱してきた場合に、いったんそこでの具体的な判断を宙吊りにして、「理性的検討」を通して冷静になれば避けることのできた間違いを発見しそれを修正する、という役割分担があるわけです。いうまでもないことかと思いますが、こうした区別もまたあくまでも「理性的検討」としてなされているものであって、さしあたりは具体的な判断とは関係ありません。むろんここで主張されている「無関係性」というのも、いわば社会的な構築物であり、たとえば先ほど例に挙げた「非必然」→「不可能」という推論に対する一般的な見地からの反論も、「ぐだぐだ屁理屈こねるんじゃねえ!!」と一蹴されるということも十分にあり得るわけですし、またそれが当然であるような状況というのもあるでしょう。しかし僕としては、できるかぎりは具体的判断から「無関係」な「理性的検討」の領域を残して置いた方がいいのではないかと考えており、またその考え方はそれなりに広く受け入れられるのではないか、と期待しています。

とにかく、「語用論的リアリズム」に関する記事では、その「説得力」の問題は置いておくとして、ここでいう「理性的検討」の領域で考えてみようとしたのでした。NakanishiBさんは僕が一年前に書いたものを引き合いに出しながら次のように述べています。

率直に言えば、私がわざわざ自分の一年前のエントリーを引っ張り出してきたのは、今回のvoleurknknさんの行動と、今度の行動には明らかに共通点があり、それは危険だよという意図があったわけです

NakanishiBさんがそこに「共通点」を見出しているというのは、僕にも納得できることです。ただ、少し腑分けするとよりわかりやすくなるかと思います。

「語用論的リアリズム」についての記事では、「事実関係」に準拠するということは前提に置きつつ、それをどう伝えていくかという点では「理性的検討」という観点から「語用論的リアリズム」を提示する、という構成になっており、またコメント欄でも「事実関係への準拠」という出発点は(さしあたり)共有した上で、「語用論的リアリズム」の方に焦点が当たっていました。他方、一年前の記事では、「事実関係への準拠」という出発点が重要である、という主張が(今回よりは書き方に遥かにノイズが入っている*2とは思いますが)主になっています。このように、表面的に見れば一年前と今回とでは焦点が違うのですが、しかしNakanishiBさんが見てとられたように、この両者には明確な共通点があります。それは、どちらもが基本姿勢としては「事実判断コミットメント」から距離を置き「理性的検討」の次元で考えようとしていることです。

一年前の議論に限定して「事実という準拠」にのみ焦点を当てるならまた話は別ですが、NakanishiBさんは、一年前と今回との「共通点」に明確に焦点を当てています。このことから推論して、NakanishiBさんが問題としているのは、「理性的検討」という「予備的作業」の領域を具体的な判断という場面からさしあたり「無関係」なものとして設定する、という態度である、ということになるかと思います。むろん、「理性」というものはギリシャ的ロゴスという特定の歴史的布置のなかにあるものであり、それを超歴史的な絶対的審級である、とするのはかなりナイーブな主張だと思いますが、しかし僕としては以前にも述べたように、「理性」を具体的判断にはさしあたり「無関係」なものとして担保する、という擬制を現時点では積極的に擁護するという姿勢をとっています。またそれゆえ、「非必然」→「不可能」という推論に対しても、「理性的推論」という中立の立場から反論します。具体的判断には「無関係」な理性への準拠をもし共有できないのであれば、「コミュニケーションの不確実性」は(ネットのようなメディアにおける「議論」というコミュニケーションにおいては)格段に上昇してしまう気がしまいますが、しかし現実がそうであるならばやむを得ません。

と、以上のところは、NakanishiBさんが三度の追記において「実際に」書かれていることをできるだけ「真面目に」受け取った場合の議論なのですが、しかし断片的に現われている「トーン」からすると、どちらかといえば「事実への準拠」の方に焦点が当たっているようにも受け取れます。以下は、NakanishiBさんの書かれていることに関し自分なりの多少踏み込んだ解釈に基づくものなので、その点ご容赦ください。

歴史認識」に関しての議論をほんのわずかですが自分が読んでいった限りでは、「事実への準拠」そのものが問題となる、というケースは比較的稀であるという印象を受けました。たとえばそこで「否認」に向けられる基本の姿勢は「断片的な資料からの「ありそうもない」結論の導出、資料の恣意的な解釈、一面的な見方といったものを、あくまでも「事実への準拠」にもとづいて一つ一つ批判していく」というのがそこでは主である、と。おそらくその限りでは、NakanishiBさんも「事実への準拠」というものを問題視することはないと思いますし、むしろそれを積極的に支持するかと思います。

しかしその一方でNakanishiBさんは、具体的なことは書いていませんが、「事実への準拠」が否定的な機能を果たすという場面を明らかに意識されているように思います。ではそれはどのような場面であるのか。僕の乏しい知識から仮に推測してみますと、たとえば次のような場面ではないかと思いました。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070321#p3
ここでは、あくまでも検証を通して解明されていく「事実」に定位する歴史家の立場と、記録には残らない声にこそ耳を傾ける必要があるとする社会学者の立場との対比が語られている、と僕は理解しました。引用します。

なかった派と議論するためにはどうしても、吉見さんたちの議論に倣っていくしかないような気がします。しかし「なかった派と議論するため」という条件をアプリオリな前提としてそれだけ考えるのでは、真実から逸れていきます。死者は語らない。つまり過去には証言不可能なブラックホールが多数ありそれらを現在にもたらすことは不可能である、そのような不可能性を背景にしてだけ、議論というものは成立している、こうした感覚を見失わないことが大事だと思います。

この上の主張(と現状認識)は、基本的にはその通りだと思います。しかし、もうすこし付け加えてもいいかと思います。

ここでは検証可能な「事実」と「証言不可能なブラックホール」とが対比されているわけですが、その中間に「証言者」という存在もいるかと思います。で、個々の具体的な「証言」が述べる内容というのは、ほとんどの場合には「客観的検証」というのは不可能であるわけです。とすると、「客観的検証の可能な事実」と「客観的検証の不可能な証言」とが二つの極をなすように見えますが、しかしこれはけっしてそんなことはありません。というのも、「客観的検証の可能な事実」の集積は、「客観的検証の不可能な証言」に少しずつではあれ信憑性、あるいは「蓋然性」を賦与するからです。たとえば、映像記録あるいは加害者の自白、などがないかぎり、その「証言」の内容そのものを「客観的に検証」することは不可能であるわけですが、「客観的検証の可能な事実」の集積から、そこで「証言」されているようなことがさまざまな場面で起こったことは十分にありえそうなことである、ということは間違いなくいえるわけです。「事実」と「証言」を切り離された両極として捉えてしまうと、前者においては「検証できるかできないか」、後者においては「信じるか信じないか」ということになってしまい、たとえば「証言」を信じない人に対しては一方的に「信じろ」と主張したり、また「証言」そのものを「捏造」として単純に「信じない」というそのどちらかになってしまいます。しかし「事実への準拠」は、「証言」を「信じる/信じない」という、きわめて個人的信念に依拠せざるをえない二者択一ではなく、「信憑性」や「蓋然性」という、ある程度の客観性を担保した次元で議論することができるようになると思います。NakanishiBさんが念頭に置いているのは別のことなのかもしれませんが、すくなくともそれ自体は客観的に検証することのきわめて困難な「証言」というものに接するに際しても、「事実への準拠」は基本的な、それこそ規範的な原則として考えても差し支えないのではないか、と僕は考えています。

とすれば問題は、「事実への準拠」ではなく、「客観的に検証可能な事実」以外は認めない、という態度であるかと思います。たとえば、すこし議論の範囲が狭まってしまいますが、仮に「裁判モデル」というものを考えることができるでしょう。法律については僕はぜんぜん知らないのですが、とりあえず、原則としては被疑者は「無罪」であるということを前提として、充分に検証可能な証拠が集まらないかぎり「有罪」にはならないということになっている、と僕は理解しています(実態はわかりませんが)。そこでは、証明されなかった行為は、擬制として存在しなかったものとされるわけです。この「裁判モデル」は、一般的な刑事裁判の場合には妥当なものなのだろう、と僕は何となく理解しています。しかし、この「裁判モデル」を「歴史認識」の問題に持ち込む、ということがしばしばなされているように思います。「政治的決着」や「国家による賠償」に関しては僕はまったく見識を持っていないのでなんともいえませんが、しかしすくなくとも倫理的、道義的観点から言えば、この「裁判モデル」の流用はきわめて問題のあるものだと思います。

さて、ここでは「裁判モデル」をより柔軟に解釈して、「客観的に検証されなかった事実は存在しないも同然として扱う」という発想であるとします。もう長くなってしまったので結論を述べますが、実は問題であるのは「事実への準拠」ではなく「裁判モデル」の流用なのではないか、ということを僕は言いたいわけです。「事実への準拠」そのものは、原理的に検証困難な「証言」と対立するものではなくむしろその「信憑性」を担保するものですし、また「証言不可能なブラックホール」に関する想像力の足場ともなるものです。当たり前ですが、僕は一度たりとも客観的に検証可能なもの「のみ」を相手にするべきだとは主張していません。あえてここで強い主張をするとすれば、まさにそれそのものは検証困難な「証言」を救うためにこそ、可能な限り検証可能な「事実」を蓄積していくべきだ、ということもできると思います。「証言」が「救われる」のはそれに耳が傾けられる時だと思います。そして不幸にもそこに耳を傾けるような環境にないのだとしたら、「事実」の蓄積を通してその「証言」に間接的な信憑性を賦与し、耳を傾けやすい環境を作り上げていく、というのが当然の手順であると思います。これはまさに「語用論的リアリズム」の観点からいってそうです。

「証言」を一方的に「信じろ」と主張することは、たとえそれが「正し」くとも、結果としてうまく行かなければ「証言」は救われないことになります。しかしそこに「語用論的リアリズム」の意識を持ち込めば、いったん検証可能な「事実」へと迂回し、間接的に「証言」の信憑性を高めることによって、より「証言」が救われやすい環境をつくっていく、という戦略が有効であるだろうといった判断が生まれるのはありそうなことです。というか、こんなことはすでに多くの人がとくに考えなくてもやっていることだと僕は見てとりました。そのことはすでに前提としながら僕は、「事実」を伝えるという段階においても「語用論的リアリズム」は要求される、というこれまた当たり前なことを「理性的検討」を通して書いたわけです。

以上の文章は、「歴史認識」に関する議論のなかにはなんらかの形でコミットしているわけですが、しかしおそらく容易に理解していただけるように「事実判断コミットメント」は基本的には行なっていません。たとえば僕の議論では、「事実」の集積があるいくつかの「証言」の「信憑性」を覆すという可能性をまったく排除していません。このように「事実判断コミットメント」を宙吊りにした上で、「「歴史認識」という問題に「裁判モデル」を持ち込み議論をそこに還元してしまうことには大きな問題があり、検証を通して集められた事実は検証困難な証言の意味を排除するわけではなく、むしろ「証言」の信憑性を間接的に裏付ける(あるいは覆す)」という主張を行なうことがナンセンスであるのならば、この件に関して僕にはなんら発言権はないことになると思いますし、この主張に関しても「存在しないも同然のもの」と扱っていただいて結構です。

ながながと書いてしまいました。
繰り返しますが、以上の話は「事実判断コミットメント」(これは個人的な「事実判断」というよりは、「事実判断をめぐる」コミットメントということですが」)にほとんどコストを払っていない人間にどれだけの「説得力」があるのか、という問題に関しては完全に棚上げして書いています。ですから

ですが、このような設定と手続きは「具体的な言説」に常に即しながら行われなければならないのです。

ということが、「説得力」の確保に関して述べられているのであれば、そのご指摘に関しては真摯に受け止めます。もうそうでなく、「理性的推論」というのを具体的コンテクストとは「無関係」だとする発想そのものに関して述べられているのだとすると、とりあえずソクラテス以来のスパンに準拠し時間をかけて考慮します。また、「事実への準拠」がもたらす否定的な側面についてNakanishiBさんの念頭に置かれている場面というのが、上に挙げたような「証言」を巡る、あるいは「裁判モデル」を巡る問題とはまったく別のものであれば、ご指摘いただければ改めて考えてみたいと思います。

*1:このような姿勢が「説得力」においてどうなのか、という問題はひとまず置いておきます

*2:より正確に述べれば、実際には「ディベート的」な振る舞いとしてではあれ、「事実判断コミットメント」に少し足を踏み入れてしまっている、という点です。この点は「語用論的リアリズム」の観点から一手と反省材料です。