欲望

● 『欲望の現象学』 ルネ・ジラール
「外的媒体」/「内的媒体」・・・セルバンテススタンダール
欲望の三角形の二つの在り方→超越的な欲望の主体として偶像化される他者と内面化され意識からは排除される他者。
「欲望とは他者の欲望である」というこの欲望の三角形の理解としてはラカンの方が遥かに徹底しているが、ジラールが行っている「外的媒体」と「内的媒体」の区別はそれとして有用。欲望の主体としての主体かの二つの在り方、つまりまなざしに対する二つの態度。
まなざしの本当の主体=欲望の主語にたいする崇拝と、欲望の主語としての自己という幻想への執着。
・・・ここには明らかに、近代的主体(=内面)との相関関係がある。
=近代的主体の形成という契機はすなわち欲望の直接の主語という幻想の出現であり、これが可能となるためにはそもそも欲望を可能にしていた他者の存在は抑圧されねばならない。
運命悲劇から登場人物の動機に基づく近代小説。
● ニクラス・ルーマン『社会の芸術』 第二章 「セカンド・オーダーの観察」P141あたり。
小説の中で、登場人物の動機というものがクロースアップされる。ダブルコンティンジェンシーというゼマンティックの萌芽。
また、まなざしに対する態度の進化論的メタ化

アリストテレス詩学、物語としての筋と、登場人物の行動
● ウンベルト・エーコ 『開かれた作品』 第五章 「偶然性と筋」P250あたり。
ただ、『ドンキホーテ』をたんに「外的媒体」の事例としてあげるのには当然反論が予想される。『ドンキホーテ』の後半では、ドンキホーテの欲望(アマディース=騎士道物語)が、作品内で「外的媒体」とドンキホーテとの齟齬が生じてきている。
● ミシェル・フーコー 『言葉と物』
それゆえむしろ、『ドンキホーテ』は素朴な『外的媒体』の在り方からの離脱の瞬間として捉える方が適切だろう。

テレビスターへの崇拝は、もちろん『外的媒体』にちかい。マスメディアと『外的媒体』の相関関係。
→ アドルノフロイトろんにおける「抑圧的脱昇華」が連想される。
● スラヴォイ・ジジェク 『快楽の転移』 第一章 P33あたり

ジラールにはやはり主体化の議論が見られない。「内的媒介」における他者への「憎しみ」はラカンの文脈で明晰に理解できるだろう。→フェティシズムとファルス=欲望が存在しないということの隠蔽
また欲望の「媒体」としての他者も、より抽象度を高めて「大文字の他者」へと広げる必要があるように思える。そうすることで、主体化をある社会的な境界との相関関係において捉えることができるように思う。