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読書感想文を書きます。
お題は中野昌宏著『貨幣と精神ー生成する構造の謎』
たまたまみつけた
http://d.hatena.ne.jp/arg/20060402/1143988779
で、上記の本が出版されたことを知りました。中野氏のサイトは以前何度か覗いたことがあったのですがずっとご無沙汰をしていたので驚きました。とにかく、リンクをたどって出版を知らせる中野氏のサイトに飛ぶと、自著の説明と併せて本の目次も細かく載っていたのでした
http://nakano.main.jp/blog/archives/2006/03/post_57.html
ここにも目次だけ転載します(目次は著作権関係なかったはず)。
目 次〉
序 章 課題と方法??「下からの秩序」とその〈創発〉??
1 本書の主題
2 本書の戦略
3 本書の構成
第I部 貨 幣
第1章 傾性論と懐疑論??社会秩序と貨幣の起源
1 秩序問題
(1)三つのアプローチ
(2)二つの解決策
2 例 題??貨幣の起源問題
3 事前から事後へ
4 特殊から普遍へ
第2章 目的論と機械論??経済学的人間観
1 経済学的人間観
2 機械論的計算の困難??計算量の問題
3 目的論的計算とケインズのタイム・パラドックス
4 限定合理性からフレーム問題へ
5 先行研究の評価とわれわれの見通し
第3章 マルクスと貨幣??資本の論理
1 マルクスの「客観」価値説
2 「回り道」と「論理の移行規定」
3 「転倒」の内実
4 ラカンの導入
第II部 精 神
第4章 ラカンとファルス??象徴界の構造化理論
1 現実界・象徴界・想像界とシェマL
2 隠喩と換喩
3 クッションの綴じ目
4 想像的/象徴的去勢
第5章 主体と〈他者〉??主観と客観,構成主義と実在論
1 自我の分割
2 主観と客観の二元論
3 現象の奇妙な「リアル」さ
4 素朴実在論への退行??イーグルトンの場合
5 〈他者〉はいかなる意味で「超越(論)的」か
第6章 超越論と脱構築??「否定神学」批判の陥穽
1 「否定神学」批判を検討する
2 郵便物の誤配は郵政公社を前提しないか
(1)ラカン対デリダ
(2)錯誤に基づく真理
3 理論家の課題
第7章 聖なるものと構造??ラカンの貨幣論
1 モース対レヴィ=ストロース
2 構造主義の方法??言語学と数学
3 聖なるものの〈力〉再び??純粋贈与・贈与・交換
第III部 貨幣+精神
第8章 論理と運動??否定から疎外へ
1 自己言及と〈創発〉
2 時間を産出する論理/構造
3 疎外と分離??欲望の欲望へ
4 構造の創発、すなわち「否定」の創発
第9章 生命と機械??意識と無意識の双対的共立
1 オートポイエーシス??コンテクストの学習についての
2 媒介者の「選択」としての「判断」
3 否定から時間形式の産出へ
4 内部観測と精神の計算
第10章 小括と展望??もしくは次なる探求の序章
1 小括??〈創発〉に関する一般論
2 展望(1)??「近代」と「一元化」の必然性
3 展望(2)??「近代」と「定量化」の必然性
注
あとがき
文献一覧
事項索引
人名索引
でまあこの壮大な目次に惹かれて関心を覚え、その次の日くらいにたまたま池袋のジュンク堂に行ったらこの本が目に入りました。この日はもとから買う本が決まっていてそれ以外のものは見ないようにしようと思っていたのですが、目に入ったものは仕方がない。ということで座って最初の方を読み始めたのでした。とそのうちにはまってきて、しかも買うはずだったほんのうちの一冊が在庫がなくて買えなかったので、代わりにこっちを買ったのでした。はい、ここまでは枕。
まず一言でいうと、良くも悪くもめちゃくちゃわかりやすい。少なくとも、一度でもジジェクにかぶれたことのある人ならばそうです。ジジェク=ラカン流の「精神現象学」でもって秩序の生成を解釈する、というこの一言に尽きるんじゃないでしょうか。となればその応用の手際だけが問題になる。その点では非常に明快で、ドライブするように読めて面白かったです。
テーマは、秩序はいかにして創発するか。といってもここでの「秩序」という言葉はとりあえずはいくらか狭い意味で使われていて、宇宙の秩序とかそういうのではなくて、間主観的な秩序のことだといっていいと思います。その間主観的な秩序を象徴するものとして貨幣が取り上げられ、だからひとまず問いはいかにして貨幣は成立するのか、という点に集約されます。これが第一章の貨幣の巻。結論だけいってしまうと、貨幣という次元は構造的早とちりとでもいうべきラカンの「論理的時間」を通して成立する、ということになります。眼目は「早とちりだから実体がない」という意見に対しては、その早とちりが構造的かつ不可避であることを示し、「現実として存在しているんだからそれでいいじゃないか」という意見には、「論理的時間」という創発の次元を示す、という点なんでしょう。
で、上の早とちりの構造性というか不可避性というものを、そもそもの人間の精神の成り立ちから説明する、というのが次章の精神の巻。とまあここはジジェク=ラカンのとてもわかりやすい解説です。そのわかりやすい解説以外で新味のあるものとしては、まず更なる応用と、あとは代理論争とでもいいますか、ジジェク=ラカン的な立場から他の批判者に論駁している部分です。まあ前者の応用はほとんど簡略解説に含まれてしまいそうなので、この後者の部分だけが新味があると言っていい気がします。
ちなみに、目次を読んで僕が一番惹かれたのは「ラカン対デリダ」のところでした。ここは前から気になっていましたし、また目次からして明らかに東浩紀が念頭に置かれています。東浩紀のあまりにしょぼいデリダ理解に対する拒否反応というのは僕には以前からあって、またそれとは別に、「宛先に届かない」うんぬんというデリダによるラカンに対する批判にもちょっと?があったので、ジジェク=ラカン派という著者のポジショニングからして面白いことが書かれてあるだろうと見当をつけていたのでした。
結論。まさに期待どおりでした。まあこんなことを書くとアホだと思われそうですが、自分が考えていたことを自分が考えていた通りにきれいに明晰にしてもらったと感じ、とりあえずこの部分だけでも元は取れたかなと思いました。ただし、「自分が考えていた通り」というのは東浩紀のしょぼい誤解についてと、ラカンに対するデリダの誤解についてであって、デリダそのものについての解釈に関しては僕はまったく違う考えをもっています。
議論のポイントはきわめて簡単です。「手紙は宛先に必ず届く」と述べたラカンに対してデリダは「手紙は届かないこともある」と述べるわけですが、このすれ違いは原因は次の点にあります。デリダは「宛先」というものをあらかじめ想定された地点として捉えているがラカンはそうではない、ということです。ラカンの場合、「届いたところが宛先なのだ」ということなんだと思います。とすれば原理的に手紙が届かないはずがない。手紙の到着は、「自分のところに手紙が来た」という想像的なできごとなのです。
ただこのようにいうだけではまだ誤解の余地がありそうなので補足を。このとき届くのは特定の意図というようなものではありません。「届いたところが宛先なのだ」というのは、特定の情報のはいった手紙がどこかわからないところに届けられるということでもありません(ちなみにこのイメージは東浩紀の郵便空間にかなりちかい)。それでは情報自体を実体化しています。つまりラカンの手紙において起こるのは、transmission(伝達)ではなくtransfert(転移)であるわけです。ジジェク=ラカン派の著者にとってはあまりにも当たり前のことなので書かなかったのかもしれませんが、ここは勘違いされやすそうな気がします。とにかく、「デリダとラカン」に関する東浩紀批判としては中野氏の議論で僕は必要かつ十分であると思いましたし、むしろこんな当たり前のことが今までいわれていないということの方が驚愕です。
とにかく、ジェットコースターのように楽しめる本ではあるのですが、不安な点もあります。経済学の話や分析哲学の話や内部観測の話など僕の疎い分野もばさっとジジェク=ラカンで総括されていて心地よいのですが、以前、内田樹氏がこんなことを書いていました。一冊の本のなかで、自分が少しは知っている領域に関して曖昧な記述があれば、その他の部分にも同様の曖昧さがあると見てまちがいない、と。『貨幣と精神』のなかではフッサールについても触れられていますが、そこでの「一人称」と「三人称」という言葉の使い方を見ると(p84)著者がフッサールの「現業学的心理学」と「超越論的現象学」との関係をちゃんと理解していない疑いが非常に高いと感じました。簡単にいえば、「超越論的現象学」において見いだされる超越論的主観は、世界のなかに存在するのではなく世界そのものを構成するものとして考えられている、ということです。まあなんともいえませんが。いずれにせよちょっと不安になりました。
さて、では全体の企図としてはどうか。つまり秩序の創発というものを根源的に考察するという企図において、この本をどう評価するか。正直にいえば、僕は懐疑的です。その理由を要約すると、この議論だとすでに精神が存在しているという条件で貨幣なり何なりという大文字の他者の創発を説明することはできても、ではそもそもの精神はどのように出現したのか、という創発については説明できません。どのように大文字の他者が出現するのか。それは精神そのものの運動による。ここまではいいです。では、どのように精神が出現したのか。これについては答えられていません。すくなくとも、全宇宙が一つの精神なのだ、ということを前提としない限りは(まあジジェクは『身体なき器官』でオートポイエース全般をヘーゲル=ラカンで説明しようとしてますが、これはどうなんでしょうか)。
とすると、中野氏の議論は創発一般についての理論とはなりえません。あくまでも精神というものを弁証法的構造もつものとして仮定した上で、大文字の他者の創発を説明しうるだけだという気がします。ただ、創発一般ではなく大文字の他者の創発という点でいえば、僕自身もジジェク=ラカンのラインで七割から八割くらいは妥当なんじゃないかと思っています。が、のこり二、三割がどでかい意味をもつことになるのかもしれない。僕にとってはそこは技術論の領域です。差し当たり中野氏には、今のラインからさらに創発一般にまで触手を伸ばしてもらってどこに限界があるのかをぜひとも探り出していただきたいと思っています。
なんだか無責任に放言してしまった気がしますが、これがだいたい一読しての素直な感想でした。