twitterとアテンション・キャピタル


有限なものがあるところには、必ずエコノミーがあります。たとえば鉱物資源であれば、埋蔵量も、発掘に必要な資本(生産資本や労働資本)も、流通システムが許容する流通量も、精製能力も有限であり、さまざまな配分=エコノミーがそこに生じることになります。あるいは少し前に将棋に関して書いたように、人間が有する時間は有限であるため、そこにはさまざまな配分=エコノミーが存在します。

有限な資源の節約=配分としてのエコノミーは、そもそも人間という存在が有限であるがゆえにあらゆるところに存在し、それらは必ずしも狭義の経済に関わるではありません。しかしその一方で経済システムの進化は、さまざまなエコノミーを次から次へと狭義の経済、つまり貨幣を媒介とする経済へと組み込んでいきます。大まかには、第三次産業(あるいは第四次、第五次産業)は、物質的な資源に限定されない、人間の生活にまつわるあらゆるエコノミーを貨幣経済に組み込んでいくものである、と言えるかもしれません。

認知資本主義(cognitive capitalism ; capitalism cognitif)という言葉は、資本主義の発展における最新の段階を示すものだと言えると思います。はてなキーワードの説明がやたら充実していますが、自分なりに乱暴に要約してしまうと、IT環境によって、コミュニケーションや情報処理といったものが微細に扱っていけることになったことによって生じたエコノミー、といったところかと思います。知やアイデアといったものが経済的な生産性の中心に位置しはじめたのは何も今に始まったことではないですが、それらが近年のIT技術の発展によって新たな段階に入った、とするのが認知資本主義という概念なのだと思います。

ではどういう点でそれは新しいのか、ということなのですが、少し前にベストセラーになったクリス・アンダーソンの『フリー』で紹介されていた「フリーミアム」という考え方が参考になるかと思います。もちろん、商品のサンプルを無料で配ってその商品の認知度を上げる、ということは昔からされていました。しかし、ソフトウェアのように商品が純粋にデータという形式をとっている場合、頒布に際しての限界費用(最低限必要とされるコスト)が限りなくゼロに近くなり、そこには新たなビジネスモデルが可能になります。具体的には、ソフトウェアの基本機能はすべて無料でダウンロードして使えるようにし、そのなかで5%の人が追加機能のためにお金を払ってくれれば、ソフトウェア開発に投資された資本が回収できる、というモデルです。

詳細については本を読んでもらうとして、フリーミアムのモデルで面白いのは、そこではエコノミーの場所が決定的に移動している、という点です。人々のアテンション=注目を集めるということはこれまでもつねに重要でした。ただしそこには必ず、アテンションを集めるための狭義のエコノミーが存在していました。たとえば化粧品のサンプルを配るのには人件費も含めて相当のコストがかかるわけで、アテンションを集めるためには、まずはそのための資源の投下に際しての配分=節約というエコノミーが介在したのでした。しかしアンダーソンが紹介しているフリーミアムという戦略が体現しているのは、それとはまったく異なる事態です。

ネット上でソフトウェアを頒布するという場合、そこでの限界費用は限りなくゼロに近くなります。このことはつまり、そこにはエコノミーが存在しない、ということを意味します。正確に言えば、そこではエコノミーの場所が移動します。というのも、ソフトウェアを頒布することそのものにはもはや有限性は足かせとはなりませんが、今度は、そのソフトウェアに向けられるアテンション=注目の有限性が前景化してくることになるからです。

一人の人間は一日に24時間しかもっていません。広い意味でのデータの頒布に関する有限性が取り払われると、今度は人間がもっている時間の有限性がエコノミーの舞台として現れてきます。感覚的に書いてしまいますが、かつては人々には時間が余っていて、相応のコストを払えば人々のアテンションを集めることができました。しかし今では人々に時間は余っておらず、それゆえアテンションを集めるためのハードルはどんどん高くなっているように思えます。単純な例ですが、ネット上でのブラウジングやコミュニケーションで忙しくテレビを見る余裕がない、という人は急激に増えているかと思います。ネット上で無料のデータが大量に流通することによって、そのデータが占有しようとする人間の意識の有限な時間こそが、もっとも希少な資源となってきているわけです。

と、検索してみたところ、東浩紀氏による「アテンション・エコノミー」についての簡潔なまとめがありました。

デジタル技術の発達によって情報財の複製コストがゼロになり、価値が希薄化する一方で、情報に対する注目(アテンション)は有限なので、相対的に稀少化する。したがって、希少資源である「アテンション」が、情報財にかわって価値の基準になるという考え方だ。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000245.html

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さて、今回の記事の目的は、以上のアテンション・エコノミーという観点からtwitterを考えてみるということです。おそらくそれに近いことは多くの人がすでに考えたり書いたりしている気がします。ここでの記事の肝は、エコノミーのあるところには必ずキャピタルがあるわけだから、アテンション・エコノミー(注目経済)があるのだとすれば、当然そこにはアテンション・キャピタル(注目資本)も存在するだろう、という発想です。twitterを考える上で、アテンション・キャピタルという発想はけっこう有効なんじゃないか、という主張です。

前置きまでを書いた段階で、書きたかったことの大半が実はもう書かれてしまっているというのがこのブログでの記事でよくあるパターンなのですが、今回もそうであるようです。結論から言ってしまえば、twitterにおけるフォロワーの存在は、おおむねアテンション・キャピタルとして理解できるのではないか、ということです。

twitterでのフォロワー数は、ブログの固定読者数やメーリングリストの登録者数とは根本的に異なる性質をもちます。ブログやメーリングリストがある情報を伝え(う)るものであるのに対し、twitterでの140文字という制約内で可能であるのは、他人の注意を喚起することだけです。挨拶などが示しているように、コミュニケーションの基底にあるのは注意喚起です。twitter上でのコミュニケーションというのは、つまるところ際限のない注意喚起の連鎖であり、フォロワー数というのは、その注意喚起の連鎖のポテンシャルを示すものであると思います。

きわめて大雑把に分けて、注意喚起には以下の二つの種類があります。
1)二人称の注意喚起
=私を見て
2)第三項への注意喚起
=あれを見て
twitterは、無視すること/されることの心理的ハードルを極端に下げることで、二人称の注意喚起連鎖の接続可能性を著しく高めました。正確には二・五人称とでも言うべき微妙な距離感を生み出すことで、TLを介したヴァーチャルなコミュニケーション感を醸成している、ということだと思います。そこで確立されている、(一定程度)活性化されている二人称的な注意喚起連鎖のチャネル上に、ことあるごとに第三項への注意喚起が流通していきます。この後者の種類の注意喚起がもっている重要性を端的に示しているのが、twitterにおける短縮URLサービスのプレゼンスだと思われます。

twitter上でのつぶやきはそれぞれが注意の喚起であり、ユーザーの有限な時間を占有しようとしています。そこにはアテンションを巡るエコノミーが存在しているわけです。そしてそこでのアテンションの配分をコントロールしているのが、ユーザーがそれぞれ有しているアテンション・キャピタルです。おおまかには、twitterで行われている営為のある側面は、有限なアテンション・リソースの総量を、それぞれのアテンション・キャピタルを有するユーザーたちが奪い合っているの図、として理解できるのではないかと思います。

このような発想の延長線上で、いろいろなことを考えることができます。たとえば一口にアテンション・キャピタルとは言っても、その内実は単純にフォロワー数の多寡で計れるのかという問題があります。実際には、アテンション・キャピタルの内実はそれぞれのケースを大きく異なっているはずです。思いつくだけでも、アテンション・キャピタルとしてのフォロワー数の質を計るための変数として以下のものが挙げられるかと思います。
a) フォロワーのうち、何人がアクティブなユーザーで何人がゴーストユーザーなのか(bot含む)
b) つぶやきで貼ったURLからリンク先へどのくらいの頻度で飛んでくれるか
c) 積極的にRTするフォロワー数はどのくらいか
d) 自分のフォロワーをフォローしている人数はどのくらいか

第三項への注意喚起という観点からすれば、フォロワー数のうちの実効的な部分はb)の率で計ることができます。これに関しては、短縮URLサービスで統計をみればある程度はかることができます。またc)、d)の数が多ければ、自分が有するアテンション・キャピタルは、フォロワー数の見かけ以上に大きくなります。こういった要素を分析して、各ユーザーのアテンション・キャピタルを精査してくれるプログラムがあったらニーズはあるだろうと思います(きな臭くなりますが)。

twitterのビジネスモデルがどうなっているのか僕は知りませんが、いずれにせよ、貨幣のエコノミーに組み込まれるか否かの以前の段階で、アテンションをめぐるエコノミーがすでに強力に作動しています。そしてそのエコノミーは、もちろんtwitter内に限定されているものではなく、ustreamSNSはもちろんのこと、現実世界でのコミュニケーション・リソースや有名性という資本などが深く絡みあっているわけです。とたえばつぶやき内で貼られたURLにフォロワーが飛んでくれるかどうかには、twitter外で作り上げられた信頼が大きく関わってくることになると思います。

とりあえず、現実は相も変わらず複雑きわまりないわけですが、少なくともtwitterというサービスを理解する際には、アテンション・エコノミーとアテンション・キャピタルという考え方は役に立つのではないか、と何となく考えているのでした。

以上。

動画コンテンツとコミュニケーション ――テレビからニコニコ動画へ

このところ、メディアとコミュニケーションの関係について色々書いてみているのですが、またその続きです。今回は、動画コンテンツとコミュニケーション、といったより限定的なトピックについて考察してみたいと思います。メディアとコミュニケーションに関する一般理論については、すでに別記事に紹介したように、ダニエル・ブーニューの『コミュニケーション学講義』が激しくおススメです。

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動画とコミュニケーション、というとおそらく多くの人がニコニコ動画を連想するだろうと思います。かくいう自分も、このテーマで少し考えてみようと思ったその出発点には、ニコニコ動画というサービスの存在がありました。ただしニコニコ動画をもってはじめて動画コンテンツがコミュニケーションと結びついた、と言いたいわけではありません。というのも、実はそれ以前にテレビがすでに(相当程度に)コミュニケーションの原理に従って機能するメディアであったからです。

ここでいきなり話が飛ぶようですが、インターネットでお手軽に動画を見ることができるようになったあたりから、ということは要はyoutube以後ということですが、「テレビの終焉」ということがしきりに叫ばれています。youtubeが公式に公開された2005年は、竹中平蔵大臣主導で「放送・通信の在り方に関する懇談会」が開催された年でもあり、おそらくこの辺りが大きな転換点だったのかもしれません。放送と通信が共通のインフラのうえで融合することで、もはや一方通行の「放送モデル」に依拠するだけではテレビはやっていけない、というような認識がこの頃から一般化されてきたように思えますし、それに実感レベルでも、テレビをほとんどつけることなく、動画はほとんどネット経由で見るという方向に、人々の、とりわけ若い人々の意識は動いていっているように思えます。

しかし同時に、youtubeやその他の動画サイトで視聴される動画のほとんどが、既存のマスメディアで放送されたコンテンツがアップロードされたものである、というのも厳然とした事実でした。誰もがたとえばyoutubeという、物理的にはマスへと届きうるマスメディアを手に入れ、「自分自身を放送する」ことが可能となったのだとしても、結局は本当に面白いものはテレビ局なりが資本を投入して制作されたものだろう、と多くの人が考えていたように思えます。もしそうだとするならば、動画サイトはあくまでも寄生的な地位をしか占めることができません。人々が見たいと思うコンテンツを制作するのはやはりテレビ局であり、動画サイトはグレーなやり方でそれらに寄生するだけだ、というわけです。

僕自身も最近まではそのような考え方をもっていました。しかしこのところ、急激に考えが変わってきたのでした。そのきっかけは、最初に上げたニコニコ動画と、あとはustreamについての生中継です。これらのものを見るにつけ、やはり「テレビの終焉」という言葉は思っていたよりも真剣に受け取る必要があるのかもしれない、と考えるようになったのです。なぜか。それを説明するためにも、メディアとコミュニケーションという問題を考える必要があるのです。

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先に上げたブーニュー本の監訳者である水島久光は『テレビジョン・クライシス』という本のなかで、テレビというものが以下に日常生活のなかに埋め込まれることで機能していったのかを論じていました。「お茶の間」という言葉が象徴するように、テレビは一般家庭でのコミュニケーションプロセスのなかで重要な役割を果たしていましたし、また「番組プログラム」は人々の時間の流れを構造化していました。テレビというのは、いわば「いつもそこにあるもの」という身近さとともに人々の生活に寄り添っていたわけです。

しかしデジタル化は、そこに根本的な変化(の可能性)をもたらしました。同じ水島氏は、別の論文で次のように書いていました。

かつて日常生活においてテレビは映像を独占的に提供してきた。しかしパッケージメディアの普及、家庭用PCの飛躍的機能向上、ブロードバンド化が相俟って、映像の流通環境は決定的に変化し、テレビ番組はこうした数多の映像コンテンツのなかで、そのワン・オブ・ゼムの位置にまで格下げされた。
(水島久光「テレビと技術 テレビジョン分析の現在」『テレビジョン解体』、慶應義塾大学出版会、所収、68,69頁)

そして

放送が「番組」と呼んでいる制作物は、そのような流れの中で実態としては時間・空間的コンテクストから切り離されて商品として流通可能な「コンテンツ」として扱うことが可能になりつつある(実際に、放送番組の制作者たちが、既に自分たちの制作物を「コンテンツ」と呼び始めている。
(同上、69頁)

テレビで放送される映像が、「番組」から「コンテンツ」へとステータスを変えるというのは、その映像が日常生活の時間の流れから離脱することを意味します。毎週決まった時間に放送されるドラマは日常のリズムを形作るという機能を持っていますが、それがコンテンツとしてDVD化されたとき、その映像はそのような日常の文脈からは切り離されることになります。

しかし考えてみれば、そもそもテレビ番組の多くは、コンテンツとして脱文脈化されることには適していません。それは、テレビというものが基本的には日常の時間の流れの中の、視聴者によって共有される集団的な「いま・ここ」で視聴されるということを前提として制作されているからです。それゆえ映画とは異なってテレビでは多くの場合、まずは挨拶や自己紹介といった「いま・ここ」のコミュニケーションを起動する、というモードによって番組がスタートするわけです。

テレビ番組には、ニュースやワイドショーなど、どうやっても日常の時間性から切り離してコンテンツ化することが不可能な番組群が一方にあり、ドラマやドキュメンタリーなど、コンテンツ化に相性のいい番組群が他方にあります。これら二つの番組群は、同じくテレビというマスメディアによって放送されているわけですが、実際には互いにかなり異なるモードで受容されている可能性が高いと考えられます。

ここでは乱暴に、コンテンツ化不可能な前者を受容する態度を「コミュニケーション的受容」、コンテンツ化可能な後者を受容する態度を「コンテンツ的受容」と呼ぶことにします。ブーニューの議論に即するならば、前者は「わたしたち」というある閉域をともなう「閉じた受容」であり、後者は逆にそうした「閉じ」に動揺させる「開かれた受容」とも言いかえることができます。「コミュニケーション的受容」が、あらかじめ存在すると信じられている「わたしたち」を安心させるものであるのに対し、「コンテンツ的受容」は、それが希有な可能性であったとしても、自分自身の価値観や世界観に変化をもたらすということがありえます。

もちろん、「コンテンツ」と「作品」を区別し、消費的態度と愛好者的態度(これはスティグレールの用語ですが)という観点からその区別を根拠づける、ということも可能でしょう。しかしここではその問題には立ち入らないことにします。

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このようにテレビを見るという行為が、少なくとも二つの異なる側面を有しているのだとすれば、「テレビの終焉」と述べる際にも、この二つの側面をともに考慮する必要があります。わたしたちがテレビを通して「コンテンツ」を享受しているのか、それとも「コミュニケーション」を享受しているのかによって、テレビとともに終わるものの内実が大きく変わってくるからです。たとえばワイドショー番組しか見ない人間にとってと、ドキュメンタリー番組しか見ない人間にとってでは、「テレビの終焉」の意味はまったく異なります。一方にとっての「テレビの終焉」が、他方にとってはまったくそうではない、ということも十分にあり得るのです。

それゆえ、「テレビの終焉」というものを主張する際には、「コンテンツ供給者」としてのテレビと、「コミュニケーション供給者」としてのテレビ、というものを区別するべきであると僕は考えます。たとえば現代の新たなテクノロジーが、「コミュニケーション供給者」としてのテレビは用無しにしつつあったとしても、「コンテンツ供給者」としてのテレビに関してはそれはあたらない、という可能性もあるわけです。

と、ようやく今回の考察のために必要な道具立てが整ったところで、「テレビの終焉」というものについて僕がもっている暫定的な結論を先取り的に述べることにします。それは、

ある種の「コミュニケーション供給者」としてのテレビの役割は、かなりの部分で新たなメディアテクノロジーによって代替される可能性があるかもしれない。他方、「コンテンツ供給者」としてのテレビの役割ということでは、原理的に代替されえない部分が多く残りつづけるだろう

というものです。今回の記事では、「コミュニケーション供給者」としてのテレビの役割の終焉というものの可能性に焦点を絞ってみたいと思います。

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僕はニコニコ動画のきわめてライトなユーザーであり、その変化の動向を細かく追っていたというわけではまったくないのですが、しかし傍から遠目で見ているだけでも、このサービスがたどった軌跡というのはきわめて興味深いと確信して述べることができます。

怠け者根性を遺憾なく発揮して、特に調べることもなく大まかな自分感覚で述べてしまいますが、ニコニコ動画というサービスの変遷は個人的には三つのステップぐらいで理解できるのではないか、と考えています。

■ 第一期(コンテンツ寄生期)
半ば無法地帯状態で、限りなくブラックに近いグレーな動画が次々とアップロードされていた時代。

■ 第二期(ネタ・コミュニケーション期)
グレーな動画がかなり厳しく排除されていくなかで、少しずつ個人発信の動画が育っていった時代。

■ 第三期(実況・ミュニティー期)
生放送など新たな発信機能を実装するとともに、コミュニティー形成を促す環境を用意し始めた時代。


もちろん実際にはいろんなことが同時に進んいたはずなのですが、とりあえずそこは脇に置いておきます。きわめて乱暴なこれらの区分になかで、決定的な一線が越えられたのは、第一期から第二期の移行であると考えています。というのも、第一期はテレビや映画などの別のメディアから流用されたコンテンツにいわば寄生する形でサービスが成立していたのに対して、第二期以降では、ニコニコ動画の内部で相当程度自律的にコミュニケーションが生み出される、という段階に入ったと考えるからです。

第二期から第三期への移行は、ニコニコ動画内で生成される自律的なコミュニケーションの構造化、として理解できると考えています。おおまかに説明すれば、動画というコミュニケーションのネタへの「wwwww」という匿名的な発言の集積という段階から、それらのコミュニケーションがコミュニティーとして構造化される段階へ、という違いです。もちろん、コミュニケーションは必然的にコミュニティーを作り出すものですが、第二期から第三期への移行は、ニコニコ動画内で自律的に生成されていったコミュニケーションが形成し始めたさまざまなコミュニティーの萌芽を、ニコニコ動画アーキテクチャとして取り込み構造化していった、ということなのだと思います。

僕は当初、ニコニコ動画著作権問題に厳しく対応するようになり、テレビや映画のコンテンツが一斉に消えていった時点、正確にはその少し後の段階では、これで「ニコ動」も終わりかな、と思ったりしていたのでした。正確には、少数のヘビーユーザだけが延々と内輪のコミュニケーションを繰り広げていくだけのマイナー・メディアになっていくのだろう、と予想したのでした。おそらく、ここで第二期と呼んでいる時代は、場合によっては実際にニコニコ動画そのような道筋を辿ってしまう可能性にも開かれていた段階だったような気がします。現時点では、第二期から第三期へのニコニコ動画の進化を見ていると、新たなマスメディア=マスコミュニケーションとしてのプラットフォームを確立しつつあるように思えます。

この記事の冒頭で、ニコニコ動画では、動画コンテンツとコミュニケーションが結合している、というような言い方をしました。しかし第一期から第三期までへの移行というものを考えると、その「結合」というものの内実についても、もう少し検討する必要があります。

第一期では、その「結合」はまずはコンテンツありきという形をとっていたと思います。「ニコニコ動画とはyoutubeに字幕をつけたものである」という当時の一般的な認識がそのことを示しています。ニコニコ動画は動画コンテンツを見るためのサイトの一つであり、画面上にコメントが流れていくという点で他とは違う、という発想です。僕自身、素朴にそのように考えていました。そこではコミュニケーションは、動画を面白く見るための副次的役割を果たすものでしかありませんでした。

第二期から、コンテンツとコミュニケーションの主従が完全に逆転します。そこではコミュニケーションの活性化こそが目的であり、コンテンツはそれを活性化させるためのネタという地位を占めるにすぎません。ただしこの場合、コミュニケーションの活性化のためには、絶えず新たなネタが投入されつづける必要があります。思うにこのようなモデルはそれほど長続きすることができません。というのも、新たなネタの追求という作業は面白くも疲れるものであり、人はどこかでそれに飽きてしまうだろうからです。

第三期を理解するためのキーワードは、「実況」であると個人的に考えています。「実況」は、「その場に居合わせること」を要求します。本来「実況」はリアルタイムの「中継」を要求しますが、ニコニコ動画濱野智史が「疑似同期性」と呼んだ感覚を生み出すことができるので、アーカイヴから呼び出された動画であっても「実況」とそれに対するリアクションの同時的共有を、疑似的に体験することができます*1。「実況」がなぜ重要かというと、それが基本的に「飽きない」ものであるからです。

たとえばゲームの実況プレイ動画というものを考えてみましょう。こういった動画を見るという感覚は、友達の家に言ってその友達がゲームをやっているのを横でおしゃべりしながら見ている、というのに近いと思います。最近、「天下一将棋界」というアーケード用の将棋ゲームのプレイ動画をよく見てしまうのですが、これがまったく飽きない。そのプレイヤーがどんなに下手くそであっても、なんとなく見てしまう。

「実況」の論理を極限にまで純化すると、必然的に出てくるのは「自分を実況する」という行為になります。ニコニコ生放送というのは、まさにこの「自分を実況する」をいわば番組化したサービスである、と言えるかと思います。youtubeは「自分自身を放送しよう」と謳いましたが、素人がそう簡単に面白いコンテンツを作ったりはできません。しかし「自分を実況する」ことは簡単にでき、やりようによっては、それは人を飽きさせないのです。そして飽きさせないための最大の手段は、友達になること、顔馴染みになることです。顔馴染みの人間とであれば、他愛のない話であってもそれなりに飽きないのです。ニコニコ生放送のコミュニティー機能がどれほど実際に機能しているのかは僕は知りませんが、少なくとも、「顔馴染みになること」をアーキテクチャ化しているのが、そのコミュニティー機能なのだと思います。

誰もが知っているように、この「顔馴染みになること」という契機は、テレビにとっても本質的なものです。正確には、「コミュニケーション供給者」としてのテレビにとって、それは本質的です。新聞が毎朝郵便受けに届くように、毎週同じ顔がテレビ画面上に現れてくるという事実が、テレビを見つづける私たちにとっては、実はかなり重要だったりします。僕の弟なんかもそうでしたが、テレビをまったく見ずに、その時間があればニコニコ動画を見る、ということを可能とするのは、そこに面白いコンテンツがあるからではなく、それがコミュニケーションを提供してくれるからなのだと思います。

先日の参院選では、ニコニコ動画でもかなり豪華なメンツを集めて(20時時点で原口総務大臣が出演していたのは、どの民放番組でもNHKでもなく、ニコニコ生放送でした)選挙速報をやり、総計で10万人の視聴者を集めていましたが、たとえば十人の視聴者を集める生放送主が一万人いれば10万人になります。人がコミュニケーションを渇望する力というものはおそらくきわめて強いもので、これまではテレビを見てきた視聴者の相当の部分は、実は内容ではなく、なんとなくのコミュニケーション的な接触を求めてテレビを見ていたのではないか、と思ったりもします。そしてコミュニケーション的な接触ということで言えば、ニコニコ動画はテレビなどよりもずっと濃密な(もちろん現実の人間的つながりと比べるとずっと希薄な)コミュニケーションを提供しています。となれば、それらの人たちがテレビからニコニコ動画へ移っていっても何も不思議ではありません。この当たりの実際が本当に明らかになるのは、中高生あたりからニコニコ動画が存在している世代が成長していったあとの話だと思いますが。

長くなってしまいましたが、最後にustreamの話もちょっとだけしたいと思います。以前、ソラノートのそらの氏が企画した、ustreamを用いてのダダ漏れ放送「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」について書いたことがありました。その放送内で行われていたのは、言ってみれば「面白い人たちの面白いおしゃべり」です。そしてustreamを通じてダダ漏れされたそのおしゃべりに、ustreamと連動したtwitterによって別のレイヤーでのおしゃべりの渦が重なっていました。

あるいは先日、ジャーナリストの岩上安身氏による、同じくジャーナリストの上杉隆氏へのインタビューがustreamで流されていました。軽い気持ちで見始めたのですが、鳩山邦夫事務所時代の話などがあまりに面白く、ついつい最後まで見てしまいました。上杉氏に限らず、面白い話をもっている人は探せば世の中には腐るほどいるはずです。しかしいくら面白くても、それをテレビでダダ漏れするには、電波というのはあまりに希少な資源です。しかしustreamならばいくらでもダダ漏れできるわけです。そしてそれが本当に面白い内容であれば、告知されなくても最低限の人が見ていれば、twitterを通して拡散して、リアルタイムで視聴者を確保していくことができます。上記の上杉氏インタビューの場合、見始めでは視聴者が1300人程度でしたが、最後にはその倍くらいにまでは膨れ上がっていました。

コストをほとんどかけなくても、放っておいても面白いイベント、人間をそのままダダ漏れするというだけで、実はテレビで流されている番組なんかよりもずっと面白いコンテンツができてしまったりします。従来は、そのような映像を流せるマスメディアが存在しなかったわけですが、いまはすでに軽やかに可能となっています。さらにtwitterというコミュニケーションぷらっとフォーによって、そのコンテンツが本当に面白いものであれば、潜在的な相当程度マスな人々に届くことも可能となっています。

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最初書こうと思っていたことがちゃんと書けているかははなはだ疑問ですが、メディアは「コンテンツ」を運んでくることもあれば、私たちにコミュニケーションをもらたしてもくれます。そしてデジタルテクノロジーがさまざまな形でリアルタイムのコミュニケーション可能性を提供し始めていることによって(ニコ動、ustreamtwitter)、これまでのマスメディアが担ってきたコミュニケーション供給者としての役割は、大きく相対化されていくのではないか、という印象をもっています。

技術的環境の変化によって、これまで一緒くたに理解されてきたもの、たとえばマスメディア=マスコミだったり、「コミュニケーション供給者」と「コンテンツ供給者」といったものが、それぞれ独立した変数として浮上してきている、という風に思います。ベルナール・スティグレールは技術的変化のうちに時代を宙づりにする作用を見出していますが、こういった現状を見るにつけ、まさにその通りだなあとの実感を強くするこの頃であります。

*1:ちなみに「疑似同期性」については、手前味噌ながら濱野氏が(たぶん)最初にそれについて書いた時よりも前に、このブログで論じていました。そのときは「擬似的な同時性」という言葉を使っていましたが。

指標の信頼に足る不確実性について

去る7月11日には参議院選挙の投開票がありました。予想されていた民主党の敗北が現実となり、世間全体があわただしくなっている傍らで、東浩紀氏のtwitter上でのつぶやきがささやかな波紋を呼んでいました。それは、今回の参議院を棄権した、とのつぶやきでした。

ちなみにぼくは今回棄権した(どうせこれでネットで批判殺到するんだろうけどさ)。なぜか。それはいろいろ考えるとタリーズコーヒーに入れるしかないと思ったからである。less than a minute ago via web

果たせるかな、そのつぶやきには当然予想されたような批判がいくつか寄せられ、かといってとりわけ盛り上がることもなく、まさしくささやかに、それらはタイムラインの彼方へと緩やかにフェードアウトしていったのでした。

ここではその何ということもない一風景に言寄せて、投票行為というものについて若干の考察をしてみたいと思います。ただしあらかじめ告白してしまえば、今回書こうと思っていることの中心にあるのは、指標とパラメータの違いという、以前から何となく考えていた別の問題です。東氏の投票棄権をめぐる今回の風景を眺めているうちに、それを理解するための一つの考え方として、そのうち書こうと思っていたその問題がいくらか役に立つかもしれないと思えたので、思いつくままに書いてみることにします。

とりあえず出発点にあるのは次の考え方です。

「投票行動は、政治意識の高さの指標ではあるが、パラメータではない」。

まず僕個人としては、社会を構成する一人ひとりの個人が高い政治意識をもつことは「望ましい」と考えています。より具体的には、「民主主義という統治形態」と「高い政治意識をもった選挙民」のカップリングが、政治の在り方として「望ましい」、ということです。ところでこのような立場をとるとき、「選挙における投票の棄権は望ましくない」と述べることができるでしょうか?この問いを別の観点から捉えるとこういうことになります。

「投票の棄権は政治意識の低さを示しているか?」

この問いに対しては、まずは「それほど簡単に答えられる問題ではない」と応答することになるのですが、そこで重要なのは、ではその「難しさ」とはどの辺にあるのか、という点です。そしてその「難しさ」を腑分けし、その由来を明らかにするために必要だと思われる言明が、「投票行動は、政治意識の高さの指標ではあるが、パラメータではない」であるのです。

ではこの辺りまでを枕として、指標とパラメータの違い、という問題について考えてみたいと思います。

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まずは指標とパラメータについて、それぞれ仮に次のように定義したいと思います。

・指標=ある現実を間接的に(ということは不確実に)示すもの
・パラメータ=ある現実を直接的に反映するもの

たとえば戦闘力的な意味での「強さ」というものを考えてみましょう。RPGなどのゲームの場合、あるキャラクターの「強さ」は完全にパラメータに反映されます。というよりも、もろもろのパラメータこそが「強さ」の定義なので、そこに不確実性が入り込む余地はまったくありません。それに対して生身の人間における「強さ」というものを考えた場合、その強さを測るのはパラメータではなく指標です。たとえば筋肉の立派さは「強さ」の指標ですが、パラメータではありません。筋肉の立派さは、蓋然的な仕方で「強さ」を示すだけです。筋肉のポテンシャルが高くても、反応速度が異様に遅ければたんなるデクの坊です。確かにさまざまな科学的な手法を用いることで、筋力系や神経系のポテンシャルをすべて計測しつくす、ということは理念的には可能かもしれません。しかし現実世界では、ゲームの場合とは異なり、身体的な次元に限ったとしても「強さ」といったものの内実はきわめて多義的です。だとすると科学的に計測された数値の束も、結局は「強さ」を間接的、すなわち不確実に証言する指標でしかありません。現実世界には、パラメータは存在せず指標しか存在しないのです。

経済(学)という領域では、指標とパラメータの違いがしばしば混同されがちであるような気がします。経済の領域では多くの数字がやりとりされますが、しかしたとえば「好調な経済」だとか「景気の良し悪し」だとかが語られる際には、そこで最終的に問題となるのは経済活動をする人間です。数字にとっては景気が良かろうが悪かろうが関係なく、人々が幸福(なんとも多義的な言葉ですが)に暮らしていくためにこそ、景気の良さというものが必要であるわけです。

たとえばGDPや経済成長率という数値があります。これらは経済の現状を計る際にしばしば援用されるわけですが、当然ながらこれらの数値はあくまでも経済の指標であり、パラメータではありません。つまりそれらの数値の上昇は、人々が経済的に豊かであることの指標ではありますが、パラメータではありません。ただし指標がつねになんらかの不確実性を伴うものであるのだとしても、そこには指標が指標として機能するための根拠というものは見出されるはずです。GDPという数値の上昇という場合ならば、なぜその数値の上昇が人々の全般的な経済的豊かさの指標となりうるかについて、容易に因果関係を説明できるのだろうと思います。指標というものは蓋然的に信用できるものであり、通常はそのような信用のもとで使用され、その蓋然性を担保している因果関係をいちいち追跡するということはなされません。それはもちろん指標というものを利用する際の正しい態度ではありますが、ただ、やはり注意も必要であります。

経済音痴の自分にはこれが事例として適切なのかちゃんと判断できないのですが、小泉改革の時代などにしばしば、大企業だけが業績を伸ばすことでGDPが上昇したのだとしても、そのことは一般の人々の経済的な豊かさとは結びつかない、ということが主張されていた気がします。この主張が正しいのか正しくないのか、ということはとりあえずカッコに入れるとしても、経済の構造が変われば、指標を指標として成立せしめていた因果関係が成立しなくなる、ということは充分ありえます。指標を扱う際には、そこにはつねにこのような不確実性が存在する、つまり指標=パラメータではない、ということにどこかで意識的である必要がある気がします。

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選挙で投票に行くという行為は、その人が一定程度以上、政治に対して意識を持っていることの指標である、と言えると思います。ここで「政治的意識の高さ」ということで指しているのは、おおざっぱに、政策や政治的動向や政治家について関心を持っていること、というぐらいの意味です。投票率の高さは、多くの人が政治に関心をもっていることの指標ですし、逆に投票率の低さは、多くの人が政治に関心を持てないことの指標である、ともいえます。もちろん指標であるからには不確定性があり、盲信するわけにはいきません。たとえば全体主義国家では投票率が100パーセント近くになるということが起こりますが、このことは政治的意識の高さを示すものではまったくありません。また、特定の利益団体に属していて、その団体の決定に従って何も考えずに指定された候補に投票している選挙民が高い政治的意識を持っているかと言うと、必ずしもそうとは言えません。おそらく、政治的意識の高さの指標としての投票行為という事例は、経済においてGDPが人々の経済的豊かさの指標であるという事例よりも、指標の信頼性というか、それが指し示す事象との連関は、緩やかなものであると言えるでしょう。

それゆえ、政治的意識の高さの指標としての投票行為というものを考える場合、それがどのようにして指標として機能しうるのか、ということについてちゃんと理解しておく必要があるでしょう。

指標としての投票行為には、大きく分けて二つの側面があると思います。一つは、投票するという行為は、そうせしめた原因としての政治的意識の高さを間接的に表示している蓋然性が高いという、「間接的表示」の側面。もう一つは、投票という行為そのものが事後的に投票者に政治的意識をもたらすという、「再帰的効果」の側面です。


■ 投票による「間接的表示」
投票を行うには動機があります。常識的に考えれば、投票へと結びつくような動機は、政治的意識によって生み出されます。それゆえ、投票という行為は、間接的に政治的意識の高さを間接的に表示している、と言えるかと思います。もちろんすでに述べたように留保が必要で、ある投票行為が実際に政治的意識の高さを間接的に表示していることを蓋然的に示すには、それなりの状況証拠を確認しておく必要があります。たとえば、投票者が誰かに強制されているわけではなく、あるいは強制とまでは言わなくても、たんに習慣的、惰性的に特定の候補、政党に入れていたりしているわけではなく、自分で考えて投票を行っている、という状況証拠があれば、その投票行為は投票者の政治的意識の高さを示している蓋然性は上がります。

■ 投票による「再帰的効果」
投票するという行為には、言語行為論でいうところのある種の行為遂行的(パフォーマティヴ)な側面があります。つまりそれは、たんにすでに存在している政治的意識の表明である(ありうる)にとどまらず、投票するという行為そのものによって、あとから政治に関心を持つようになる、という効果があるわけです。たとえば小泉旋風の際に、とくに深く考えず面白半分で投票した人が、投票したというその事実によって、自分の投票した政党や候補者の動向に関心を向けるようになり、あとから政治的意識を育てていく、ということはおそらくあったでしょう。一回の投票行為は、そのような「再帰的効果」を投票者にもたらすと思われますし、またこれまでに繰り返された投票行為は、「再帰的効果」に依拠する蓋然性によって、その人が高い政治的意識を有していることを指標的に示します。

以上の理由で、指標としての投票行為は、一定以上の蓋然性をもって、投票者の政治的意識の一定以上の高さを示します。

                           ※

しかしここでもまた、指標はパラメータではないということを忘れてはいけません。投票行為は政治的意識の高さの定義ではない、ということが意味するのは、高い政治的意識をもちながらも投票を行わないということは可能であるし、またそれほどありそうにないことでもない、ということです。とりわけ、たった一回の投票の棄権に関して述べるならばなおさらです。

それでは、高い政治的意識を持ちながら投票を行わない、というケースにはどのようなものがあるでしょうか。当然ながら、事故に遭ったり海外にいたりなど、物理的に投票に行けないというケースがあります。これは当たり前と言えば当たり前ですが、指標というものの不確実性は、こういったケースにも影響されうるという点にあるので無視することはできません。問題は、投票に行けるけれども行かなかった、という場合で、今回の東氏はこのケースにあります。そして東氏は、今回投票に行かなかった理由を明確に語っています。

ぼくは今回みんなの党を支持するしか選択肢がないという結論に至ったのですが、同党の候補者には地元比例区ともに投票したいひとはいませんでした。以上が棄権の原因です。RT @E17n 参議院の比例は候補者名を書けるのに、投票したい人が一人もいなかったの?less than a minute ago via web

棄権ズルい!とか言う人々の感覚はわかる。そういうひとはきっと、本当は投票したくない候補者に投票したのだろう。その不愉快が義務だという考えもまたわかる。でもぼくとしては、いろいろぐるぐると回った挙げ句、投票したくないなら投票しなくていいじゃん、という素朴なところに戻ったのです。less than a minute ago via web

多くを語る必要はないと思いますが、この場合は明確に、政治的意識の高さの結果として投票の棄権という結果に行きついています。蓋然性としては、投票に行った人と行かなかった人とを比較すれば、前者の方が高い政治的意識を有している可能性が高いですが、しかし指標というものの信頼性は、それを指標として機能せしめている因果関係と、またそれを有効たらしめている状況証拠とともに理解される必要があります。それゆえ、多くの人が政治的意識を高く持つことを「望ましい」と考えている人間にとっても、誰かの投票棄権という事実を前にして、それを即座に「望ましくない」とは判断できないのです。

もし誰かの投票棄権を、たんにその事実において「望ましくない」と判断しうるのだとすれば、ぼくの想像が及ぶ限りでは、全体の投票率が人々の政治的意識に対して「再帰的効果」を及ぼすかもしれない、という点に関してくらいかと思いますが、たとえそこに分子ほどの正当性があるとしても、ほとんど言いがかりのようなものでしょう。

ただしこれは不特定の一回限りの投票についてであり、投票に伴う「再帰的効果」というものを考えるならば、たとえば投票権を得る二〇歳から何度かの選挙に関しては、もし選挙時点では政治に興味をもっていなくても、投票することによって政治に意識を向けていくようになる、ということが蓋然的に期待できるので、「ごたごた言わずとりあえず投票行っとけ」という立場を取りたいと思います(そういう自分がその当時投票に行っていたかはもちろん秘密です)。

あとは今回の東氏のケースについて言えば、投票を棄権することと、棄権したことを公言することとは根本的に異なる、という問題がありますが、これについては指標とパラメータという問題とは関係ないので、ここでは触れないことにします。

ということで、指標とパラメータというテーマについて書きたいがためだけに、わざわざセンシティヴな事例をひっぱってきて人さまを勝手に巻き込んでしまっているのですが、ここにはまったく他意なきことを読み取っていただいた上でご寛恕願えれば幸いです。

連続シンポジウムの宣伝

メディア・コンテンツ総合研究機構連続シンポジウム(長っ)というものの宣伝を貼ります。Vol.1が7月17日、Vol.2が7月24日と、文字通りの連続シンポジウムとなっています。初回は事前の申し込みの必要なし、第二回は事前の申し込みが必要であるようです。

「映像アーカイブと認知テクノロジー」と題された第一回では、このブログでも何回も取り上げているベルナール・スティグレールがポンピドゥー・センター内の研究組織、IRIで開発した映像注釈ツール、Lignes de temps(タイムライン)を使った映像分析の事例や、日立システムアンドサービス社がトピックマップ技術を組み込んで開発した知識管理ツール「知のコンシェルジェ」などが紹介される模様です。

「「コレがアレを殺す」?〜電子書籍の「衝撃」」と題された第二回では、「知の巨人」立花隆氏と、角川社長の角川歴彦(みんなの角川春樹の弟)を迎え、iPhoneiPadKindleといった「流行りのアレ」をめぐって電子書籍の衝撃について議論されるようです。

どちらも無料なので、お気軽に足を運んでみてください。

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「メディア・コンテンツ総合研究機構連続シンポジウムvol.1 映像アーカイブと認知テクノロジー
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/event_detail.php?id=812

■ 日時
07月17日(土) 14:00-17:30

■ 会場
東京大学本郷キャンパス 情報学環・福武ホール(福武ラーニングシアター)

■ 定員
180名

■ 申し込み
事前の申し込みは必要ありません。

■ 主催
東京大学大学院情報学環・学際情報学府(共催:日立システムアンドサービス/放送人の会)

概要:
東京大学大学院情報学環メディア・コンテンツ総合研究機構は、デジタル・テクノロジーを共通の基盤に、1)クリエーション、2)プロデュース、3)アーカイブ、4)アナリシス、5)リテラシーの5つの柱を立て、それを円環的プロセスで連結し組織化することで、産・官・学を結ぶ「知のトライアングル」の構造化、研究・教育・国際連携を展開するための戦略的組織として設立された。

この連続シンポジウムでは、本研究機構の活動を公開することで、知の公共性のあり様を提案していく。第1回目の今回は、本研究機構の大きな軸を構成する、アーカイブとアナリシスを、映像アーカイブと認知テクノロジーとして取り上げる。
これまで、情報学環では、映像アーカイブについては、NHKアーカイブスなどの施設、そして、認知テクノロジーについては、(株)日立システムアンドサービスや仏ポンピドゥー・センターと共同研究を進めてきた。

今回のシンポジウムでは、150人にもおよぶ放送人の証言の集積・公開を進めてきた「放送人の会」(放送人の証言グループ)のアーカイブから、 NHKのドキュメンタリーの草分け小倉一郎氏(2008年没)の証言を取り上げ、そこから、「知のコンシェルジェ」や「タイム・ライン」といった認知テクノロジーがどのような知を取り出すことができるかを検討する。

タイム・テーブル:
■導入

石田英敬情報学環長・学際情報学府長)
「メディア・コンテンツ総合研究機構」とは?

今野勉((株)テレビマンユニオン取締役、「放送人の会」代表幹事)
「放送人の証言」から見えてくるテレビの時代

■第1部 オーラルヒストリーから認知テクノロジー
桜井均(NHK放送文化研究所情報学環特任教授):
小倉一郎:仕事と系譜のデジタル技術による可視化」

阿部卓也(情報学環石田研究室):
「タイム・ラインによる映像アーカイブの考古学」

三分一信之((株)日立システムアンドサービス、情報学環客員研究員)
「「知のコンシェルジェ」による映像アーカイブ分析」

(休憩)

■第2部 認知テクノロジーは映像アーカイブをどう書き取るか?
今野勉×桜井均×三分一信之×石田英敬

■ お問い合わせ、プレス窓口:
publicity@nulptyx.com
*全角アットマークを小文字に変換してください。

東京大学大学院情報学環 石田英敬研究室
TEL / FAX:03−5454−4939

                                                                                          • -

メディア・コンテンツ総合研究機構連続シンポジウムvol.2 「コレがアレを殺す」?〜電子書籍の「衝撃」
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/event_detail.php?id=1136

■ 日時
7月24日(土)17:00-19:00

■ 会場
東京大学本郷キャンパス 情報学環・福武ホール(福武ラーニングシアター)

■ 定員
180名

■ 申し込み
事前のお申し込みが必要です。
件名をあなたの「氏名」にして、下記アドレスまで、メール本文に「氏名・ふりがな・所属・年齢」を記入してお送りください:
ebooks@nulptyx.com
※全角アットマークを小文字に変換してください。

■ 主催
東京大学大学院情報学環・学際情報学府

概要:
情報学環「メディア・コンテンツ総合研究機構」は、デジタル・テクノロジーを基盤に、1)クリエーション、2)プロデュース、3)アーカイブ、4)アナリシス、5)リテラシーの5つの柱を円環的に組織化することで、産・官・学を結ぶ戦略的研究組織として設立された。
連続シンポジウムでは、本機構の活動を公開することで、知の公共性のあり方を提案していく。

シンポ第2回の今回は、デジタル・テクノロジーが日常生活の隅々まで浸透することで、活字文化、そして、活字に支えられてきた知のあり様や公共性がどのように変化しうるのかをテーマとして取り上げる。

巨大データセンターの設置や高速無線回線網の整備によって、クラウドコンピューティングが全面化する環境が整ってきた。iPhoneiPadKindleのような電子端末の普及を起爆剤に、技術環境、産業構造だけでなく、日常生活にも革命的な変化がもたらされつつあるとも言われている。
アメリカ発のIT企業が覇権を拡大し続けていくのか? 旧来のメディアに生き残る余地はないのか? ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』が言うように、果たして「コレがアレを殺す」ことになるのか?
そして、大学は、なお知の公共性の審級たりうるのか?

石田英敬 情報学環長・学際情報学府長をホストに、いち早くデジタル化による変化への対応を進める角川ホールディングスの角川歴彦氏(情報学環特任教授)、ジャーナリスト・作家として、電子書籍の可能性を探っている立花隆氏 (情報学環特任教授)を迎え、デジタル・テクノロジーの全面化がもたらす文明の可能性とリスクを、地政学、産業構造、知の変容の観点から多角的に討議する

登壇者:
角川歴彦角川グループホールディングス取締役会長、情報学環特任教授) 
立花隆(ジャーナリスト、作家、情報学環特任教授)
石田英敬情報学環長・学際情報学府長)

■ お問い合わせ、プレス窓口:
publicity@nulptyx.com
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東京大学大学院情報学環 石田英敬研究室
TEL / FAX:03−5454−4939

twitterは詩壇の裏をかいたのか

高橋源一郎氏のtweetによって、詩壇(というのでしょうか?)である悶着が生じていることを知りました。その悶着の発端がtwitterにあったため、その直前にtwitterへの考察ということをしてみたこともあり、twitterについて、より正確にはそこで可能となるメディアとコミュニケーションの関係について、さらに考えを深めるための題材として面白いのではないかという気がしました。そこで、改めて具体的な経緯をネット上で追ってみたのですが、そうするうちに、この問題は、部外者が軽々に語るべきものではないだろう、と思えてきました。というのも、そこで生じている軋轢を駆動しているのは、最終的には「詩とは何か?」といった正解のない問いに対する各々の信念であるように見えたからです。だとすればそこに関わることができるのは、その正解のない問いに対して実際にコミットし、自分なりの信念を育てている人間だけであるでしょう。

しかし少し時間を置くうちに、それでも何か書けないか、という考えが再び頭をもたげてきました。そこで改めて考えを巡らし、ひとまず「詩」という問題を完全にカッコに入れて、メディアとコミュニケーションをめぐる側面だけに焦点を当てる、という風に立場を限定すれば、多少他愛のないことを書いても許されるのではないか、と判断しました。なので以下の部分は、その点をご了解いただける方だけお読みくださいますようお願いいたします。

                           ※

ひとまず、事実の経緯を簡単にまとめてみます。

・3月6日深夜、小説家で中原中也賞の選考委員でもある高橋源一郎氏が、中原中也賞の選考に漏れた大江麻衣氏の詩をtwitter上でつぶやく

・それを読んだ「新潮」の編集者が大江氏にコンタクトを取り、高橋源一郎氏の推薦の辞とともに、「新潮」の七月号に大江氏の作品が掲載されることになる。
(この際、高橋氏は実際に仲介的な役割を果たした模様
※高橋氏による推薦の辞はこちらでよめます。

・7月6日の夜、詩人の城戸朱里氏がtwitter上で高橋氏への批判を行う

・7月10日夜、高橋氏がやはりtwitter上で城戸氏に(名前は直接には挙げず)反論を行う

城戸氏が行った批判は、高橋氏が推薦の辞で述べた次の一文をめぐるものです。

いまこの詩集を読み返すと、みんなが「書きたい詩」を書いている中で、大江さんは「書かれるべき詩」を書いたのだ、という思いが強い。

その批判は、直接には「みんな」という表現、言いかえれば、あたかも現代の詩の全体を視野に収めているかのような表現に向けられているのですが、その後の展開を見れば、つまるところそこで問題となっているのは、「お前に(現代)詩の何が分かるんだ?」ということであるようです。暗喩をめぐる議論など、このあたりからは門外漢には近寄ることのできない世界に入っていってしまいます。もちろんそこには、「みんな」という表現に見てとられた「傲慢さ」についての批判も含まれています。

それらはいずれも高橋氏の≪発言の内容≫に関わるものですが、それとは別に、≪発言の文脈≫、すなわち高橋源一郎氏が中原中也賞の選考委員である、ということもまた問題とされています。問題となった発言を、詩の賞の選考委員ではない他の有名作家が行ったとしても、その発言はおそらくきわめて高い確率で、たんに無視あるいは黙殺されただけだったでしょう。ではなぜ高橋氏の発言に対しては批判があがり、それを別の詩人が公にしなければならないと考えたか。それは、高橋氏が中原中也賞の選考委員だったからにほかならないでしょう。中原中也賞は詩の世界ではもっとも権威のある賞の一つであるようなので、多くの若い詩人たちがその受賞を狙っていると思います。その彼らからすると、ほかならぬ選考委員の高橋氏が、「みんな」と大江麻衣氏とを、「書きたい詩」と「書かれるべき詩」とに区別したというのは、心中穏やかざるものがあるでしょう。それは当然の反応です。

ただし今回の記事では、もう一つの≪発言の文脈≫に注目したいと思います。それは、「新潮」への大江氏の詩の掲載が、高橋氏のtwitter上でのつぶやきに端を発している、という≪発言の文脈≫です。今回の問題に接して僕が受けた印象は、twitterに端を発しているという事実が、実は高橋氏への批判の根幹にあるのではないか、というものでした。おそらく当事者、とりわけ批判の先鋒となった城戸氏はこの点を否定すると思います。実際違うのかもしれません。そしてそうだとしても構いません。ここでの目的は、批判の「無意識の動機」なるものを探ることではなく、あくまでもメディアとコミュニケーションという問題について考察することです。その目的に沿って、今回の事例に別の角度から光を当ててみたいと思います。

                           ※

前回の記事では、ささやかながらtwitterというものについて考察してみたのでした。ポイントだけかいつまんでまとめ直してみます。まず、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」というものについて、それぞれ次のように定義してみました。

● マスメディア=マスな人々に届きうる物質的メディア
● マスコミュニケーション=マスな人々となされるコミュニケーション

従来は「マスメディア」は、マスな人々とのコミュニケーションを実際に成立させていたので、同時に「マスコミュニケーション」でした。しかしインターネットの出現は、「マスメディア」=「マスコミュニケーション」の図式を大きく動揺させることになります。というのも、たとえば個人的に作成されたホームページやブログは、物質的条件としてはマスな人々に届きうる「マスメディア」ですが、しかしその潜在的な可能性を具体化するコミュニケーションを実現することができないので、「マスコミュニケーション」ではありません。書かれたものが読み手に届くためには、それがなんらかのコミュニケーション回路に乗る必要があるのです。

Twitterはネット上のコミュニケーションの連鎖可能性を、相当程度マスな次元にまで引き上げました。ただしマスなコミュニケーションが実現するためのスイッチの入り方は、従来のマスメディアとは大きく異なります。従来のマスメディアでは、そのメディアが取り上げることそのものがマスなコミュニケーションを意味していましたが、twitterでは普段はミクロ+αのコミュニケーションが行われており、リツイート、再言及の連鎖という形でスイッチが入った場合のみ、それがマスなコミュニケーションとなるのです。もちろんそのマスの程度も千差万別で、そのつど独自のグラデーションを生み出すことになります。

マスなコミュニケーションから切り離されたマスメディアであるところのネット上の孤独な記事群は、twitterとともに新たなコミュニケーション可能性へと開かれることになりました。これまでもソーシャルブックマークなどのシステムはありましたが、twitterとともにネット上のコミュニケーションの連鎖可能性は飛躍的に増大しました。そもそもがマスメディアであるネットに存在する記事は、マスなコミュニケーションと接続することができれば、瞬間的にであれ「マスコミュニケーション」並みの受け手に届くことが可能なのです。

情報とコミュニケーションという対を考えた場合、前者はかならず後者を乗り物としてのみ誰かに届くことができます。読んでもらうためには、まず届けられなければならないのです。コミュニケーションは、それ自身で自足することもあれば、合わせて情報を誰かに届けることもあります。twitterでの具体例を考えるとするならば、(1)たんに他愛のないやり取りを延々と楽しむこともあれば、(2)コミュニケーションのトピックとしてどこかのリンクを貼ることもあるし、(3)純粋に広げたい情報のリンクを貼ることもあります。第一の場合は純粋なコミュニケーション、第二の場合はコミュニケーションのための情報、第三の場合は情報のためのコミュニケーション、と言えるかもしれません。いずれにせよ、情報を伝えるということだけを目的としている場合(3)ですら、相手との最低限のコミュニケーション回路が必要であるし、またリンク先を実際に読んでもらうためには、多くの場合、一定以上のコミュニケーション実績が必要となります。

                           ※

ところで、賞というもの、とりわけ文学賞は、一種のコミュニケーションです。それは、賞の価値を共有する共同体を確認/強化するコミュニケーション行為であると同時に、受賞作品を人々に周知するコミュニケーション行為でもあります。芥川賞直木賞などの有名な賞ともなれば、その受賞は、たんに文学の世界にとどまらない世間一般のコミュニケーション回路に乗ることを意味します。詩の場合、たとえば中原中也賞の場合はそこまでではないかもしれませんが、しかし普段は詩を読まない読書界のコミュニケーション回路にはある程度乗ることができそうです。そして言うまでもなく、作品があるコミュニケーション回路に乗るということは、潜在的な読者をその分だけ手に入れることができるということを意味します。

周知のように、文学賞というコミュニケーションは、メディアと切り離すことができません。筒井康孝の『大いなる助走』でも描かれていたかと思いますが、芥川賞直木賞を受賞するためには、特定のメディアに作品を発表する必要があります。中原中也賞の場合は、「奥付け入りの印刷された詩集」を出版していることが最低限の条件になるようです(第一六回中原中也賞の概要より)。つまりこれらの場合では、特定のメディア形式を獲得することが、文学賞というコミュニケーションによって取りざたされるための必須の回路であるわけです。そしておそらくそれらの賞を狙う人間には、そういったメディア=コミュニケーション回路が感覚的に内面化されているのだと思います。大学人にとっての学会や紀要(そこにもメディア形式は必須です)の日程と同じようなものでしょうか。

今回、高橋氏がtwitterで取り上げた大江氏の場合は、高橋氏の推薦の辞から察するに、おそらく自費出版で出した詩集を公募で送ったのだと思います。大江氏の作品は最終選考まで残り、そこで惜しくも落選となったわけですが、そこまでは従来のメディア=コミュニケーション回路から何も逸脱してはいません。逸脱が生じるのは次の時点、すなわち高橋氏が落選になった大江氏の詩の一篇をtwitter上でつぶやいた時点からです。ここから、大江氏の作品は従来では存在しなかったメディア=コミュニケーション回路に乗ることになります。そしてその意味は・・・現時点ではまだ誰にもわからないでしょう。とにかく高橋氏のtwitterのTL上に流れた大江氏の詩は反響を呼び、「新潮」の編集者が興味をもって大江氏の作品が「新潮」に掲載されることとなり、そしてそこに付された高橋氏の推薦の辞が波紋を呼んだわけです。

最初に書いたように、そこでの高橋氏の≪発言の内容≫には門外漢としては何も言えることはないので、ここで扱うことができるのはその≪発言の文脈≫だけです。まずは、twitterというメディア的要素をひとまず脇に置いて、中原中也賞選考委員としての高橋氏が行ったことを、少し無理やりですが次のように一般化してみたいと思います。

「ある文学賞の選考委員つとめる作家が、落選した作品を文学誌の編集者に紹介し、それがその作家の推薦の辞をつけて掲載された。」

僕は文壇(詩壇)の世界に疎いのでこのようなケース、つまり、賞で落選した無名な作品が、選考委員の後押しを受けて文芸誌にその委員の推薦の辞とともに掲載される、というケースがこれまでもあったのかどうかを知りません。もしかしたらこれまでそのようなケースはなく、だとすれば、今回の高橋氏の対応は「掟破り」だったということになります。しかしまあそんなことは僕にはどうでもいいことです。これとは別に、その委員が表に出ることなく、個人的に編集委員に落選作品を紹介し、それが掲載されるというケースも考えられます。こちらはいかにもありそうですし、おそらく、このような行為が問題になることもないでしょう。そしてそのこと自体も僕にはどうでもいいことです。問題は、そのような一般的な事例と今回の事例を引き比べると何が見えてくるのか、という点です。

今回の件では、高橋氏は文芸誌の編集者に直接落選作品を紹介あるいは推薦したわけではありません。その作品はtwitter上でつぶやかれただけです(ここに権利上の問題が発生するかどうかは知りません)。この時点ですでに(これまでには存在しなかった)新しいメディア=コミュニケーションの回路に、大江氏の作品が乗ることになります。そこでその作品に接した編集者が、大江氏の作品の掲載に当たって高橋氏に推薦の辞を求めることは必然的でしょう。というのも、大江氏の作品はすでに、たんに無名の佳作というステータスではなく、高橋氏のつぶやきによってtwitter上で話題になった作品、というステータスを有しているからです。また雑誌の宣伝(コミュニケーション)という観点からすると、このステータスを前景化させることは賢明な判断であります。

結果としては、そこに付された推薦の辞の文言に対して批判があがったわけですが、そこでは同時に、「書かれるべき詩」をめぐる≪発言の内容≫だけでなく、高橋氏が中原中也賞の選考委員であるという≪発言の文脈≫も間違いなく問題になっています。その際に、大江氏の作品が最初はtwitterでつぶやかれた、ということがどういう意味をもっているのか、というのがここで僕の考えたいことです。

選考委員の作家が落選した作品を個人的にとりあげた、という≪発言の文脈≫という観点から今回の高橋氏の行動を振り返った場合、他にありえた高橋氏の振る舞いは次の3点かと思います。

1 そもそも大江氏の作品をtwitterでつぶやかない
2 編集者と大江氏を仲介しない
3 「新潮」に推薦の辞を載せない

1についてはもしかしたら法的に怪しいところもあるのかもしれませんが、僕の感覚でいえば、1と2についてとやかく言う人はいないような気がします。3については、中原中也賞の選考委員をやっているということを鑑み、辞退しておくという選択肢はあったかもしれません。しかしこういったことも、僕にはどうでもいいことです。

長くなったのでそろそろ結論めいたものを書こうと思います。今回の問題に接して僕が最初に覚えた印象は、高橋氏に対して批判が起こったのは、twitterでの高橋氏のつぶやきをメディアとして、大江氏の作品が従来とはまったく異なるメディア=コミュニケーションの回路を通って世に出てきたからなのではないか、というものでした。今回の件では「門外漢」というのが一つのキーワードになっていたのも示唆的でした。高橋氏の一連のつぶやきは「門外漢の言」と題されていましたし、その高橋氏に批判を向けた城戸氏も、 高橋氏が詩の実作者でないことを問題にしていました(つまり、「門外漢が何を言う」というニュアンスです)。そこでは詩の境界が問題とされているわけですが、その底では、(詩壇のなかで)詩を読み書くという営為を支えているメディア=コミュニケーションの境界が問題となっている、とは言えないでしょうか。twitterを通じた新たな回路が、賞を目指して詩を書く人間が心のなかにもっている暗黙のメディア=コミュニケーション回路の裏をかいた形になり、それが、ある種の「釈然としない感じ」を詩作者たちにもたらしたのではないか、と。

この印象はまったく的外れかもしれませんし、そうでも構いません。この記事は、いかなる人の批判も意図しておらず、もとよりそんな権利もありません。今回の件は、たんに、twitterというツールの出現とともに起こりつつあることを考察したいと思っているタイミングで遭遇した、というただそのためだけに取り上げたものです。その点で言えば、もっと穏当な事例を取り上げるのが賢明であっただろうし、実際そうしようと思って書いたものを消したりしたのですが、結局書いてしまいました。誰かが不快な気分にならなければいいのですが、と殊勝なことを書きながら、傲慢にも新たな「門外漢の言」を人目に晒すことをご容赦いただければ幸いです。

マスメディアとマスコミュニケーション――twitterについて考える 


最近、twitterなるものにちゃんとコミットしてみようと思い始めているのですが(アカウント自体はかなり以前から取得していました)、同時に、twitterというツールについても考察してみたい、という欲望も日に日に増してきています。少し前の記事twitterについて簡単に触れたことはありましたが、今回は、もう少しまとまった形で、twitterについて考察してみようと思います。

                           ※

先日、ダニエル・ブーニューの『コミュニケーション学講義』という書物についての感想を書きました。このブーニューという人の理論では、コミュニケーションと情報という対がとても重要な役割を果たします。ただしその対は単なる対立をなしているのではなく、コミュニケーション的契機なくしては情報そのものが不可能だが、しかし情報なきコミュニケーションは存在する、という非対称な関係にあります。このことは認知的な発達のプロセスを考えてみても容易に理解できます。人間の出発点にあるのは母親とのコミュニケーションであり、情報という、なんらかの客観性を有するとされる対象との関係は、かなり後になってからでしか可能ではありません。

ここではその議論をかなりおおざっぱに捉え直して、twitterについて論じるための道具にしたいと思います。その出発として、次のような図式を設定したいと思います。

コミュニケーション=連鎖
情報=参照

コミュニケーションにおいては、それが連鎖するということは本質的な契機です。コミュニケーションの主眼は、そこで何かを伝達することではなく、それが際限なく連鎖していくことにあります。もちろんそこでは感情的、情動的ななにごとかが交換され、蓄積されていくわけですが、それらのコミュニケーションの成果は、あくまでもコミュニケーションが連鎖していくことによってのみ存在しつづけるものです。コミュニケーションを通して生み出された信頼というものも、定期的なコミュニケーションが途絶えてしまえば時間とともに着実に薄れていってしまう、ということは誰でも知っています。

情報に関しては、連鎖ももちろん重要な契機ではありますが、しかし情報を情報たらしめているのは、それが何か客観的なものを参照している、という点にあります。ただしここで客観的と呼ばれているのは、フッサールが間主観的と呼ぶもの、つまり、第三者にも共有されていると考えられているもののことです。コミュニケーションが基本的に一人称と二人称(僕と君、そして僕たち)の次元にあるのに対して、情報は三人称の次元にあるわけです。情報というものはつねに、三人称の他者(彼ら、彼女ら)も同様に参照することのできる対象を伝えてくれるものであるのです。

ところで、「マスコミ」という言葉があります。これはマスコミュニケーションの略ですが、ほぼ同じ意味で「マスメディア」という言葉も使われます。それが指すのは新聞やテレビのことですが、はたしてそれらのものは「コミュニケーション」をしていると言えるでしょうか?テレビであれば、まだわかります。「八時だよ、全員集合」の「おいーっす」なんかが象徴しているように、テレビ画面のなかのタレントたちは、しばしば実際に視聴者に語りかけてきますし、また「ながら視聴」という言葉があるように、内容を観るるわけではなく、「ただたんにそこにいてもらう」というようなコミュニケーション的な視聴行動もきわめて一般的です。では新聞の場合はどうでしょう。常識的に考えると、新聞が伝えるのは情報であり、それはコミュニケーションを行っているわけではありません。しかし、新聞が毎朝同じ時間に届き、それを同じ時間に読む、というような習慣的な振る舞いには、コミュニケーション的な要素があります。ヘーゲルが新聞について、「朝刊を読むことは現代人の礼拝行為だ」と述べたのは有名ですが、こういった反復行為には、朝の挨拶にも似た、コミュニケーション的な要素が含まれています。それは、ロジャー・シルバーストーンが「存在論的安全」と呼んだ、ある安心感を保証してくれるものです。

さきほど挙げたダニエル・ブーニューの議論のなかで重要なのは、情報はつねになんらかのコミュニケーションを通して届けられる、という点です。なんらかの情報を知るためには、まずはその情報が自分のもとに届いてこなければなりません。ここでは、この「届ける」ということを行う活動を、ひとくくりに「コミュニケーション」と読んでみることにします。「マスコミュニケーション」という言葉は、この「届ける」という行為をマスな次元で制度化したもので、そこに流通するさまざまな情報は、マスなコミュニケーション回路に乗っかることで広く共有されることになるわけです。

情報というものは、基本的には新しいもの、未知なるものです。そこにはつねに、なんらかの驚きと、そしてなんらかの動揺が生じるはずです。それゆえ、情報はつねにコミュニケーションという皮膜を通して受け取られる必要があります。信じることのできる情報というのは、あらかじめ親しんでいるコミュニケーション回路から届けられたものだけです。マスコミュニケーションというのは、たんに情報を届けるメディアというだけではなく、情報という未知なるものにある信頼や安心を付与する、心理的な保証者でもあるのです。

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コミュニケーションはいたるところで連鎖しており、そこにはさまざまな情報もまた流通しています。そしてこれまで、そうしたコミュニケーションをマスな次元で組織していたのは、いうまでもなく「マスコミ」でした。その状況は、インターネットの出現とともに大きく変わりつつあるようにも見えました。しかしtwitterが存在している現在から振り返ってみるならば、そこでは何が変わり何が変わっていなかったのか、ということが、事後的に見えてくるような気がします。

すくなくとも、パブリッシュすること(つまり三人称のまなざしのもとに情報を提示すること)の敷居と範囲は根本的に変化しました。つまり、限りなくゼロに近いコストで数万、数十万オーダーの人々に対してパブリッシュする、ということが物理的に可能となりました。これは誰でも知っていることです。しかし「コミュニケーション」という要素について考えるならば、物理的には潜在的に可能となった可能性と、それが実際に具体化することとのあいだ、つまり、何事かを書いてアップロードすることと、それが数万人に読まれることとのあいだには、大きな差があります。このことは、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」の違い、という観点から説明することができます。

仮に、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」をそれぞれ次のように定義してみます。

マスメディア=マスな人々に届きうる物質的メディア
マスコミュニケーション=マスな人々となされるコミュニケーション

これまで、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」はほとんど同義で用いられてきました。これは、マスなメディアがつねにマスなコミュニケーションを実現させていたからです。しかしインターネットの出現とともに、この点で根本的な変化が生じることになります。つまり、誰でもが「マスメディア」、つまり物質的にはマスな人々に届くことを可能とするメディアを手に入れられるようになったのです。しかし物質的にはマスな人々に届くことができるメディアに載せられたコンテンツが、実際に受け手に届くためには、それを実現するコミュニケーションが存在しなくてはなりません。しかし、マスなメディアは誰にでも手に入りますが、マスなコミュニケーションを実現することは、相変わらず困難でありつづけました。

もちろん、たとえばヤフーのトップページなどは、さまざまなサービスを組織することによって、ユーザーとの間にマスなコミュニケーション(おそらく新聞やテレビなどよりも強固な)を確立しています。コミュニケーションの回路さえ確保することができれば、マスなメディアであるネットは、原理上は新聞、テレビを凌駕するポテンシャルを有しているわけです。

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さて、このあたりまでを前置きとして、twitterに戻ってこようと思います。twitterというのは、基本的にはコミュニケーションの論理で作動しています。そこでの呟きは、あのアーキテクチャーが可能とした絶妙な距離感でもって、コミュニケーションの連鎖へと向けられています。本来はそのアーキテクチャーのどのような部分がどのような距離感や閉じと開かれを可能としているのか、についても考察する必要があるのですが、それについては誰かがやってくれると想定して、ここでは、「誰もが肌で理解しているあの感じ」を前提として話を進めたいと思います。

twitterでは際限のないコミュニケーションが連鎖しているわけですが、しかしそこにはしばしば情報もまた流通しています。それを行っている代表的なものはどこかのサイトのURLを貼るという行為であり、その行為はリツイートによって増殖していきます。呟かれたURLとそのリツイートによって、twitter上では常時とてつもない分量のURLが流れていると想像されます。

そろそろ結論に入ろうかと思いますが、僕の理解するところでは、twitterによって初めてインターネット上でマスなコミュニケーションの実現の可能性が開かれました。たとえば堀江貴文氏(@takapon_jp)にはいま50万人を超えるフォロワーがいますが、スモールワールド現象の要領で、「フォロワーのフォロワーのフォロワー」という風に広げていけば、数百万というオーダーには容易に達することができます。しかもこれは、堀江氏だけがそのポテンシャルを有しているのではなく、堀江氏にリツイートされたあらゆる呟きにそのポテンシャルがあるわけです。

インターネットというマスメディアに書き記しされた言葉も、それを人々へと届けてくれるコミュニケーションの回路に乗らなければ、チラシの裏に書かれたポエムと変わりません。しかしtwitter上で実現している際限のない(ほとんどマスな)コミュニケーションの回路は、それらの孤独な言葉の連なりを突如そのコミュニケーション回路に乗せることができますし、おそらくすでにそのようなことが繰り返し起こっています。そしてそのポテンシャルは、twitterが社会のインフラ化していくことになれば、ますます増大していくことになります。すでに紹介した以前の記事

Twitter上でのコミュニケーションをもっとも活発にすることのできるコンテンツが、一番多く受容されるコンテンツになるのではないか

ということを書きましたが、これはたんにテレビなどの「マスコミ」のコンテンツに限りません。インターネットによって「マスメディア」が一般化し、そしてtwitterによって、「マスコミュニケーション」もまた一般化しつつある、と書いてしまうと大げさですが、とりあえずメディアとコミュニケーションとの結びつきや、その変遷という観点からものごとを見てみると、かつて起こったこと、いま起こっていることに関する見晴らしが、それなりに良くなるような気がします。

故障したコンピュータは電気狂人の夢を見るか――物質的脆さについての試論――

以下に載せるのは、知り合いが発行した「クロニック・ラヴ」という同人誌に掲載してもらった文章です。

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1、フッサール:コンピュータ画面の現象学

 この文章を書きだす前に、おそらく一分ほどの間、なにも書かれていないまっさらなワードのシートを眺めてみた。まっさら、とはいってもむろん上部にはさまざまな機能を示すアイコンが並んでおり、下部にもその他のウィンドウの一覧が並んでいる。またワード文書の白地の部分についても、一か所、黒いカーソルが点滅している。とにかくそういった画面を眺めながら、トール・ノーレットランダーシュの『ユーザー・イリュージョン』*1という書名を思い浮かべていた。くしくもダニエル・デネットの『解明される意識』*2と同年に出版されたその本では、コンピュータをモデルとすることで、人間の意識というものをコンピュータによる計算の効果として生まれる「イリュージョン」とみなす、という考え方が提示されていた(上記のデネットの本でも同様だ)。
 そこで、コンピュータのスクリーンやそこに並ぶさまざまなウィンドウをモデルとして人間の意識を理解する、という発想をひとまずは真に受けてみよう。さて、自分がいま目にしているまっさらなワードの画面を、その通りに自分の意識の現象形態であると考えることに自分はリアリティーを覚えることができるだろうか。しかしここではまだ、この問いは問いのままに留めておくことにする。
 一瞬話が飛ぶようだが、エドムント・フッサールが提唱した現象学は、世界に実在しているモノへの信念をいったんカッコに括り、まずは意識に現れる現象そのものから出発すべしという公準をもっている。意識に現れるその現象から出発し、そこから遡るようにして、その現象を構成しているさまざまな作用(意識の志向性)や要素(質料)を取り出して行く、というのがその分析の手順だ。「ものそのものへ」というキャッチフレーズを携えているこの現象学は、しかし、パソコン画面に没入する意識というものを前にする時、いささか戸惑わざるをえないだろう。
 何よりもまず問題となるのは、画面に向かい合う意識に現れる現象を構成する諸作用というものを考えようとするとき、さまざまな感性的対象を画面上に生成するコンピュータの計算処理をどのように位置づけるのかという点だ。たとえば『イデーン*3で提示されている分析枠組を厳密に適用するならば、コンピュータの計算処理はあくまでも意識を触発する質料(ヒュレー)の問題であるとされ、特定の対象を生み出す能動的な地位を与えられることはないだろう。「意識に現れる現象が(部分的にであれ)コンピュータの計算処理によって生成される」という言明は、コンピュータという意識外の対象に準拠しているため、現象学の出発点となる公準に違反することになってしまうからだ。しかし、画面に向かい合う意識という具体的な事象を前にして、コンピュータによる計算処理の働きをすべてカッコに入れざるを得ないのだとしたら、現象学とはなんとも心許ないではないか。
 これはフッサールにつねにつきまとう問題であるのだが、形相と質料との関係、この場合では、対象を能動的に構成する意識とその意識を受動的に触発する外界との関係に関する古典的な見解がここにも顔を出す。意識とは現象を産出するいわば最終審級であり、意識をなんからの形で産出する外在的存在というものは、現象学では原理的に排除されるのだ。しかしこのような議論の枠組みには、コンピュータを操作する意識という場面を念頭に置く際には、根本的な問題があるのではないだろうか。そこでは意識はいくぶんかは、コンピュータの計算処理によって構成されている、とは言えないだろうか。


2、デリダエクリチュールとコンピュータ

 ところでフッサールは、絶えず自己の足元を掘り崩していくことで自身の理論を進展させていく稀有な哲学者であり、その最晩年の試論である「幾何学の起源」では、出来事の特権的な場としての意識の地位を根本的に相対化させる主張を行っている。フッサールはその試論のなかで幾何学の歴史の成立条件を論じるにあたって、幾何学上のそれぞれの成果を後続の幾何学者たちにアクセス可能にする文字が、幾何学の成立に根本的な役割を果たしていると主張して次のように述べているのだ。

直接間接の人格的話しかけを必要とせずに伝達を可能にすること、いわば潜在的になった伝達であることが、文字に書かれ、記録された言語表現の重要な機能である。このことによって、人類の共同体化もまたある新しい段階へと高められる*4

 このように述べられるとき、幾何学者の意識というものは、本質的に意識に外在する文字と、いわば内的な関係にある。その意識に生じる出来事は、フッサールによれば文字というインターフェースにおいて生じるのだ。そこでは意識は、ある本質的な形で特定の文字を通して構成されている。
 フッサール現象学の文脈上で明らかに異質なこの主張に、エクリチュールの哲学者ジャック・デリダが着目したのは必然的な成行きだったと言える。デリダエクリチュールについての自身の思想の出発点として「幾何学の起源」を選び、その翻訳に長大な序説を付して出版することでデビューを飾った。その後デリダは、その最初の書物でフッサール批判という形で行った、意識を構成するものとしての文字というこの問題を、グラマトロジー(文字論)という表題のもとで一般的な理論にまで練り上げることになる*5。そこでは人間の意識というものが、生命の遺伝的プログラムからコンピュータのプログラムにまでいたる文字の系譜のなかに位置づけられることになる*6。その議論に則るならば、意識は、特定の文字によって一方的に産出されるものではないにしても、少なくともつねにすでになんらかの文字との相互作用において構成されているのだということになる。
 デリダが展開するこの主張は、いうまでもなくコンピュータと意識との関係性を俎上に乗せる際に新たな光を投げかけてくれる。フッサールが扱った幾何学者の意識が、通常の文字の読み書きを通して構成されているのだとすれば、コンピュータの画面をインターフェースとして生み出される意識はどのようなものとなるだろうか。デリダのグラマトロジーは、文字と意識の系譜学、という視座を与えてくれるのだ。しかしさらに踏み込んで考察を進める前に、この問題の理解を助けてくれると思われるもう一本の補助線を引こうと思う。それは、デリダの弟子でもあるベルナール・スティグレールによるフッサール批判だ。


3、スティグレール:意識と忘却

 ベルナール・スティグレールは、デリダのグラマトロジーを批判的に継承することで、技術あるいはテクノロジーの問題という観点からプラトン以来の西洋哲学総体の再解釈を試みているフランスの哲学者だ。スティグレールにはすでに20冊を超える著作があるが、そのなかでも彼の哲学的プログラムのいわば骨組みの部分を展開しているのが『技術と時間』シリーズである*7。1996年に刊行されたその第二巻『方向喪失』*8ではフッサールが俎上に乗せられ、とりわけその時間論が詳細に検討されている(第四章)。
 スティグレールが扱っているのは、『内的時間意識の現象学*9にまとめられているフッサールのいわゆる初期時間論だ。その時間論の中心をなしているのは、過去把持と想起という記憶の二つのモードの区別だ。想起というのは、一般的に言及されるところの記憶で、かつて生じた出来事を思い返す作用だ。それに対して過去把持というのは、たった今過ぎ去ったばかりの記憶を意識の現在のうちに保持しておく作用であり、フッサールによれば、この記憶作用は「意識の今」に属している。つまり、「意識の今」というのは時間軸上の点であるのではなく、直前の記憶を保持することによって一定の時間的「広がり」を有している、というのがフッサールの主張だ。フッサールは「今」を拡張するこの過去把持を、「彗星の尾」という比喩で説明している。
 フッサールは意識の時間性を構成するこのような構造を、メロディーを聴く意識、という事象を題材にすることで分析していく。メロディーを聴くという事態を理解するためには、意識の現在というものを、たんなる点の連続として捉えることはできない。メロディーをメロディーとして理解するためには、現在聴きつつある音の中に、直前の音がなんらかの形で浸透していなければならない。メロディーを聴く意識の現在を構成しているのは、このように、直前の音の記憶が現在の音に浸透しているという、「拡張された今」であるのだ。
 このようなフッサールの議論を検討していくスティグレールの手つきの独自性は、その時間論を、フォノグラムというメロディーを機械的に再生することを可能とする機器を脇に並べて捉え直していくという戦略にある。そこで試されるのは、フッサールの時間論は、機械的に再生されるメロディーを聴くという意識の体験、それも繰り返し聴くという意識の体験を説明できるのかという点だ。そしてその分析の結果明るみに出されるのは、フッサールのある忘却である。それは、忘却の忘却、すなわち、たえず忘却していくという意識の性質についてのフッサールの忘却だ。
 端的にいって、意識の記憶能力には限界があり、スティグレールはこの限界を、デリダの用語を借りて「把持の有限性」と呼ぶ。フッサールは「意識の今」に属する過去把持について論じるのだが、そこでは過去把持が、過ぎ去ったすべての記憶を潜在的には保持しておけるということが暗黙のうちに前提とされている*10スティグレールはこの前提に対し、フォノグラムを通して同一の音を繰り返し聴くという経験を喚起することで、そこにはつねに忘却の作用が働いていることを示す。機械的に記録された完全に同一の音を繰り返し聴くとき、そこにはそのつど異なる聴取の経験が実現する。スティグレールはこのありきたりな事態を、忘却とそれをつかさどる基準の働きという観点から説明する。人間の有限な意識はすべてを聴きとることはできず、またすべてを保持しておくこともできない。それゆえそこにはつねに忘却のプロセスが働くのだが、忘却が生じるためには、何を忘れ何を覚えておくのかというなんらかの基準が必ず伴うことになる。聴取に先だって存在しているいわば経験の基準というものが、あらかじめ聴取の可能性を構造化しており、その基準に則って聴取が行われるのだ。そして、そこで実現する聴取の経験が、こんどは経験の基準を豊富化していくことになる。絶えざる忘却をともなうこういった循環プロセスを通して経験の基準がつねに変容していくために、一度として完全に同一の聴取は存在しない、というのがスティグレールの主張だ。
 このようにスティグレールは、フッサールがその時間論において過去把持という概念を導入することで行った意識の時間と記憶の分析を、フォノグラムという機械的記録/再生技術の光で照らしだすことで、忘却のエコノミーという観点から捉え返していった。フッサールの前提に反し、意識はつねに忘却とともに流れていくのであり、その忘却のエコノミーを正面から捉えていく必要があるというのだ。この忘却のエコノミーというものを考えるに際しては、テクノロジー(この場合はフォノグラム)はたんにそれを浮かび上がらせる契機にはとどまらない。むしろ、その忘却のエコノミーそのものを根底から支えているのが技術あるいはテクノロジーなのだ、というのがスティグレール
主張だ。その点を端的に表現しているのが、フッサールの区別を位置づけ直すことで作り出された、一次的過去把持、二次的過去把持、三次的過去把持というスティグレールの区別である。


4、スティグレール:過去把持の三つのタイプ

 一次的過去把持rétention primaireと二次的過去把持rétention secondaireとはそれぞれ、「意識の今」に属する過ぎ去ったばかりの記憶を保持する過去把持と、すでに完全に過ぎ去った記憶を改めて思い出す想起、というフッサールの区別に対応するものだ。スティグレールはこの二つに、三次的過去把持rétention tertiaireなるものを加える。これは、技術的媒体に記録された外在的記憶を指し、さきほどの例でいえばフォノグラムによる記録がそれに当たる。
 フッサールは、スティグレールが三次的過去把持と呼んだような外在化された記憶に触れてはいるが、それはたんにそのような記憶は彼の問題の範疇外にあるということを示すためだけにである*11フッサール現象学では、現象というできごとはつねに意識という場においてしか起こらないのだ。フッサールにとっては、メロディーがオーケストラで演奏されようと、フォノグラムで再生されようと、あるいはipodで再生されようと、まったく関係がない。しかしスティグレールはこのような発想に明確に反対する。というのも、意識の記憶と忘却のエコノミーは、つねにそれを支える技術的記憶の体制から出発することによってしか理解できないからだ。
 スティグレールは上に挙げられた三つの過去把持の関係を、端的に「一次的過去把持と二次的過去把持の関係を、三次的過去把持が重層決定する」という表現で定式化している。意識は、二次的過去把持という記憶のリソースを元手にしながら、「意識の今」においてたえず記憶の選別を行っているが、そのプロセスの総体は、意識を取り囲みサポートする三次的過去把持の体制によって条件づけられている、というのだ。
 スティグレールはこの議論をまずは文化産業論という文脈の中に位置付けているが、その事例は確かにわかりやすい。たとえば一本の映画を観るという体験には、すくなくとも、それまでに見てきた多くの映画の記憶がなんからの形で合流している。映画を観賞するその時間のなかで、ぼくらはさまざまな記憶を喚起させられることになる。その記憶そのものは、もちろん個々人の頭のなかに蓄えられた二次的過去把持であるが、それが映画にまつわるさまざまな技術や制度によって可能となった総体的な三次的過去把持を環境としていることは間違いない。
 このことはたんに、参照できる記憶のリソースだけに関する事態ではない。たとえば映画評論家の蓮實重彦がどこかで語っていたことだが、家庭用ビデオデッキというものが存在しない時代、映画館で映画を観るときには、その機会を逃したらもう一生その映画を再び観ることができないかもしれない、という緊張感があった、という。それだから彼は、映画を構成するシーンをすべて記憶するぐらいの気持ちで観ていた、とも。もちろんそこには氏が有する特殊能力も関係しているだろうが、しかし同時に、映画への技術的・制度的なアクセス環境そのものが、映画を観るという一次的な経験そのものの体制に影響を及ぼす、という一般的な事態が見て取れるだろう。あらゆる情報がデジタルアーカイブに一元化されつつある、という感覚がどことなく共有されているように思われる現在では、蓮實氏が語っていたような「今」に向けられる集中力というのは、絶対に不可能ではないにしても、傾向的には淘汰されていく方向にあると言えるだろう。フリードリヒ・キットラー風に述べるならば、意識の「書き込みシステム」は、技術の「書き込みシステム」の体制を暗黙のうちに頭の片隅に置いており、そのことによって、自身の負担をさまざまな形で節約しているのだ。


5、再びコンピュータ画面と意識
 
 ここで、コンピュータに向き合う意識という事象に再び立ち戻ってみよう。フッサールは、そしてその議論を受けてスティグレールは、メロディーを聴く意識というものを題材にして、意識を構成する時間性を分析していった。それではそこで取り出された成果を、コンピュータに向き合う意識へと適用すると何が見えてくるだろうか。
 とりあえずはネットサーフィンをしている意識というものを考えてみよう。スティグレールのモデルに従えば、そこでは一次的過去把持、二次的過去把持、三次的過去把持という三つの記憶の審級が作動している。
 まず、一次的過去把持について考えてみよう。書物の場合には、「意識の今」という一次的過去把持の計算処理は、文字を追っていく眼球の運動や、ページをめくる手の動きと連動していた。対してコンピュータの場合、その計算処理はキーボードのタイプやクリックといった指の動きと連動している。さらに、その動きによって引き起こされる画面上の動きは、当然ながら、書物の場合のような物理的制約からは解放されている。そこでの画面転換の法則を司るのは、物理学ではなくヴァーチャルなリンク構造である。書物をめくる際に基本的な物理法則が暗黙のうちに念頭に置かれているように、クリックをする際にもその構造が念頭に置かれている。このような環境の中で、コンピュータ画面に向きあう意識は体験を組織する。
 次は二次的過去把持だが、この機能は、コンピュータという環境によって大きく縮減することになると思われる。というのも、コンピュータあるいはネットワークによる外在化された記憶が、それまで二次的過去把持に課せられていた役割を、相当程度、代替していくことになると思われるからだ。もちろん書物においても、書物への書き込みやメモ取りなどの三次的過去把持は大きな役割を有していた。しかしコンピュータというテクノロジーは、記憶および記憶の組織化という点で圧倒的な効率性を発揮することになる。文字情報であれば、まったく場所を取ることなくほとんど無限に情報を貯めこんでおくことができるし、音声や映像に関しては、記録保存の効率性はもちろんだが、さらにはこれまではほぼ全面的に個人の二次的過去把持に頼らなければならなかったそれらへのアノテーションやタグ付けによる構造化が、コンピュータ上で可能となる。また「お気に入り」に登録することで、二次的過去把持による記憶を、三次的過去把持への記録(というよりはリンクの保存)へと委譲するという身振りも、今日ではきわめて一般的なものとなっている。
 加えて、ナビゲーションという側面について考えてみよう。書物の場合、意識の流れをナビゲーションする役割を外在化するものとして、文字の線的な流れに加え、目次やページ、それに索引などが組み込まれている。さらには内容上で、他の書物への参照がなされていることもある。一方、コンピュータの操作やあるいはインターネットをサーフィンする場合には、ナビゲーションはさまざまなアイコンやリンク構造によってなされる。これに関しては、感覚的、直感的に把握できるようなレイアウトが日々開発されている。つまり、意識への負荷がどんどん外在化されつつあるのだ。意識がきわめて容易にインターネットの世界にかくも深く、かくも長時間にわたって没入することができるのは、このように意識が能動的に果たさなければならない役割が相当程度、外在化されているからだと思われる。
 ところで、コンピュータに向き合う意識の記憶のあり方という問題に関して、少々脱線を許していただきたい。筆者が小学校の高学年生だった頃、ある瞬間に、もし誰かが死んでも教会で復活させることはできないのだという当たり前のことに思いが至って驚愕したということがあった。この「教会」というのはもちろんRPGゲームの『ドラゴンクエスト』の教会のことだが、そのことに驚いたのと同時に、小学校高学年ともなれば多少の分別はついているので、人間の生死といったもっとも深刻な領域でのリアリティーに、ゲームを通して培った感覚がこれほどまでに深く浸透しているということにも、強く驚いたのだった。人間が死ねば生き返ることはできない、ということはもちろんその当時も頭では完全にわかっていた。しかし感覚のレベルでは、あたかも「ザオリクは存在する」と信じていたような節がどこかにあったのだ。
 現在、誰もがコンピュータに触れ、またネットに接続しているという状況にあって、「ザオリクは存在する」ではないけれど、「忘却は存在しない」という感覚レベルでの信憑のようなものが広がっているのではないか、という気がする。少なくとも、自分のなかにはそのような感覚がどこかに潜んでいるように思えてならない。たとえばある歴史的な事柄について詳しく覚えていなくても、「ググればすぐにわかる」という感覚はつねに頭のどこかにあるような気がする。
 さまざまな物事を記憶しておくことや、記憶された内容を構造化しておくこと、あるいはさまざまな情報をたどっていく際の方法論などは、これまではその大部分が意識に内在化された能力として具体化してきた。そしてその能力の発達は、かならず意識そのものへと書き込まれた。しかしコンピュータというテクノロジーは、それらの多くを外在化することを可能とした。そのため、かつては意識によって実行され、そしてそこに書き込まれていった能力は、今後はコンピュータへと書き込まれることになった。とはいっても意識が完全にお払い箱になるということではもちろんない。そこでは、まったく新しいタイプの能力、コンピュータへと外在化された能力をうまく制御するための能力が、意識へと書き込まれるようになったのだ。


6、コンピュータと脳

 ここでいったんデリダに立ち戻る。フッサールの批判を通して、デリダが意識を構成する審級としての文字という考え方を推し進めたという点についてはすでに説明した。しかし、「幾何学の起源」で問題となったようないわゆる読み書きされる文字と、コンピュータを構成しているデジタルの文字(つまり0と1)との間には、大きな断絶がある。それは、前者が人間の意識によって扱われる文字であるのに対し、後者は機械によって扱われる文字である、という点だ。
 たとえば、いわゆる文字を読んだり書いたりする時、意識の思考の流れは、そこで扱われる文字そのものの形式によって構造化される。そこでは意識そのものが文字の形式を直接に経由するのだ。しかしコンピュータを画面上でカーソルやアイコンに頼って操作する時、意識は0と1で構成される文字を直接に経由することはない。0と1で織りなされる際限のない計算処理を直接に扱っているのはコンピュータという機械であり、意識はというと、ヒューマン・インターフェースを通して間接的にその処理を統御しているにすぎない。
 つまり両者での意識と文字との関係は、一方が直接的であるのに対して他方が間接的であるという違いがあり、だとすれば、「文字が意識を構成する」と一言で言うにしても、その内実には大きな差異が生じることになる。読み書きしているときには当然ながら意識は、文字が何をしているのかを知っている。しかしコンピュータを操作するという段になると、ほとんどの場合、意識は文字が何をしているのかを知らない。この文章を書いているとき、意識が行っているのは日本語の入力であるが、しかしその入力作業の実現は、0と1とが織りなすコンピュータによる得体のしれない計算によって遂行されている。
 ところで、人間と機械とのインタフェースの地点に見られるこのギャップは、意識と脳との関係とある部分ではパラレルである。たとえば意識がコップを持ちあげるとき、脳ではニューロンが活発に行き来するが、もちろん意識はそのことを知らない。しかしそのような並行関係が見られるとして、だからなんだというのか。
 ここに来て唐突に脳について言及することになったが、本当のことを言えば、脳の問題はこの文章の出発点にあった。いや、この言い方はあまり正確ではない。正確を期するためには、「サーバーパンク」というキーワードに言及する必要がある。


7、マラブー:「サーバーパンク」なる奇妙な語と「新しい負傷者」
 
 そもそもこの文章を書くきっかけとなったのは、「サーバーパンク」という奇妙な語だった。まずは知人から、「サーバーパンク」という造語を出発点として同人誌を作りたいという話を聞き、また同時にこの言葉をめぐって何か文章を書いてくれないか、と頼まれた。その依頼のメールには合わせて、関連する用語として「サーバ」や「パンク」、「輻輳」といった言葉を説明するwikipediaのページのリンクが張られていた。なんとなくそれらを眺めているうちに、コンピュータへの指令が社会活動の最もベーシックなインフラとなっているというぼくらを取り巻く現状と、「物理的な故障」というものがもつある種の想像喚起力との組み合わせに興味を覚えていった。そのときに思い至ったのが、フランスの現代の代表的な哲学者の一人であるカトリーヌ・マラブーが2007年に出した『新しい負傷者たち』*12という書物だった。
 これは、マラブーの祖母がアルツハイマー病に罹り記憶を喪失していったという個人的な体験と、彼女がそれまで積み重ねてきた哲学との格闘との交差点で書かれたとされる書物だが、そこで問題となっていたのは、脳の「物理的故障」というものが有する哲学的なステータスであった。
 アルツハイマー病による記憶の喪失は、心理的に引き起こされるものではなく、脳という意識のハードウェアそのものの故障によるものだ。このような故障という事態への着目は、哲学の文脈ではフロイト精神分析との批判的な関係を必然的に帯びることになる。そもそも「新しい負傷者」が対比させられる「古い負傷者」とは、フロイトのトラウマ理論にインスピレーションを与えた、第一次世界大戦の負傷兵のことを指している。そのトラウマ理論のなかでフロイトは、トラウマの原因を最終的には家庭内での心理的出来事へと還元していた。つまり「古い負傷者」とは心理的な場面に限定される負傷者であり、それに対してマラブーは、心理へと致命的な影響を及ぼす物理的故障を負った「新しい負傷者」に着目しようというのだ。
 この対比とセットをなすものとしてマラブーは、フロイトによる「セクシュアリティー」という概念との対比で、「脳因性cérébralité」という概念を提案する。これは、性を原因として「出来事を生み出す体制」を指し示す概念である「セクシュアリティー」の脳バージョンとして、心的出来事を生じさせる脳次元での作用体制を指し示す概念だ。アルツハイマー病に罹ったマラブーの祖母の記憶喪失という「出来事」をもたらしているのは、フロイトが扱ったような性という心理的領域ではなく、脳という物理的領域であり、「脳因性」とは、このような事態を指し示すための概念だ。
 マラブーが提起しているこの議論は、そこで直接的に扱われている脳という領域に限定されるものではない。そこでは、心的出来事を最もベーシックな次元で支えていると同時に、場合によってはそれに深刻な影響を及ぼしうる物理的なインフラの働きというものが考察されているのだ。意識は、たんに脳の物理的な構造へと還元しうるものではないが、しかしその物理的な構造による支えがなければ、そもそも意識そのものが存在しえない。そして、その物理的構造の深刻な故障は、意識そのものに致命的な破綻をもたらしもする。意識とそれを支える物質的な次元との、相対的に自律した関係性を哲学はどのように捉えていくことができるのか。これが、マラブーによる問題提起の核心であると思われる。


8、文字と物質性

 意識の物理的なインフラの崩壊に焦点を当てたマラブーの議論は、先に挙げたスティグレールの議論との対比としても非常に興味深いものだ。すでに述べたように、スティグレールは人間の有限性、とりわけ把持の有限性に焦点を当て、そこに生じる記憶のエコノミーの問題を技術やテクノロジーの観点から論じていったのだった。それらのテーマは、人間の意識を構成する物質的な層に関わるものだが、マラブーもまたこの同じ層に目を向けながら、相当に毛色の異なる議論を展開している。一言でいえば、スティグレールが把持の有限性にともなう忘却(と技術によるその代補)を扱っているのに対し、マラブーは崩壊あるいは故障というよりラディカルな物質的出来事に焦点を当てるのだ。
 ただし忘れてはならないのは、マラブーが問題としたような物質的な「パンク」は、デリダがその最初期のフッサール批判の中ですでに取り上げていたものであるという点だ。デリダは文字に不可避にともなう「危機」について次のように述べていた。

客観性の保証である文字記号は事実上毀損することもありうる。この危険は書き込みそのものの事実的世界内性に固有のものであり、何ものもこの危険からそれを決定的に保護することはできない。このような場合、ひとまずこう考えてよさそうである。フッサールにとって意味は即自でも純粋な精神的内面性でもなく、徹頭徹尾「対象」なのだから、客観性の番人である記号の崩壊に続く忘却は、「プラトン主義」や「ベルクソン主義」におけるように、忘却によって傷つけられることのない意味の表層ですむものではないだろう、と*13

これにつづけてデリダは、「一切をなめつくす大火、世界中の図書館の消失、遺物あるいは「資料」一般の破局」という事態に言及している。この事態は、マラブーにインスピレーションを与えたアルツハイマー病のまったくの等価物ではなかろうか。マラブーの祖母は、以前の記憶を完全に喪失したまま、それでもその心そのものは空白のまま生きつづけている。同じように、もし全面的な資料喪失が幾何学を襲ったとすれば、すべての記憶、すべての蓄積は無に帰することになる。ただし、潜在的幾何学者たちの無垢な魂はそのままに。
 このとき問われるのは、文字という存在の二重性だ。たとえばフッサールが論じた幾何学的対象は、文字を通して構成されるものだが、それは机や椅子のようにどこかに存在しているわけではない。それは幾何学が構成するというヴァーチャルな平面にのみ存在するヴァーチャルな対象だ。しかしそのような対象を構成する文字そのものは、必ずなんらかの物質的な支持体に書き込まれる必要があり、それゆえ物質的に毀損しうる。そしてデリダが述べているように、ヴァーチャルな対象を構成する物質的な文字の物質的な毀損は、ヴァーチャルな対象そのものを不可能たらしめる。
 これと同じ構図は意識にもほぼその通りに見られる。人間の記憶は実在するものではない。ベルクソンが『物質と記憶』のなかで論じているように、記憶された事柄は、実在したかもしれなかった出来事そのものとは異なり、本質的にヴァーチャルな対象だ*14。もちろんベルクソンの想定とは異なり、その記憶は有限で忘れ去られうるもの、すなわち脳という支持体に物質的に書き込まれたものにすぎない。この点で、多くの論者がそう論じてきたように(そのなかにはむろんフロイトの名もある)、記憶を一種の文字の書き込みと捉える発想は正当であると言える。記憶は、ヴァーチャルな対象を産出するリアルな書き込みという文字的なプロセスによって構成されるのだ。
 文字の有するこのような性質を押さえておくと、コンピュータがまぎれもなく文字の系譜に連なる存在であることが明白になる。コンピュータによる計算を通して画面上に生成される諸対象は、いうまでもなくヴァーチャルなものだ。しかしそのヴァーチャルな諸対象は、コンピュータというリアルな存在によって生成されている。そこでの従来の文字との違いは、かつては文字がヴァーチャル化した諸対象をアクチュアルにするのは、あくまでもそれを読み取る人間の意識の仕事であったのに対し、今ではコンピュータそのものがヴァーチャルな諸対象を画面上にアクチュアルにするという点だ。この点でも、コンピュータはまさしく意識になぞらえるにふさわしく、そして忘れてはならないが、そこで実現されるヴァーチャルな諸内容は、物質的毀損によって致命的な損害を受けることになる。「サーバーパンク」という標語が生き生きとしてくるのは、このようなパースペクティブのもとにおいてだと思われる。
 

9、物質性の二つの側面と「サーバーパンク」

 ベルナール・スティグレールは先に挙げた『方向喪失』のなかで、コンピュータの計算処理にともなう不可欠の物質性が、アラン・チューリングによるチューリング・マシンの構想時点ですでに忘却されているという事実を指摘している*15。コンピュータはこのリストの最終列に位置している。そこでは、古来より人間の知的能力を構成する基本要素とされた、記憶力、想像力、理性が徹底的に外在化される。人間にとっての「できること」のエコノミーが、現在、有史以来もっとも深く技術あるいはテクノロジーによって浸透されていることは間違いない。その事態を端的に現しているのがコンピュータであり、ぼくらに「できること」の大部分は、そのつどコンピュータ画面上に描き出される。
 このとき忘れてはならないのは、ぼくらがその画面に投影する「想像的なもの」を支えているのが、コンピュータによる計算処理という(非人間的な)「象徴的なもの」と、さらには最終的なインフラとしての物質的な支持体であるという点だ。サイバーパンクは当時の最新のテクノロジーを依りしろとして、想像的なものへと存分に没入した。これに対して「サーバーパンク」が提起するのは、「想像的なもの」を支える物質的な次元と同時に、「パンク」という言葉を通して、そこに懐胎されているまったく新たなカタストロフの可能性だ。交通網の整備によって立ち上げられた速度の体制が交通事故(その残骸は不気味なモノ以外の何物だろうか)を発明したのだとポール・ヴィリリオが述べるような意味で*16、コンピュータ・ネットワークが可能とした未曾有の速度は、まったく新しい種類の事故の可能性を発明しているにちがいないのだ。

*1:トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』、柴田裕之訳、紀伊国屋書店、二〇〇二(原書は1991)。

*2:ダニエル・デネット『解明される意識』、山口泰司訳、青土社、一九九八年(原書は1991)。

*3:エドムント・フッサールイデーンI-I』、『イデーンI-II』、渡辺二郎訳、みすず書房、一九七九年。

*4:エドムント・フッサール『「幾何学の起源」への序説』、p.272。

*5:ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上、下巻、足立和浩訳、現代思潮社、一九七二年。

*6:「ルロワ=グーランが敢えて用いた表現を受け入れるなら、われわれは「記憶の解放」について、また痕跡の、つねにすでに始まってはいるがつねにすでに増大した外在化について、語ることができよう。この外在化は、いわゆる「本能的」行動のプログラムから電子的分類索引、翻訳機械の構成にいたるまで、差延と保蔵化の可能性とを拡大する。この可能性は、同一の運動において、いわゆる意識的主観性、そのロゴス、その神学的諸属性、を構成すると同時に抹消するのである。」、同上(上巻)、p.176〔訳語は修正〕。

*7:2009年現在で、六巻まで予告されているうちの三巻まで刊行。一巻の『エピメテウスの過失』は西兼志訳で法政大学出版会より邦訳がさきほど刊行された。

*8:Bernard Stiegler, La technique et le temps2. La désorientation, Galilée,1996.

*9:エドムント・フッサール『内的時間意識の現象学』、立松弘孝訳、みすず書房、一九六七年。

*10:Cf,「すべてを過去把持的に保持しているような意識も理念的にはおそらく可能であろう」(エドムント・フッサール『内的時間意識の現象学』,p.43。)

*11:「意識的な模写性(絵画・胸像など)の場合のように相似の客観による再現が問題になっているのではない。」(エドムント・フッサール『内的時間意識の現象学』、立松弘孝訳、みすず書房、一九六七年、p.78)

*12:Catherine Malabou, Les nouveaux blessés, Bayard, 2007.

*13:ジャック・デリダ『「幾何学の起源」への序説』、p.138。

*14:Cf, 「過去は本質上ヴァーチャルなものであり、暗闇から白日下へと出つつ現在のイマージュへと開花するその運動を、私たちが、追跡しかつ取り入れる場合にのみ、過去として私たちによってとらえられうるのだ。」(アンリ・ベルクソン物質と記憶』、田島節夫訳、白水社、一九九九年、p.153、〔訳語は修正〕)

*15:Cf, 「容易に理解されるように、ここでは補助はそのものとしては考察されず、この文脈では支持体は瑣末な問題である。なぜなら重要であるのは、形式的で抽象的なモデルが、原則的には変質をこうむることなく様々な形で実現しうることを示すことだからだ。しかしながらこのことに含意されているのは、理論的なモデルにおいては、機械のリボンが構成する記憶が無限であるということだ。形式的なモデルによっては考察されえないのは、把持の有限性であるのだ。」(Bernard Stiegler, La technique et le temps2. La désorientation,p.191)))。チューリング・マシンを構成するのは、計算プロセスであるプログラムと、その計算結果をパンチとして記録するリボンとであるが、その際チューリングは、記録媒体であるところのリボンには権利上限界がないと想定している。スティグレールはこの想定のうちに、フッサールの時間論に見られたのと同様の形而上学的予断を見て取る。実際スティグレールは、その想定がたんにコンピュータの構想にとどまらず、それ以後のコンピュータをモデルとして人間の意識を捉え直していく発想の根底に留まりつづけたことを浮かび上がらせていく。  デリダおよびマラブーの議論を踏まえるならば、スティグレールが記憶の有限性という観点から注意を促している物質性という問題に関して、崩壊や毀損という観点も付け加える必要があることは、もはや明らかだ。コンピュータという存在にともなう物質的な有限性と毀損可能性、この二つは、「サーバーパンク」という新しい名に冠されるべき二大看板ではないだろうか。  一方で、容量過多やそれにともなう処理速度あるいは通信速度の限界は、サイバースペースという言葉が喚起する快感原則の世界に現実原則によってフラストレーションを課す。他方で、パソコンの故障や場合によってはハードディスクの毀損は、記憶のほとんどをそこに貯めこんでいるぼくらをしばしば茫然とさせる。ヴァーチャルな世界を縁取り支え、同時に事あるごとに顔を出してくるこれらのリアルなものは、コンピュータがもたらしたさまざまなポジティブな側面の裏側で、ある種のネガティブなリアリティーを確かに生み出していると言えるだろう。 10、もう一つの現実界へ  最後に再び、この小論の出発点にあった光景に立ち戻りたい。ワープロソフトが立ち上げられたこの画面、ヴァーチャルな書き込み平面だ。マラブーが仮想敵とした精神分析の言葉づかいを借りるならば、この画面そのものは「想像的なもの」にあたる。ぼくは、ここに書き込まれていくテクストが、すでに誰かに読まれているとどこかで信じている。実際にそれが読まれるには、印刷され、製本され、頒布されるという具体的なプロセスが必要となるが、しかしその以前にすでに、ここに書き込みつつあるテクストを、ぼくは「誰か」と共有している気になっている。そもそもそれがなければ、何事かを書くという行為は不可能であるのだ。先取りされた他者が出現する空間、それが画面という想像的な場所だ。  しかし「象徴的なもの」が問われるとなると、その時点で精神分析とは切断することになる。というのもパソコン画面においては「象徴的なもの」は二重化するからだ。たとえばぼくは、ここに書き込まれつつあるテクストが他者によって厳密にどのようなコードで読み取られることになるのかを知らない。これは精神分析における一般的な意味での「象徴的なもの」の領域だ。しかし同時にここに書き込まれつつあるテクストは、もう一つの、得体の知れないコードで読み取られてもいる。それはコンピュータによる計算処理だ。書き込まれていく一つ一つの文字が、究極的には0と1で織りなされる、人間には読むことのできない文字へと変換されていく。ジャック・ラカンは繰り返し文字について語ったが、しかしそれはあくまでも人間が読む文字であって、コンピュータが読む文字とそれが織り成す「象徴的なもの」はその議論には入ってこない。  そして「現実的なもの」。マラブーの議論は、精神分析がまったく扱うことのできない「現実的なもの」を俎上に乗せている。すなわち、コンピュータの計算を支える物質。さらにその画面がネットワークに接続されているならば、それを支える物質。意識に構造的な故障をもたらすものとしての現実的なものは、ここではもはやその心理主義を捨て去って、有限かつ破壊可能な物質となる。フロイトは、無意識は不死で非時間的で破壊不可能であると述べたが、対してマラブーは、ニューロン的無意識が可死で時間的で破壊可能であることを強調していた。同じく、物質としてのコンピュータは留保なく破壊可能であり、破壊のあとには、機能不全に陥った不気味なモノだけが残る。  アンドレ・ルロワ=グーランによれば、技術による外在化のプロセスを通して人類は、まずは身振りを、次に筋力を、そして最後には神経を技術へと次第に委譲していった((アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』、荒木亨訳、新潮社、一九七三年。

*16:「蒸気船や帆船を発明するとは難破を発明することであり、列車を発明するとは鉄道の脱線事故を発明することである。自家用車を発明するとは、高速道路での玉突き事故を生産することなのである。」(ポール・ヴィリリオ『アクシデント――事故と文明』、小林正巳訳、青土社、二〇〇六年、p.26)