twitterは詩壇の裏をかいたのか

高橋源一郎氏のtweetによって、詩壇(というのでしょうか?)である悶着が生じていることを知りました。その悶着の発端がtwitterにあったため、その直前にtwitterへの考察ということをしてみたこともあり、twitterについて、より正確にはそこで可能となるメディアとコミュニケーションの関係について、さらに考えを深めるための題材として面白いのではないかという気がしました。そこで、改めて具体的な経緯をネット上で追ってみたのですが、そうするうちに、この問題は、部外者が軽々に語るべきものではないだろう、と思えてきました。というのも、そこで生じている軋轢を駆動しているのは、最終的には「詩とは何か?」といった正解のない問いに対する各々の信念であるように見えたからです。だとすればそこに関わることができるのは、その正解のない問いに対して実際にコミットし、自分なりの信念を育てている人間だけであるでしょう。

しかし少し時間を置くうちに、それでも何か書けないか、という考えが再び頭をもたげてきました。そこで改めて考えを巡らし、ひとまず「詩」という問題を完全にカッコに入れて、メディアとコミュニケーションをめぐる側面だけに焦点を当てる、という風に立場を限定すれば、多少他愛のないことを書いても許されるのではないか、と判断しました。なので以下の部分は、その点をご了解いただける方だけお読みくださいますようお願いいたします。

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ひとまず、事実の経緯を簡単にまとめてみます。

・3月6日深夜、小説家で中原中也賞の選考委員でもある高橋源一郎氏が、中原中也賞の選考に漏れた大江麻衣氏の詩をtwitter上でつぶやく

・それを読んだ「新潮」の編集者が大江氏にコンタクトを取り、高橋源一郎氏の推薦の辞とともに、「新潮」の七月号に大江氏の作品が掲載されることになる。
(この際、高橋氏は実際に仲介的な役割を果たした模様
※高橋氏による推薦の辞はこちらでよめます。

・7月6日の夜、詩人の城戸朱里氏がtwitter上で高橋氏への批判を行う

・7月10日夜、高橋氏がやはりtwitter上で城戸氏に(名前は直接には挙げず)反論を行う

城戸氏が行った批判は、高橋氏が推薦の辞で述べた次の一文をめぐるものです。

いまこの詩集を読み返すと、みんなが「書きたい詩」を書いている中で、大江さんは「書かれるべき詩」を書いたのだ、という思いが強い。

その批判は、直接には「みんな」という表現、言いかえれば、あたかも現代の詩の全体を視野に収めているかのような表現に向けられているのですが、その後の展開を見れば、つまるところそこで問題となっているのは、「お前に(現代)詩の何が分かるんだ?」ということであるようです。暗喩をめぐる議論など、このあたりからは門外漢には近寄ることのできない世界に入っていってしまいます。もちろんそこには、「みんな」という表現に見てとられた「傲慢さ」についての批判も含まれています。

それらはいずれも高橋氏の≪発言の内容≫に関わるものですが、それとは別に、≪発言の文脈≫、すなわち高橋源一郎氏が中原中也賞の選考委員である、ということもまた問題とされています。問題となった発言を、詩の賞の選考委員ではない他の有名作家が行ったとしても、その発言はおそらくきわめて高い確率で、たんに無視あるいは黙殺されただけだったでしょう。ではなぜ高橋氏の発言に対しては批判があがり、それを別の詩人が公にしなければならないと考えたか。それは、高橋氏が中原中也賞の選考委員だったからにほかならないでしょう。中原中也賞は詩の世界ではもっとも権威のある賞の一つであるようなので、多くの若い詩人たちがその受賞を狙っていると思います。その彼らからすると、ほかならぬ選考委員の高橋氏が、「みんな」と大江麻衣氏とを、「書きたい詩」と「書かれるべき詩」とに区別したというのは、心中穏やかざるものがあるでしょう。それは当然の反応です。

ただし今回の記事では、もう一つの≪発言の文脈≫に注目したいと思います。それは、「新潮」への大江氏の詩の掲載が、高橋氏のtwitter上でのつぶやきに端を発している、という≪発言の文脈≫です。今回の問題に接して僕が受けた印象は、twitterに端を発しているという事実が、実は高橋氏への批判の根幹にあるのではないか、というものでした。おそらく当事者、とりわけ批判の先鋒となった城戸氏はこの点を否定すると思います。実際違うのかもしれません。そしてそうだとしても構いません。ここでの目的は、批判の「無意識の動機」なるものを探ることではなく、あくまでもメディアとコミュニケーションという問題について考察することです。その目的に沿って、今回の事例に別の角度から光を当ててみたいと思います。

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前回の記事では、ささやかながらtwitterというものについて考察してみたのでした。ポイントだけかいつまんでまとめ直してみます。まず、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」というものについて、それぞれ次のように定義してみました。

● マスメディア=マスな人々に届きうる物質的メディア
● マスコミュニケーション=マスな人々となされるコミュニケーション

従来は「マスメディア」は、マスな人々とのコミュニケーションを実際に成立させていたので、同時に「マスコミュニケーション」でした。しかしインターネットの出現は、「マスメディア」=「マスコミュニケーション」の図式を大きく動揺させることになります。というのも、たとえば個人的に作成されたホームページやブログは、物質的条件としてはマスな人々に届きうる「マスメディア」ですが、しかしその潜在的な可能性を具体化するコミュニケーションを実現することができないので、「マスコミュニケーション」ではありません。書かれたものが読み手に届くためには、それがなんらかのコミュニケーション回路に乗る必要があるのです。

Twitterはネット上のコミュニケーションの連鎖可能性を、相当程度マスな次元にまで引き上げました。ただしマスなコミュニケーションが実現するためのスイッチの入り方は、従来のマスメディアとは大きく異なります。従来のマスメディアでは、そのメディアが取り上げることそのものがマスなコミュニケーションを意味していましたが、twitterでは普段はミクロ+αのコミュニケーションが行われており、リツイート、再言及の連鎖という形でスイッチが入った場合のみ、それがマスなコミュニケーションとなるのです。もちろんそのマスの程度も千差万別で、そのつど独自のグラデーションを生み出すことになります。

マスなコミュニケーションから切り離されたマスメディアであるところのネット上の孤独な記事群は、twitterとともに新たなコミュニケーション可能性へと開かれることになりました。これまでもソーシャルブックマークなどのシステムはありましたが、twitterとともにネット上のコミュニケーションの連鎖可能性は飛躍的に増大しました。そもそもがマスメディアであるネットに存在する記事は、マスなコミュニケーションと接続することができれば、瞬間的にであれ「マスコミュニケーション」並みの受け手に届くことが可能なのです。

情報とコミュニケーションという対を考えた場合、前者はかならず後者を乗り物としてのみ誰かに届くことができます。読んでもらうためには、まず届けられなければならないのです。コミュニケーションは、それ自身で自足することもあれば、合わせて情報を誰かに届けることもあります。twitterでの具体例を考えるとするならば、(1)たんに他愛のないやり取りを延々と楽しむこともあれば、(2)コミュニケーションのトピックとしてどこかのリンクを貼ることもあるし、(3)純粋に広げたい情報のリンクを貼ることもあります。第一の場合は純粋なコミュニケーション、第二の場合はコミュニケーションのための情報、第三の場合は情報のためのコミュニケーション、と言えるかもしれません。いずれにせよ、情報を伝えるということだけを目的としている場合(3)ですら、相手との最低限のコミュニケーション回路が必要であるし、またリンク先を実際に読んでもらうためには、多くの場合、一定以上のコミュニケーション実績が必要となります。

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ところで、賞というもの、とりわけ文学賞は、一種のコミュニケーションです。それは、賞の価値を共有する共同体を確認/強化するコミュニケーション行為であると同時に、受賞作品を人々に周知するコミュニケーション行為でもあります。芥川賞直木賞などの有名な賞ともなれば、その受賞は、たんに文学の世界にとどまらない世間一般のコミュニケーション回路に乗ることを意味します。詩の場合、たとえば中原中也賞の場合はそこまでではないかもしれませんが、しかし普段は詩を読まない読書界のコミュニケーション回路にはある程度乗ることができそうです。そして言うまでもなく、作品があるコミュニケーション回路に乗るということは、潜在的な読者をその分だけ手に入れることができるということを意味します。

周知のように、文学賞というコミュニケーションは、メディアと切り離すことができません。筒井康孝の『大いなる助走』でも描かれていたかと思いますが、芥川賞直木賞を受賞するためには、特定のメディアに作品を発表する必要があります。中原中也賞の場合は、「奥付け入りの印刷された詩集」を出版していることが最低限の条件になるようです(第一六回中原中也賞の概要より)。つまりこれらの場合では、特定のメディア形式を獲得することが、文学賞というコミュニケーションによって取りざたされるための必須の回路であるわけです。そしておそらくそれらの賞を狙う人間には、そういったメディア=コミュニケーション回路が感覚的に内面化されているのだと思います。大学人にとっての学会や紀要(そこにもメディア形式は必須です)の日程と同じようなものでしょうか。

今回、高橋氏がtwitterで取り上げた大江氏の場合は、高橋氏の推薦の辞から察するに、おそらく自費出版で出した詩集を公募で送ったのだと思います。大江氏の作品は最終選考まで残り、そこで惜しくも落選となったわけですが、そこまでは従来のメディア=コミュニケーション回路から何も逸脱してはいません。逸脱が生じるのは次の時点、すなわち高橋氏が落選になった大江氏の詩の一篇をtwitter上でつぶやいた時点からです。ここから、大江氏の作品は従来では存在しなかったメディア=コミュニケーション回路に乗ることになります。そしてその意味は・・・現時点ではまだ誰にもわからないでしょう。とにかく高橋氏のtwitterのTL上に流れた大江氏の詩は反響を呼び、「新潮」の編集者が興味をもって大江氏の作品が「新潮」に掲載されることとなり、そしてそこに付された高橋氏の推薦の辞が波紋を呼んだわけです。

最初に書いたように、そこでの高橋氏の≪発言の内容≫には門外漢としては何も言えることはないので、ここで扱うことができるのはその≪発言の文脈≫だけです。まずは、twitterというメディア的要素をひとまず脇に置いて、中原中也賞選考委員としての高橋氏が行ったことを、少し無理やりですが次のように一般化してみたいと思います。

「ある文学賞の選考委員つとめる作家が、落選した作品を文学誌の編集者に紹介し、それがその作家の推薦の辞をつけて掲載された。」

僕は文壇(詩壇)の世界に疎いのでこのようなケース、つまり、賞で落選した無名な作品が、選考委員の後押しを受けて文芸誌にその委員の推薦の辞とともに掲載される、というケースがこれまでもあったのかどうかを知りません。もしかしたらこれまでそのようなケースはなく、だとすれば、今回の高橋氏の対応は「掟破り」だったということになります。しかしまあそんなことは僕にはどうでもいいことです。これとは別に、その委員が表に出ることなく、個人的に編集委員に落選作品を紹介し、それが掲載されるというケースも考えられます。こちらはいかにもありそうですし、おそらく、このような行為が問題になることもないでしょう。そしてそのこと自体も僕にはどうでもいいことです。問題は、そのような一般的な事例と今回の事例を引き比べると何が見えてくるのか、という点です。

今回の件では、高橋氏は文芸誌の編集者に直接落選作品を紹介あるいは推薦したわけではありません。その作品はtwitter上でつぶやかれただけです(ここに権利上の問題が発生するかどうかは知りません)。この時点ですでに(これまでには存在しなかった)新しいメディア=コミュニケーションの回路に、大江氏の作品が乗ることになります。そこでその作品に接した編集者が、大江氏の作品の掲載に当たって高橋氏に推薦の辞を求めることは必然的でしょう。というのも、大江氏の作品はすでに、たんに無名の佳作というステータスではなく、高橋氏のつぶやきによってtwitter上で話題になった作品、というステータスを有しているからです。また雑誌の宣伝(コミュニケーション)という観点からすると、このステータスを前景化させることは賢明な判断であります。

結果としては、そこに付された推薦の辞の文言に対して批判があがったわけですが、そこでは同時に、「書かれるべき詩」をめぐる≪発言の内容≫だけでなく、高橋氏が中原中也賞の選考委員であるという≪発言の文脈≫も間違いなく問題になっています。その際に、大江氏の作品が最初はtwitterでつぶやかれた、ということがどういう意味をもっているのか、というのがここで僕の考えたいことです。

選考委員の作家が落選した作品を個人的にとりあげた、という≪発言の文脈≫という観点から今回の高橋氏の行動を振り返った場合、他にありえた高橋氏の振る舞いは次の3点かと思います。

1 そもそも大江氏の作品をtwitterでつぶやかない
2 編集者と大江氏を仲介しない
3 「新潮」に推薦の辞を載せない

1についてはもしかしたら法的に怪しいところもあるのかもしれませんが、僕の感覚でいえば、1と2についてとやかく言う人はいないような気がします。3については、中原中也賞の選考委員をやっているということを鑑み、辞退しておくという選択肢はあったかもしれません。しかしこういったことも、僕にはどうでもいいことです。

長くなったのでそろそろ結論めいたものを書こうと思います。今回の問題に接して僕が最初に覚えた印象は、高橋氏に対して批判が起こったのは、twitterでの高橋氏のつぶやきをメディアとして、大江氏の作品が従来とはまったく異なるメディア=コミュニケーションの回路を通って世に出てきたからなのではないか、というものでした。今回の件では「門外漢」というのが一つのキーワードになっていたのも示唆的でした。高橋氏の一連のつぶやきは「門外漢の言」と題されていましたし、その高橋氏に批判を向けた城戸氏も、 高橋氏が詩の実作者でないことを問題にしていました(つまり、「門外漢が何を言う」というニュアンスです)。そこでは詩の境界が問題とされているわけですが、その底では、(詩壇のなかで)詩を読み書くという営為を支えているメディア=コミュニケーションの境界が問題となっている、とは言えないでしょうか。twitterを通じた新たな回路が、賞を目指して詩を書く人間が心のなかにもっている暗黙のメディア=コミュニケーション回路の裏をかいた形になり、それが、ある種の「釈然としない感じ」を詩作者たちにもたらしたのではないか、と。

この印象はまったく的外れかもしれませんし、そうでも構いません。この記事は、いかなる人の批判も意図しておらず、もとよりそんな権利もありません。今回の件は、たんに、twitterというツールの出現とともに起こりつつあることを考察したいと思っているタイミングで遭遇した、というただそのためだけに取り上げたものです。その点で言えば、もっと穏当な事例を取り上げるのが賢明であっただろうし、実際そうしようと思って書いたものを消したりしたのですが、結局書いてしまいました。誰かが不快な気分にならなければいいのですが、と殊勝なことを書きながら、傲慢にも新たな「門外漢の言」を人目に晒すことをご容赦いただければ幸いです。