結婚と運命

何日か前にテレビ番組で、「結婚制度は廃止すべきだ」というかなり乱暴な提案に対して賛成反対を論じあう、というバラエティー番組をやってました。太田光が「総裁」をつとめるその番組では、野党の給料は0円にすべきだとかアメリカと一年間国交断絶すべきだとか乱暴な提案がいくつもなされていましたが、「結婚うんぬん」の提案は行列ができる法律相談所にでてる丸山弁護士によるものでした。そういえばまえに高田馬場の沖縄料理屋で、丸山弁護士と遭遇したなあ。

「愛の形なんていろいろあっていいじゃない」という丸山弁護士に対して、「ひとりの男女が一生を添え遂げることはすばらしいじゃないか」という反対派。ふたたび丸山弁護士、「それは素晴らしいことかもしれないが、結婚という制度とは関係がない。」うーむ、ごもっとも。愛だとか信頼だとかいう心情というか実存のあり方をもって結婚を正当化しようとする議論は、「それは結婚という制度とは関係がない」というひとことですべて蹴散らされます。むしろ、本当の愛がそこにあるなら、結婚なんて制度で縛ること自体がおかしいわけです。とすれば、結婚という制度が特権視されているがゆえに結婚せずに子供を作るという選択肢が困難とされている、という丸山弁護士の論拠の方がはるかに説得的です。

おもうに、結婚という制度の擁護は、心情的、実存的な理由では不可能で、ひとえに社会システムのリスク削減という観点からのみ可能な気がします。好いた惚れたでくっついたり離れたりしていたら子供の社会化の過程が不安的になって、ひいては社会全体の不安定要素になりかねない。だから結婚制度という縛りをかけて、その不安定要素を縮減する。あるいは、心情的、実存的な関心とは無関係に制度的に保護された家庭の獲得というのが第一の目的であり、それが動揺することのリスクの削減という観点からなら個人の視線から結婚制度の擁護も可能でしょう。いずれにせよ、それはリスク管理の問題です。

とすれば原理化してしまえば
1、心の問題に依拠=結婚制度廃止
2、リスク管理に依拠=結婚制度護持
ということになると思います。

と、こうすればすっきりするのですが、思えばそもそも人間という存在がすっきりしたものではないのでした。ということで三つ目の可能性を考えてみます。

それは、そもそも「愛」なるものが制度的裏付けを必要としていて、にもかかわらずその裏付けが存在しないかのように振る舞うことで初めて「愛」が可能になる、という可能性です。夫婦が愛し合っているのは、結婚という制度性によって結びつけられることによってのみ可能となっているのだけれど、当人たちはそういった制度性とは無関係の次元で愛し合っているのだと感じている。この「誤認」をとおしてのみ「愛」というものが可能になるのだ、という皮肉な見方も存在するわけです。

たとえば、「運命の出会い」というものがあります。二人は出会うことを運命づけられていた、と。でもこれ、よく考えてみればおかしい。二人が愛し合っているのは運命によるのだとすれば、この二人は相手の人格なりなんなりという個性を愛しているのではなく、運命によって結びつけられているというある種の無意味性を通して愛していることになります。とすれば、運命がそう導いたのであれば、相手は誰でも良かったのだということになりかねません。しかし「運命の出会い」に高ぶる二人はそんなことに気付かず、運命というものの無意味性、無頓着性を忘却しながら、まさに目の前にいる人間を愛しているのだと考える。

これは、実は結婚と同じ構図です。籍を入れること自体には相手の人格はまったく関係ありません。それ自体は個々の人間の固有性にはまったく頓着しないたんなる手続きでしかないわけです。結婚という手続きの無頓着さは、運命というものの無頓着さを世俗的に翻訳したものにほかなりません。そしてその無頓着さを忘却して運命や結婚がまさに目の前にいる人間を選んだことを必然であると誤認するところに愛が生まれる、という塩梅。

逆に言えば、そういった無意味な必然性がまったく感じられないようなところに愛は生じない、ということになります。『スピード』という映画がかつてヒットしました。バスジャックに遭遇したキアヌ・リーブスサンドラ・ブロックはともに奮闘するなかでたがいに引かれ合っていった。なぜか。お互いの人格が気に入ったとかいう次元の話ではありません。あるきわめて異常な事態に共に放り込まれた、というその無意味かつ切羽詰まった状況自体が二人を引きつけ合わせたのです。これ、運命と同じこと。そういう無意味性が強烈に感じられるほど愛は高まるのじゃとじっちゃんが言ってました。

しかし二人は近代人で、そのことを理解していなかった。映画の最後、サンドラ・ブロックキアヌ・リーブスにこう言う。「異常な状況で出会った二人はすぐに別れてしまうのよ。」対してキアヌ「じゃあ、ここでもう一度出会いなおそう。」つまり、運命による結びつけではなく、近代的な個人と個人との結びつきに変換しようとした。そう、だから『スピード2』ではさりげなく二人は別れていて、キアヌ・リーブスパトリック・スウェイジに取って代わったというわけです。これはなにも、キアヌ・リーブスが『死にたいほどの夜』に出たかったからではありません。あくまでも、運命を近代的個人に変換してしまったその浅はかさによるのです。