技術論の話し

はてなでは人文系のトピックについて、なんやかやと思ったことを書くというのをメインにしようかとふと思い立つ。ときおりバカな文章を挟みつつ。

学校のゼミで「テクノロジー」という言葉について話題になり、さらにアルフレッド・エスピナスという名前が出されたので、それならカール・ミッチャムの "Thinking through Technology"がとても参考になるという旨を発言しました。それで、家に帰ってからひさしぶりにその本をパラパラめくってみました。この本ではまず、理科系における技術論の系譜を振り返り、つぎに文科系における技術論の系譜を振り返り、さらにその相互関係を説明し、というところから始まります。この本はとにかく浩瀚という表現がまさにふさわしい内容で、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、ラテン語ギリシャ語における技術についての議論は基本的に網羅しているようです。本当に網羅しているかを判断する術は僕にはないのですが。

で、そういった技術論の流れが次のようにまとめられます。技術そのものの自律性を前提とする技術内部主義と、技術の動向は根本的に社会から規定されているとする技術外部主義。この両者が、基本的に近代、というか啓蒙の時代以降の技術論を特徴づける二つの潮流であるとすると、さらに現代ではその両者を折衷する文脈主義、つまり技術の内的論理とそれに作用する社会的論理が交渉することで特定の技術的性格が構築されていく、という発想ですね。このようなまとめがなされたあとで、しかしそこには一つの問いが欠けている、とぶち上げられる。それは、技術あるいはテクノロジーという観念の歴史についての問いです。そしてミッチャムはこの問いに取りかかるために、プラトンにおけるテクネーにまで遡るのです。

と本の内容の説明をしたいわけじゃないんです。テクノロジーという観念の歴史を発掘していく際にプラトンへと遡っていく前に、ミッチャムはテクノロジーという言葉についてなされてきたさまざまな定義を紹介していきます。ちょっと箇条書きにしてみます。

チャールズ・シンガー:ものごとが為され作られる際の方法と、そうやって為され作られた何か
クランズバーグとパーシュル:物理的環境に対応するための努力と利用可能なリソースをもちいて想像力と創意とを働かせてなされる環境のコントロール
モーリス・ドーマ:物質的素材を変形させることで人間の生存の条件を向上させる活動

これらの定義はどれもが広すぎたり狭すぎたりして収まりが悪い。だからどんどんあらたな定義が試みられるわけです。たとえば机や椅子といった物を作る技術と法律や社会制度を作る技術、さらには世渡りの技術、恋の技術などなどという風に技術という言葉はあらゆる場面で用いられたりするわけですが、じゃあいったいその内実はなんなのか、と言われると困るわけです。が、僕としてはこう考えます。

技術とは反復可能性を生み出すもの。ただし、その反復可能性は何らかの形で物質への迂回を経ざるを得ない。

このとき、反復という概念と物質という概念を常識的なものから大きく書き換えれば、技術の定義に関わる難問はクリアできる、と僕は思っています。反復の概念に関する書き換えはデリダがもうほぼ僕が必要とする範囲ではやっているので、それはOK。あとは物質の概念です。実はこれも、ベルナール・スティグレールがだいたいやってるんですよね。ただ技術について論じる過程のなかでいわば間接的に物質概念の書き換えがなされているだけで明瞭にはなされていないため、ちょっと面倒。個人的には、カトリーヌ・マラブーがいうところの「可塑性」の概念が「新しい物質」の説明には格好である気がします。

そうして技術の概念を書き換えた上で、ようやくプラトンアリストテレスの技術論批判ができる。テクネーをロゴスに還元することへの批判ですね。そしてその批判は、形而上学そのものがロゴス、正確には表音文字をある仕方で理解する言語運用作法としてのロゴスの出現とともに誕生した、という系譜学的な発想のもとになされなくてはならない、という感じがします。このとき、プラトンフッサールの『論理学研究』二巻での「カテゴリー直観」の議論がつながり、さらにハイデガーの「存在の歴史」も同じく「言語運用作法としてのロゴスの出現」の問題として捉え返される。

なんとなくさっさと書いてしまいましたが、このモデルに繰り返し立ち戻って注釈を加えていこうかと思っています。