「物自体」と反証

少し前に、「反証されていない」というステータスについて書きました(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070225#p1参照)。そこでは、「正しい/間違い」という組み合わせと「反証されていない/反証」という組み合わせが根本的に異なっている、ということについて考察したのでした。「正しい」ということは、もしそうしたことが本当に可能であるとするならば、原理的につねに妥当しつづけるものであるわけですが(対象認識に関しては)、「反証されていない」という状態はあくまでも一時的なものであるに過ぎず、その状態は反証がなされるまでの暫定的な妥当性を有するに過ぎません。とまあそんなことを書きました。

この、「正しい」と「反証されていない」との違いは、「手続き」というものとの関係からも捉えることができると思います。というよりも、「正しい」が手続きとは関係なくそれが「正しい」とされうるのに対し、「反証されていない」はあくまでも特定の(科学的)手続きのプロセスにおける一つのポジションでしかない、と言えるでしょう。このことは別の角度から言えば、特定の認識手続きの外部に出ることができると考えるか考えないか、という違いでもあります。認識というものが外界に直接到達できるのだとすれば、そこで認識されたものは必ず「正しい」と言えるでしょう。しかしそのような「正しさ」の主張に対しては、そこで認識されているのは特定の認識手続きの結果として生み出されたものでしかない、という反論が向けられることになります。となれば、そこでは際限のない相対主義というものがちらちらと姿をあらわしてくることになります。認識手続きの数だけ「真理」がある、というわけです。ポパーの「反証可能性」というのは、そういった相対主義の不可避性を前提とした上で、科学的と認定しうるある手続きを指定したものである、と理解することができそうです。そこでは、もはや「正しい」とポジティブに主張することはできませんが、しかし「いまだ反証されていない」というネガティブな形ではあれ、一定程度の広がりをもつ妥当性を主張する権利が見出されることになります。

ところで、この「正しい」から「反証されていない」への根本的な転換の中間に位置する存在として、カントの『純粋理性批判』を挙げることができます。アリストテレスの時代から「正しい=真理」の定義は、「認識と対象との一致」というものでした。しかしカントは『純粋理性批判』において、人間の認識能力は対象そのものには到達しえない、と断言し、その到達しえない地点を「物自体」と呼びました。とすればカントは、「もはや真理など存在しない」と主張しているのかといえば、そうではありません。カントは、「正しい=真理」に関する問いのあり方そのものを変えたのでした。いうまでもなく、それが有名な「コペルニクス的転回」というやつです。つまり、認識の正しさはそこで認識される対象=物自体にあるのではなく、それを認識する人間の認識枠組みの方にあるのだ、とカントは主張するのです。そしてそこでは誤りの原因は、認識しえないはずの物自体を認識したと錯覚するという「理性の越権行為」のうちに見出されることになります。

カントが人間のうちに見出したアプリオリな認識枠組みというもの、これを一種の認識手続きとして考えるならば、『純粋理性批判』の議論が「正しい」と「反証されていない」との間の過渡的な地点にいる、ということが見えてきます。対象そのものの把握、という意味での「正しさ」を棄却し、可能であるのは特定の認識手続きを通して生み出される「現象」でしかない、としている点でカントは「認識手続き論者」であるということができます。しかしながらその一方で、カントはその認識手続きをアプリオリな認識枠組みへと還元してしまいます。ここにおいて、カントは「反証されていない」というステータスを発見する遥かに手前の地点で留まっている、と言わざるを得ません。

「反証されていない」というステータスの優れているところは、カントのいうところの「物自体」の存在をも含み入れている点です。カントがあえて「物自体」の存在を主張したのは、自身の議論を観念論から区別するためでした。つまりカントは「物自体」という概念によって、世界はそれを認識する人間の外側に実在している、という前提をはっきりと押し出したのでした。「反証されていない」というステータスは、あくまでも特定の認識手続き上における一つの地位でしかないわけですが、しかし同時にその手続きの外部にある世界の実在をも前提としています。というのも、反証というのは実在すると想定される世界からの抵抗に他ならないからです。カントが人間の認識能力と「物自体」との接点を、『物自体」による感性の触発に見出したのに対し、「反証可能性」についての議論は、その接点を世界からの抵抗に見出しているわけです。この後者の発想は、前者の発想と矛盾するわけではなく、むしろそれを包括するものであり、とすれば、「反証可能性」という観点からカントを読み直す、という道はいかにもありそうです。

さて、またもや前置きが長くなって焦ってきたわけですが、前回の「反証されていない」についての記事の後半でパースのプラグマティシズムの発想がまさに「反証されてない」というステータスに近い議論を展開していると述べました。で、前回は触れませんでしたが、パースはカントの「物自体」という概念についても論じていて、際限のない仮説形成(アブダクション)のプロセスを通して理論がそこへと漸近的に接近していく領野として「物自体」を捉え返したのでした。牧野英二の『カントを読む ポストモダニズム以降の批判哲学』では、このパースのカント論を科学者の集団内での合意形成の問題として捉え、それを取り込んでいったアーペルの議論をそのままなぞっていっていましたが、この解釈は大いに問題があるでしょう。パースの議論の射程はもっと壮大なものであり、たとえばカントにおけるアプリオリな認識枠組みについての議論を進化論の観点から批判し、進化論的認識論の道を開いたコンラート・ローレンツの議論ともそのまま接続しうるものだと思います。と、この辺も余談。

今日、マーク・ハンセンの"Embodying Technesis"という本を読んでいたら、そこで紹介されていたカトリーナ・ヘイルズの議論がまさにパースのカント論をなぞっているようでびっくりしたのでした。ハンセンによると、ヘイルズは「True/False」という組み合わせに「Not-False/Not-True」を対比させているようです。これはまさしく前回の記事で書いた「正しい/間違い」と「反証されていない/反証(抵抗)」との対比に完全に平行するものです。しかもヘイルズは、この対比をほかならぬカントの「物自体」の概念の解釈に際して作り出し、Not-Trueを「物自体」の領野に当たるものとして捉えているようです。もう完璧です。このヘイルズの議論を知ってとても嬉しく思ったのでそのことだけを書こうと思ったのですが、前置きが長くなってしまいました。

ちなみに、カントの『純粋理性批判』においても、実はよく読めば「物自体」を抵抗として解釈できるように捉えている箇所があると僕は思っています。また、「反証されていない/反証(抵抗)」という認識モデルは、技術の問いを考える際にも大きなヒントになるものですが、しかしここからさらに革新的な一歩を踏み出す必要があるように思います。そのための鍵となると僕が思っているのが「痕跡」の概念です。ヒントとして、カトリーヌ・マラブーが『ヘーゲルの未来』で提示している「可塑性」という概念の定義を示しておきます。

「可塑的」とは変形作用に抵抗しながら形に譲歩することを意味する。

カントを読む―ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波セミナーブックス)

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Embodying Technesis: Technology Beyond Writing (Studies in Literature and Science)

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ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法

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