タランティーノと「記憶の文体」

「こんな映画観たことない!」と映画を観ながら思ったのは多分初めてだと思うのですが、クエンティン・タランティーノ監督の『デスプルーフ・イン・グラインドハウス』を観ながら僕は本当にそう思ったのでした。

むろん周知のようにタランティーノは変態的な映画好きで、そこかしこにマニアックな引用を仕込んでいるはずであり、観る人が観れば「このシーンはあれだ!」という発見のオンパレードであるだろうことは想像に難くありません。タランティーノのデビュー作である『レザボア・ドッグス』を観たアメリカの映画評論家が、この映画のプロットが香港映画からのパクリであることを知らず「こんな斬新な話は観たことがない!」と絶賛して恥をかいたというのは有名な話です。

しかし思うに、「こんな映画観たことない!」という感想は、単に僕の無知に由来するというのではなく、それとは別の理由があるのです。

手に汗握って池袋でのレイトショーに馳せ参じたのは21時10分の上映開始の五分後。座席指定制だからといわれて他の観客の迷惑にならないようにと一番端の席を頼んだのですが、入ってみるとガラガラで(帰り際に数えたら自分入れて8人・・・)、指定座席関係なく最近視力の落ちた自分のベストポジションに座ったのでした。

そして、オープニング。ダッシュボードに乗せられた交差した女性の足が音楽に合わせてリズムを取っている。それからどこかのアパートに到着した車から降りたパンパンのホットパンツをはいた女は、「ションベンがしたいの!」と股間を手で押さえてトイレへ向かっていく・・・

このオープニングから完全に引き込まれ、とにかくこの映画に僕は芯から満足したのですが、映画を観ながらタランティーノという映画監督の特殊性(天才性?)と思われるものについて考えているうちに、それを理解するためにはどうしても「記憶の文体」というものを考える必要があるのではないかと思われたのでした。

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一人の人間というのはいろいろな記憶によって編み上げられています。イギリス経験主義の先駆者ジョン・ロックは、人間の意識の統一性とはその人間のもつ記憶の統一性であると述べました。実際、同じ時間と空間を共有しているのだとしても、そこで何に注意を向け記憶するのかということにはその人の個性が現われます。そしてそうした記憶の積み重ねが、一人の個人の記憶の総体を作り上げていくわけです。

そのような、ある場面においてほかならぬ何事かに目をむけそれを記憶に留めておくというときの、その心の動きの「癖」のようなものを、僕は「記憶の文体」と呼びたいと思います。流れゆく意識のいくばくかを言葉という形で紙の上に残していく際の流儀が「文体」と呼ばれるならば、それが紙の上にではなく脳のニューロンに書き込まれていく際の流儀についても、それに「文体」という名を冠するのは決しておかしなことではないように思えます。

とすると、ことあるごとに蘇ってくるさまざまな記憶というのは、それぞれの人が独自の「記憶の文体」を用いて書き上げていっている内密で進行中の自伝であるということになります。

ところで、言葉というものはつねにいくらかは借り物です。たとえば僕がここで書いている文章のどこでもいいから短い部分をコピぺしてグーグルで検索すれば、その同じ文字列がこれまで繰り返しいろんな文章のなかに埋め込まれているということがわかります。むろん重要であるのは、一つの文章を構成している素材そのものは徹底的に借り物であるにもかかわらず、それがある一定の長さになればある独自性というものを獲得して、グーグルに検索しても引っかからなくなるということです。文章におけるこの反復と独自性の関係は、デカルトがとうの昔に言及している普遍的な問題です。

この反復と独自性の関係は、文章だけではなく映画についても当てはまります。もちろんいうまでもなく、言語のようにシンボルの次元で分節化された記号ではなく、それぞれの「いまここ」にあるモノをフィルムに焼き付けたものを素材とする映画というメディアにあっては、個々の映像は言葉と同じやり方では反復することはありません。

しかしそれでも、映画においてもやはり反復はありふれています。一本の映画はほとんどにおいてどこかで観たような設定、人物、背景、場面、カメラの動きから成り立っていますし、また特定の映画を明確に参照した「引用」も数多く存在します。かつてアラン・レネは既存の映画からの引用のみで構成される映画を構想しましたし(権利の問題で製作できませんでしたが)、ゴダールの『映画史』というのはまさに映画の引用から成り立っている作品であるといえるでしょう(僕は観てないんですが)。

僕はよく知りませんが、おそらく映画監督の中にはそういった映画的引用を多く用いる人たちがいて、そしておそらくそういった人たちの多くは、映画史というもののなかに明確に自分の作品を位置付けて映画史を引き受けていこうとする「正統な」作家なのだろうと思います。そこにおいて映画における反復と差異の歴史がつむがれていくのでしょう。

さて、ではタランティーノはどうなのかということなのですが、僕の印象では、タランティーノは完全に独自のポジションを占めています。それは、タランティーノによって引用される映画がB級あるいはC級の、しばしばアジアのマイナー映画であるからではありません。僕の理解ではその理由は、タランティーノの映画を構成している記憶というもののあり方に関係しています。

長くなってきたので結論を言ってしまうと、「正統な」映画を構成している映画的記憶というものが、「映画史」という一種の百科事典のなかに登録されている記憶であるとするならば、タランティーノの映画を構成している記憶というのは、他ならぬタランティーノによって観られた、「タランティーノの記憶」である、ということです。

かつて高校生のとき、なぜか外人さんに最近観た映画の感想を英語で話すという機会があり、僕はそのとき観てきたばかりのタランティーノの『ジャッキー・ブラウン』について、「あれはタランティーノのノスタルジーをそのまま形にした映画なんだ」ということを熱弁した記憶があります。そのことを意味を当時は深く考えなかったのですが、その後時間が経って『キル・ビル』を見たとき、「タランティーノの記憶」ということの意味を明確に意識し始めました。

キル・ビル』は、誰が見てもわかるようにめちゃくちゃな映画です。しかしそのめちゃくちゃな中には、明確な軸が通っています。それは「タランティーノ」という軸です。そこで問題となっているのは「タランティーノ的なもの」というなにかエッセンスのようなものではなくて、クエンティン・タランティーノというひとりの変態的映画狂が、それぞれある特定の時刻に特定の映画館で、溢れ出る情動をもって映画を片っ端から観て回ったという、ほとんど剥き出しの事実そのものが問題なのです。

キル・ビル』を観ながら僕は、例によってそこで繰り出されている引用のほとんどを理解できてはいないのですが、それでもそれぞれのシーンに付着している、タランティーノという固有名つきの欲望の存在をそこかしこに感じとれた気がしたのでした。

このように述べるのが適当なのかはよくわかりませんが、タランティーノの映画を観ていると、彼の脳内で展開されている妄想的回想を直接に観ているような気分になります。だから僕は今回『デスプルーフ』を見て、映画作品としての「文体」の手前にある、記憶そのものの文体、「記憶の文体」というものをどうしても考えてしまったのでした。

ところで、タランティーノの映画を構成している映画的記憶のあり方を、僕は「物質的」という形容詞をつけて呼びたいと思います。「物質的」というのはつまり、かならずどこか特定の場所にあるもの、ということです。映画的記憶について「物質的」という形容詞が適用される場合には、そこで指示されているのは映画史のなかに登録されている抽象的な記憶ではなく、特定の時刻に特定の場所である誰かが見た映画の記憶のことです。今回の場合でいえば、他ならぬタランティーノがあるときある場所で見たところの画面の記憶が「物質的」だということです。

今回のタランティーノの『デスプルーフ』は、ロバード・ロドリゲス監督によるもう一本の『プラネットテラー』とセットになった『グラインドハウス』という二本構成の映画作品のうちの半分であり、だからほんとうは『グラインドハウス』のなかの「デスプルーフ」の部なのですが、この『デスプルーフ』だけで二時間ちかくあるのとさらに諸事情があり、日本ではそれぞれがべつの作品として上映されるという次第になっているらしいです。

この「グラインドハウス」という言葉は、聞くところによると昔の三流映画館のことを意味しているようです。このことからわかるように、この映画においてタランティーノが動員している記憶というのは、それぞれの特定の映画作品そのものの記憶だけではなく、「グラインドハウス」という三流映画館という場所で映画を観たというまさに物質的な記憶でもあるのです。

実際、映画の中でもしばしばノイズが入ったり場面が不自然に飛んだりするのですが、それは当時の「グラインドハウス」で日常茶飯事だった状況を無理やりに再現しているものらしいです。

僕がタランティーノを映画史における「正統な」文脈からは決定的に区別されるべきだと考えているのは、そこで動員されているのが固有名つきの物質的な記憶、つまり一つ次元のずれた記憶であると考えているからです。そして長くなりましたが、このことが、「こんな映画観たことない!」という冒頭に挙げた感想とどこかつながっているのではないか、となんとなく思っているのでした。

ちなみに、ほんとうはジル・ドゥルーズという人の映画論を参照することで、上に述べたようなタランティーノの映画のあり方というのが、従来の映画論(ドゥルーズがその極限)が捉えようとしているのとは一つ次元のずれた映画のあり方を提示しているのではないか、ということを書こうと思っていたのですが、そろそろ疲れてきたのでやめにします。

なお最後に、『グラインドハウス』についてより詳しいことを知りたい方には、町山智浩氏(僕の高校の先輩でもある)のポッドキャスティングでの詳細な解説をお勧めします。
http://www.eigahiho.com/podcast.html
第27回で『グラインドハウス』について熱く語っています。

この解説を聞いていなかったら、もしかしたら僕はこの映画を映画館では観ていなかったかもしれません。僕の足を映画館に運ばせてくれたことについて、町山氏にはここで深く感謝したいと思います。

ありがとうございました。

追記
映画の最後には、フランスギャルの曲が流れるのですが(これについてはhttp://d.hatena.ne.jp/mrbq/20070903参照)、これが最高。
http://jp.youtube.com/watch?v=QV9RgjqwnvI