インターテクストと記憶

このところ、いまさらながら「インターテクスト」についてつらつら考えています。この「インターテクスト」にまつわるこまかい議論はあんまり知らないのですが、とりあえず、作品というものはそれ自身で完結しているものではなく、それを構成しているテクストは、つねにすでに作品外のテクストによって干渉され横断されている、という発想を示している概念である、というくらいに僕は理解しています。ちなみにウィキペディアでは「間テクスト性」という表記が使われていますが、なんとなくしっくりくるのでここでは「インターテクスト」という言い方をします。

唐突ですが、インターテクストについてのウィキペディアの説明のなかには、「記憶」という言葉がひとつも出てきません。だからなんだと言われるかもしれませんが、僕がこのところ考えていることの一番核にあるのは、インターテクスト性と記憶という問題は切り離しえない、というごくごく素朴な認識です。ひとつのテクストがつねに他のテクストと結びついているのだとしても、それを実際に結び付けるのはすべてのテクストを知っているはずの「神」のような存在ではなく、具体的なそれぞれの個人です。そして具体的な個人の記憶は限られていますから、テクスト相互の結びつきは、必ずこの限られた記憶を通して生み出されるはずです。インターテクストは、つねに人間にとって不可避の有限性を経由することでしか成立しえないわけです。

有限性という契機は、稀少性という契機と不可分に結びついています。一つのテクストは、原理的にはあらゆるテクストと結びつきうるものだと思うのですが、神ではない人間は、原理上可能な結びつきのうち、つねにある特定の結びつきだけしか実現することができません。実現されたテクスト相互の結びつきは、必ずなんらかの形で稀少なものです。そこに、その結びつき自体の持つ固有性というか特異性が生じます。

あるテクストを読むときには、読者は必ず暗黙のうちにそのテクスト外のさまざまなテクストを参照しています。それは、同じ本のなかの少し前の部分かもしれませんし、同じ作家のほかの作品かもしれませんし、その日の朝に読んだ新聞記事かもしれません。さらに正確には、参照されるのはたんにテクストに限られるわけではなく、その読者自身のより内密な記憶もまた、読むという行為のなかにたえず染み込んで来ているはずです。石川県の金沢市出身の僕は、泉鏡花の小説を、自分の幼少期の記憶から切り離して読むことはできません。

以前、タランティーノの『デスプルーフ』の感想のなかで、「記憶の文体」というものについて書きました*1。文体というものもまた、有限性と稀少性に結びつくものです。チョムスキー風に言えば、言語は有限の規則から無限の文を生成することができるわけですが、しかしそこで実際に実現される文はつねに限られたものであり、そこに言語運用に際しての個々人の個性というものが生じることになります。文体=スタイルと呼ばれているものは、有限の文章を実現する際の個々人の「癖」のようなものだと思います。原理的にはあらゆる文が生み出されうるなかで、人はつねに特定の文だけを実現します。そしてその実現の作法というもののうちに、なぜかその人固有のものであると人に思わせるような、なにか個性のようなものがいつのまにか刻み込まれていきます。ここではそれを固有言語性idiomaticitéと呼びます。

『デスプルーフ』についての感想のなかで僕は、一般的な意味での文体と同じようなやり方で、「記憶の文体」というものもあるのじゃないかということを書いたのでした。たとえば映画的記憶というものを例に挙げれば、人は全ての映画を観ることも、また実際に観た映画の全ての要素を記憶することもできません。一人の人間が有する映画についての記憶は、有限の時間のなかで鑑賞された有限の映画のなかの、そこからさらに大幅に選別された有限の記憶でしかありません。いうまでもなく、選別があるところには必ず基準があります。そして人間の記憶における選別基準というものは、図書館などのアーカイブ構築に際する選別基準のように明確化されうるものではなく、ほとんど個人的な「癖」として呼べないようなものです。この「癖」を、「記憶の文体」と呼んでもいいのじゃないかと僕は考えたのでした。

人間の記憶というものは、倉庫の奥底にしまいこまれた遺品のように忘れ去られたままずっとどこかに据え置かれているようなものではありません。記憶とはつねに「思い出されるもの」であり、思い出すという行為から切り離された記憶というものは存在しません。それゆえ、なにかを記憶する際の「癖」というものは、何かを思い出す際の「癖」と同じものです。なにかが記憶されているという事実は、それが思い出されたときになってはじめて事後的に確認されうるものであるわけです。

一本の映画を観るとき、そこではさまざまな記憶が動員されていることはいうまでもありません。『デスプルーフ』のようにその作品自体のうちに映画的記憶がいたるところに埋め込まれている作品を観るとき、その事態は一気に前景化してきます。またさらに、そこには観客の「記憶の文体」だけではなく、タランティーノという監督の「記憶の文体」が介入していることにも気づくことができます。タランティーノ自身の記憶=想起を通して作り上げられた『デスプルーフ』という作品を、観客は現在進行形の記憶=想起を通して鑑賞するわけです。

『デスプルーフ』という作品は、まさにインターテクスチュアルな作品であるといえると思いますが、そのインターテクスチュアリティーの内実をちょっと考えてみると、そこにはつねに具体的な個人による記憶=想起というプロセスが絶え間なく作動していることが分かると思います。にもかかわらず、ウィキペディアでの記述が体現しているように、一般的にインターテクストの議論のなかに記憶の問題はまったく取り上げられていないような印象があります。この点を、僕はつらつら考えていたのでした。

さて、このようにインターテクストというものをある種の「記憶の文体」として考えることは、かなり正当であると僕には思えます。ただし、僕がつらつら考えていたことのうちで、ここまでの部分は実はその半分でしかありません。この「記憶の文体」の話は、改めて考えてみれば当たり前の話で、ちょっと新しい角度から事態を整理しなおしたものでしかありません。ここには何も難しい点はありません。ここで確認された事態というのは、実際にはそこからさらに考えを進めるための足がかりであって、この先が難しいわけです。

その先についても自分なりにはだいたい見通しは立っているつもりですが、文章にする前にもう少し温めたほうがいいかなあという気がしています。さしあたりちょっとした覚え書きだけをしておきます。

「記憶の文体」ということを突き詰めて考えると、記憶の共有、記憶のインター性というものをどう位置づけていいかわからなくなります。「記憶の文体」かならずそれぞれ特異なものであるはずなので、そこでは体験の「共有」という契機を考えることが、一見すると難しいように思えます。ここでの問題を要約すれば、つまり「特異性」と「共有」との関係をどう考えればいいのか、ということです。映画を観るという体験が、「記憶の文体」という点で特異であるという主張と、なんらかの形で「共有」されているものであるという主張とは、どちらも正当であると感じます。この問題を考える必要があります。

僕にとっては、これは技術の問題に関わるものです。映画という、映像をスクリーンに映し出す技術や、また映画館という空間について考えることが、「特異性」と「共有」とのパラドックスについて考えるための入り口になると僕は考えています。『デスプルーフ』でいえば、それが『グラインドハウス』という昔の映画館のスタイルを指す名前をもった映画の一部として構成されている、というのがとても興味深い点です。

その点については、またそのうち書こうとは思っています。