夢のなかの疾走問題について

昨日、ジャグリングをやっている夢を見たのですが、その夢のなかではどうにもうまく腕が回らず、とても歯がゆい思いをしたのでした。

そして今日、お風呂に入っているときにふと、その理由が分かった気がしたのでした。

夢のなかで誰かに追っかけられていて一生懸命逃げているのだけれど、しかし足がうまく回らなくてひたすらに焦る、という経験はたぶん誰にでもあるんじゃないかと思います。ふつう、こうした夢については、そこにはなんだか得体の知れない強迫観念が表現されているのだ、という風に心理学的に理解されているような気がします。自分もこれまでそうでした。

しかし僕は風呂のなかで、この夢は心理学的にではなくむしろ認知科学的に理解するべきなのではないか、と思い至ったのでした。

体の動きというものはなんらかの仕方で意識を通して統御されているのだと思いますが、しかし神経の筋一本一本まで意識が統御している、ということはどう考えてもありえません。認知科学のことはあまり知らないので専門的な言い方はわかりませんが、体の動きの大部分は自動化したものであって、たとえば歩行のように意識しなくても体が勝手に行なっていったりするものだと思います。

たしか島田雅彦がどこかで、自分の足の動きを意識してたら歩けなくなった男の話に触れていたような記憶がありますが、実際からだの動きというものはこういうものだと思います。走っているときに、自分がどういう足の動きをしているのかを意識しようとすることは、走ることそのものを困難にします。そしていうまでもなく、このことはジャグリングの場合にもよくあてはまります。

ジャグリングのある技を練習するとき、はじめはどういう腕の動きをしなければならないのかを意識しながら練習します。しかし、とうぜんその段階ではうまくいくはずがありません。僕の経験則では、最初は意識しながら腕の動きやボールの動きを確かめて、次にはできるだけなにも考えないように同じ動作を繰り返していきます。そしてある時点で、特に明確に腕の動きを意識しているわけではないけれど、しかし感覚的に腕の動きがわかってくる、という感覚が訪れます。この感覚をしっかりと確立していくと、とくに腕の動きを意識しなくても、なんとなく「これをやろう」と思うだけでそれができるようになります。

実際に頭のなかでどのような働きが生じているのかは分かりませんが、僕のイメージでは、意識は腕の動きを隅から隅まで統御しているわけではないけれど、でも腕の動きを示す情報のうち、目印になる部分だけをうけとって、その目印の部分をつなげていくことで腕全体の動きを間接的に統御しているんではないか、とおもっています。

たとえば馬車における馬と御者との関係を僕は連想します。走るのはもちろん馬です。馬の走りを統御するのは御者です。しかし御者は、馬の足の筋肉の動きについては何も知りません。御者は、ただ手綱を通して間接的に馬とつながっているだけです。しかしおそらく、ある程度の経験をつんだ御者は、その手綱を通して馬の動きを十分に把握することができ、それゆえ馬車の進行を統御することができるのでしょう。

御者がもつ手綱を通して伝わってくるのは、馬の体の動き全体のうちのごくごく部分的な目印だけです。しかし御者はその断片的な目印を頼りに、十分に問題なく馬車を進行させていくことができます。僕が思うには、意識が体の動きを制御する仕方というのも、これと同じようなものなのではないでしょうか。身体そのものはかなりの部分が自動的に動きを進めていき、意識はそこからいくつかの目印をとりだしてそれを間接的に制御していく。

さて、いつもどおり前置きが長くなってしまいましたが、このように考えれば夢のなかでの疾走問題およびジャグリング問題について、なにごとかを理解できるような気がします。上に述べた仮説によれば、走ったりジャグリングをしたりするという行為は、なかば自動的に動いていく身体の動きから意識がいくつかの目印を受け取ってそれを間接的に統御していく、というそのカップリングされたプロセスであるということになります。しかし夢のなかでは身体はほぼ完全に眠り込んでいて、遊離した意識があれこれとお戯れをしているわけです。その夢のなかで走るときには意識は、身体の具体的な動きからは切り離された目印だけを頼りにして、走るという感覚を再構成しようとします。そしてそこではおおまかにはその動きを再現できるのだけれど、それでもそこには何かがかけてしまう。つまり、なんというか身体の具体的な振動とでもいうべき何かがかけてしまうのです。

というわけで結論です。

夢のなかでうまく走れないのは、心理学的な強迫観念によるのではなく、そこには認知科学的な理由がある。つまりその事態は、通常時は身体の自動的な動きからいくつかの目印を通して身体の動きを統御している意識が、夢のなかではその目印の記憶だけを頼りにして身体の動きを再構成しようとする時の困難さに由来する。

以上の仮説を提起したいと思います。認知科学などに詳しい人の意見をいただけるとうれしいです。