哲学者の早すぎる死

こちらのブログ↓で知りました。
http://d.hatena.ne.jp/arenedelanuit/20070201/p1
哲学者のフィリップ・ラクー=ラバルトが亡くなったとのことです。ぜんぜん知らなかったのですが、調べてみると『ル・モンド』の記事がありました。
http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0,36-861429,0.html
亡くなったのは先月の27日から28日にかけての夜中。『ル・モンド』の記事には死因は書いてありませんが、別の記事によると呼吸不全だそうです。
http://www.liberation.fr/culture/231703.FR.php
享年六十六歳、陳腐ですが「早すぎる死」ということになるでしょう。僕はラクー=ラバルトの著作では、ハイデガーとナチズムとの関係を、事実関係としてではなくハイデガー自身の思想に内在している問題として考察していった『政治という虚構』しか読んでおらず、もともと「思想的親密さ」の感触というものをラクー=ラバルトに対してもっていたわけではないのですが、それにしても、なぜかショックを覚えました。その理由を考えてみるとおそらく、ラクー=ラバルトというとデリダの下の世代というイメージがあったせいだという気がします。つまり、「早すぎる死」というものをそこに感じ取ったのでしょう。

本など読んでいるとときどき、死んでしまったらこの知識はどこに行くんだろう?なんてファンシーなことを考えてしまうわけですが、「哲学者の早すぎる死」は、そのファンシーな夢想に具体的な駆動力をもたらします。とはいってもそもそも、あらゆる死はおそらく「早すぎる」ものなのでしょう。そういえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について書いた大学の卒業論文では、あらゆる死はいくらかは幼き者の死である、というようなことを書いた気がします。幼き者の死、何かをなし得たかもしれない者の死。そのなし得たかもしれない何ごとかに対する残された者の想像力が、「やるせなさ」というものを生み出すのでしょう。「あの子はまだ人生を知ることなく死んでいってしまった」。誰もが、人生を決定的には知ることなく死んでいく。そして哲学者もまた。

冥福をお祈りします。