ウィキペディア消滅?

ウィキペディアが資金面で運営に困難を抱えているようです。
http://zen.seesaa.net/article/33407146.html
で、元記事はこちら(英文)
http://www.mathewingram.com/work/2007/02/10/is-wikipedia-really-in-danger/
三、四ヶ月で閉鎖か?というショッキングな文句が置かれていますが、コメント欄にリンクされているブログを見ると、現時点では三、四ヶ月分の資金しかないが、色々立ち回ればなんとかなるだろうという風にウィキペディアを運営しているFlorence Devouardさんは考えているようなので、閉鎖が濃厚、というわけではないようです。
http://wikipedia.g.hatena.ne.jp/Britty/20070211#p1(参照)

ウィキペディアがなくなると困る、というのは多くの人が共有する感想だと思いますが、ただ、冷めた見方はいくらでもできます。たとえば広告を載せず寄付だけを財源とするというモデルがそもそも無理があったのだ、という意見は当然考えられます。そのような無理のあるモデルは、すくなくとも現代の経済環境においては遅かれ早かれ淘汰されざるをえない。これは価値の問題ではなく事実の問題なのだ、という認識は至極もっともなものです。

しかしだからといってウィキペディアが即座に閉鎖される、ということにはなりません。環境に適応する、という選択肢があるわけです。実際、ウィキペディアが現実に消滅する、なんてことはちょっと考えられません。たとえば広告を載せるなり、どこかの企業に買収されるなり、といった形で資金源を確保し存続していく、という可能性が考えられます。ただ、その場合には記事内容と資金調達源との利害関係、という微妙な問題が現われてくることになります。

ウィキペディアの記事内容がつねに中立であった、ということはけっして言えないと思いますが、しかしさまざまな記事内容を生み出すシステムの次元では、ウィキペディアは中立的である、ということはある程度言える気がします。しかし、資金源を広告なり親会社なりに依存するようになると、そのシステムの次元での中立性の担保が困難になる、すくなくとも中立性を信じることが困難になるように思います。そしてウィキペディアは、そのような中立性を担保するために寄付に依拠する、というモデルを採用してきたのだと思います。

だから、現在ウィキペディアに訪れている危機というのは、ウィキペディアそのものの存続に関わるものというよりはむしろ、ウィキペディアの現在の形態に関わるものである、ということなのでしょう。という認識を踏まえた上で、じゃあどうなんだという話です。

おそらく一番分かりやすい話は、「ウィキペディアが危ない、みんなで寄付しよう!」という発想です。たとえば次のブログなんかがまさにそうです。
http://oiradesu.blog7.fc2.com/blog-entry-1763.html
ただ、事実としてこれまでは寄付が集まってこなかったわけで、そもそもこの寄付モデル自体に無理があるのではないのか、という意見はつねにつきまといます。寄付モデルが成立するためには、オンライン上での寄付文化がある程度成熟している必要があるわけですが、そのような文化は一朝一夕では作り上げられえないものです。そのような状況を無視して、たんに煽られて瞬間的に寄付をする、という行動にシニカルな目線が向けられる、ということはいかにもありそうですし、その目線は実際に正当なものだと思います。束の間の寄付は結局のところ対処療法でしかなく、そのおおもとの原因をなんとかしなければ、繰り返し同じ問題が出現してくることになります。

もっともシビアな道行きはというと、すでに述べたように広告なり買収なりといった経済原理のなかに組み込まれる、という方向でしょう。シニカルな人は、それはそれでしょうがないっしょ、という発想をするのだと思います。

またべつの可能性として、たとえばビル・ゲイツなりスティーブ・ジョブズなりなんなりの金持ちがポンとお金を出して「よしなにやっとくれ」と言い出す、というナイト出現の物語も考えることができます。ただ、こればっかりは枚数制限のないトランプのなかのジョーカーのようなもので、「そんなことがあればなあ」と夢想することができる程度のものでしょう。

あとは、運営側がなにか良いアイデアをひねり出してくれるのを待つ、というくらいのものでしょうか。それがうまくひねり出されればウィキペディアはいまのままでやっていくだろうし、できなければ荒波に揉まれざるをえないのだろう、と遠目で見ていることができるだけです。

で、とりあえず四つの可能性を挙げてみたわけですが、容易に見てとられるように、これらのうちで最初のもの以外はすべて自分は傍観者に留まることになります。しかしほとんどの場合、きわめて大きな程度でひとびとは一定以上のスケールをもつ社会的出来事に対してほとんど傍観者でしかいられないという現実からして、これはきわめて蓋然的な事態ではありますし、「俺たちの手で社会を変えよう!」なんてスローガンは、往々にして青春を彩るファミリーサイズの打ち上げ花火程度にしかならないものです。

さて、ではかくいう自分はどうするのか。どうするのか、というか実をいうとすでに、とりあえず500円をウィキペディアに寄付しました。この寄付行為は、自分なりに冷静に考えるとどうにも一般化しようのないものであり、たとえば「みんなも寄付しよう」と檄を飛ばすことはできません。問題を一般化するならば、ウィキペディアもまた経済的淘汰を避けることはできないし、その環境のなかで永続的な解決策が探られなければならないだろう、という結論しか導きようがありません。そのなかで「寄付」にかかわる可能性は、寄付文化を着実に作り上げていこう、という遠大なものでしかありえないでしょう。そしてその遠大な計画は、さしあたりは「みんなも寄付しよう」という呼びかけとは無関係です。

今日は渋谷のシネマヴェーラマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズを観てきたのですが、そこで「渡世の仁義」という言葉が繰り返し出てきました。それとはちょっとちがうかもしれませんが、ウィキペディアの運営が危ないということを知って、とっさに僕は、自分はウィキペディアに対してなにかしら個人的な「恩義」がある、と感じました。それで、ささやかながら500円を寄付することにしました。こうした「恩義」の感覚は、当然ながら一般化不可能なものです。だから僕は、ただ、「恩義」を感じて寄付をした、というそのことだけをここに書き記すことにします。

さらにお節介ながら、ウィキペディアに寄付するためのリンクまで貼ってしまいます。
http://wikimediafoundation.org/wiki/寄付