結いガロン

優雅論というものがあります存在しているのは突き詰めるとこのわれだけであってそのほかのものはすえてその反映に過ぎない他人は存在しないという考えで筋意識に頭の肥大した中学生や高校生なんかはよくこのような考え方に肩入れしたりするものだと思いますというか僕もそういう考えを持っていたことがありましたいわく理解された他人の気持ちというのは遥は自己観察の反映に過ぎない芯の会話は存在しないすべては持って回った独り言に過ぎないそんな社会的自閉の感覚も今となっては遠い昔のことだけれども時々その感覚が回帰してくることがあるというかその感覚自体はすでに過ぎ去ったものであるにもかかわらずふと死した瞬間にあの優雅論はある意味では正しいのだと思えてしまう瞬間があるたとえば個人的な事情で落ち込んでいたり閉塞感を感じたりした瞬間に不意に同じような状況を訴えていた誰かのことが思い出されその人の気持ちがすごくわかるような気がしてつまり深く同情し始めるということがあるこの遅ればせの同情やその感情に対する想像力というのは何なのかと考えると遥は現在自分が経験している状況を媒介としていわば他人に投影されたものでしかないように思えます実際考えてみるとそこで理解されたものが本当にその誰かが感じていたものであるかなんてわからないのだしもしそうだったのだとしても自分の同じようなものだと思える状況に立ち至って始めてその誰かに対する想像力が働き始めるというのはどういうことなのかということを振り返ると結局理解しうる他人の感情というのは自分の感情の反映でしかないつまりそこには自分の感情が存在するだけで他人は存在しないのだなにか通じ合うというのは幻想に過ぎないのだというようなことが感じられてしまうもちろん人によるんだけどどうして他人の気持ちは送れば瀬に利器解することができるのかって考えるとどうしても悲観的になってきてしまいますでそんなことを思うとたとえばいまになって誰かの気持ちがわかってきてそれでなんか優しい気持ちになってメールを送ってみたりするなんて行為模様は自分の傷をなめるだけの醜悪な行為に思えてしまうまあそうだとしてもそれでお互いが何や安らぐことができるんなら別にいいのだろうけどデモなんか矢田