広告戦争

山手線で、最近何かと話題のNOVAの広告を見ていて、なるほどと思いました。広告のレイアウトが、雑誌の中吊りに似せて作ってあるのです。人はたぶん無意識のうちに、それを見る対象のレイアウトを通してそこに載っている情報との態度を決めるという部分があると思いますが、NOVAの広告はその人間の習性を活用しているわけです。だから、「いまなら間に合う英会話」とか書いてあると、無意識のうちに宣伝としてではなく客観的な情報として読んでしまう。そのことに気付いてなるほどと感心したのでした。

それでNOVAの広告から目をおろすと、カゴメの野菜生活という飲料の広告があったのですが、その広告はハンバーガーをドアップで写して、「これはハンバーガーの広告ではありません」と大書している。そこではまず、ハンバーガーというものが不健康、不摂生の象徴として用いられているのだと気付きますが、それ以上に印象的だったのは、そこでのハンバーガーの写真の薄気味の悪さです。デビット・リンチの『ブルーベルベット』に見られるように、ありきたりなものでも過剰に近づいてみると途端に気持ち悪くなる。人間の顔なんてのはまさにそうです。それと同じく、その広告ではハンバーガーの写真は「適正な距離」を踏み越えたアップになっており、それゆえハンバーガーが薄気味悪く現われる。さらに、そのハンバーガーはしばらく放置されたものらしく、パンの間からはみ出ているケチャップやマスタードがうっすらと固まっていて、固まった油のような気持ち悪さを醸し出している。その広告におけるハンバーガーは不摂生の「象徴」という機能を遥かに越えでて、生理的次元に働きかけるものに仕上がっていたわけです。NOVAと同じです。

そういえばこのごろは選挙運動が繰り広げられていますが、もしあるだれかのネガティブキャンペーンをしたいのであれば、その人が一日の演説を終え疲れきって油の溜まった顔をアップで撮ってばらまけば、その候補者についての生理的嫌悪を植えつけてまわることができそうです。話がそれました。

先ほどの話のハイライトは、カゴメの広告のすぐ上に、小さくマックの広告が存在した、ということにあります。「100円マック」と書かれたその小さな広告は、カゴメの広告のグロテスクなハンバーガーの写真のせいで、完全に台無しにされていました。

渋谷の例の交叉点に立っている時など、四方のビルからなんやかやの宣伝映像が流れてくる状況を前にして、そうでなければ人がぼーっとしていたであろう意識の時間を一秒でも多くつかまえようとする広告の「まがまがしさ」というものを感じます。それは人の意識の時間という限られた領土を奪いにくる戦争のようなものであると思うのですが、そうした戦争の情勢をたまには観察してみるのも面白いなあと思ったのでした。