いつわりの
よになかりせば
いかばかり
ひとのことのは
うれしからまし

これは松永英明氏が「絵文録ことのは」を立ち上げた際にかかげたものらしいです。氏をめぐる状況がどのようになっていくのか、また氏の「実態」がどうであるのかについてはわかりませんし、僕にはなんとも言えません。最初、野田氏がきっこ=松永英明説を論じている(http://espio.air-nifty.com/espio/2006/02/mvproject_honda.html)のを読んだときに咄嗟に思ったのは、「なんだ、推理小説か?」ということでした。松永氏が「きっこの正体」について書いていたのは知っていたので、推理小説でもこんなどんでん返しはないだろうと思ったのでした。しかも、きっこ=松永氏であるのみならず、松永氏はかつて河上イチローという名でオウムの宣伝省のような活動をしていたとも言う。で、読み進めていくと中井英夫の『虚無への供物』の名前が出てきたので、さらに奇妙な感じを受けました。推理小説推理小説に言及している、と。この小説でもなにが真実だか訳が分からなくなるわけですが、しかし野田氏の論はそれ以上に「異様」に思えたのでした。。

そして先日、松永氏がカミングアウトするに至り、また方々で延焼してもいるようです。つい最近も松本被告の次男が私立春日部共栄中学校の入学を拒否されたということが報道されていましたが、オウム事件のようなきわめて特殊な事例において、その「あと始末」をどのようにつけていくことができるのか、というのはきわめて難しい問題なのでしょう。しかしそういった文脈についてここで書くつもりはありません。

一連の経過を眺めながら僕がもっとも印象を受けたのは、「記憶」というものについてでした。河上イチロー氏がウェブ上から姿を消すその最後のとき、次のような言葉を残したそうです。

私はWeb に「いなかった」ことになろう。それができるか否かが、サイバースペースの将来を決定する。そして、完全に私の痕跡が消え、新たな情報次元が開かれたとき、そのとき初めて私はサイバースペースに戻ってくることにする。

しかしその痕跡は消えておらず、野田氏の追跡がきっかけとなって、それまでは完全に消えていたと思われていた痕跡が一気に反乱を起こした。消えていたはずのサイトもキャッシュも残っており、若かりし頃の写真までがフラッシュバックする。ウェブ上では松永=河上氏に関する情報をめぐってトラフィックが行き交い、リンクが貼られURLがコピペされ、あっという間に道ができ往来ができる。そして姦しくなる。

この事態を見て僕は、「記憶は決して忘れ去られることはない」というフロイトの言葉を思い出したのでした。初期のフロイトは記憶というものをニューロンネットワークに刻み込まれる「通道Bahnung」というイメージで理解しようとしていました。それは道を開いていくイメージです。獣道のように何もなかったところに通行の跡ができ、そこを反復して行き交うことができるようになる。とはいっても通り道のひとつの痕跡があるひとつの記憶を保持するというのではなく、「通道」はつねに差異のネットワークを通して記憶を構成します。「記憶はニューロン間における通道の差異によって表象化される。」ある記憶は通道の差異のネットワークの中で浮かび上がったり背後に退いたりするわけですが、しかしその通道の痕跡自体は決して消えることなくつねにどこかに保持されつづけていて、なんからのきっかけがあればふたたび浮かび上がってくることになります。

記憶のこのイメージ、インターネットにもすごく当てはまるような気がするんです。たとえばR30氏がhttp://shinta.tea-nifty.com/nikki/2006/03/religion_28b9.html#moreのエントリーで、松永氏がかつてやっていたサイトにリンクを貼っています。
http://web.archive.org/web/20011214071549/deva.aleph.to/essay/
このページはこれまでもずっとネット上に存在したわけですが、松永英明というキャラクターと結びつけられることはなかったのだと思いますし、もし「ことのは」のサイトとこのサイトをたまたま両方目にすることがあっても、松永氏とこのデーヴァ氏をつなげて考える人はいなかったでしょう。僕は松永英明というキャラクターについてはあまり知りませんが、しかし政党のウェブ懇談会に出席したりネットの趨勢について鋭く論評する氏のアクティブなキャラクターに比して、このデーヴァ氏のなにか静謐な親密さというか、囁くような内密さというか、そのキャラクターは一見して噛み合いません。しかし松永=河上説の浮上とともに、この二つのキャラクターの間にトラフィックが生じ、それがたとえばR30氏のリンクのような形で通り道が次々と作られていく。以前はまったく接点の見出されなかった二つの地点にいまではさまざまに通り道がつけられ激しくトラフィックが行き交っています。

フロイトに引き寄せて考えるならば、表面に現れてくる特定の人格は、その人格を裏付ける特定の記憶の通道のネットワークの産物だということになるでしょう。その人格は、みずからに即したネットワークをはみ出る記憶の
通道を抑圧することで自身を保ちます。そこに検閲の機能が働くわけです。検閲に引っかかってしまう記憶痕跡は、たとえば夢の中で「夢作業」をとおして検閲をかいくぐることで自分の表現を獲得します。松永英明という名は本名ではなく、「ことのは」というウェブサイトを中心としたひとつのネットワークが生み出した暫定的な人格です。野田氏が詳細な分析を通して松永氏の文章に河上イチローの痕跡を読みとっていくその手つきは、まるで「夢作業」をさかのぼってもとの「夢思想」を明るみに出していっていくかのような感がありました。

松永英明というキャラクターについては、ちょっとおおげさに、ネットワークの連鎖作用が生み出した効果=帰結(effect)が松永英明なのだ、と言ってみたいところです。今回のような場合、あるF氏という統一的な人格が「ことのは」をやっている、という順番でものを考えるのは危ないでしょう。
泉あいさんや
http://www.surusuru.com/news/archives/Entry/2006/03/12_1530.php
小飼弾さん
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50414314.html
などの文章を見るとそういう気がします(「オウム」に対する弾さんの基本的なスタンスには賛同するのですが)。
極端に言ってしまえば、松永英明氏は特定のネットワーク通路が効果としてかりそめに生み出している統一体であるにすぎません。現実としてそのように「松永英明」は誕生していて、それがF氏という統一体とどのような関係にあるのかはまだわかりません。にもかかわらず、「松永英明」を真率なその人自身として受け取り「信頼」を向けるのはどうなんでしょう。その点では、BigBang氏の態度は正当だと思います。http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/03/post_4825.html
が、そういう文脈に棹さすことは本題じゃありません。

とにかく、今回の件で松永英明というキャラクターが排除してきた記憶痕跡が一気にフラッシュバックしたのでした。そして僕が興味を覚えたのは、ネットという環境における記憶痕跡のあり方です。すごいというか恐ろしいというか。そういえば、メディア論ではインターネットを人間の脳神経の外在化として比喩的に語る人ってけっこういますよね。ノルベルト・ボルツとか。というか、そもそもヴァネバー・ブッシュとかテッド・ネルソンとかがそうなのか。アラン・ケイダイナブック計画だって、発想としては同類だろうし。