そろそろ『ホテル・ルワンダ』がらみ以外のことも書いてみます。
ゆるーく。

このところ、身体論というものに興味があるのですが、一般的にはどう捉えられているんでしょうか。僕自身はといえば、技術とは何かを考えていく過程で身体論というものに行きついたのでした。技術と身体という組み合わせはわかりやすいもので、技術とは身体の拡張であるという発想はアリストテレスの時代から存在し、マクルーハンによってセンセーショナルなテーゼとなったわけですが、とにかく技術と身体を結びつけるということには長い長い伝統があるわけです。ただ、おなじ「身体の拡張」とは言ってもアリストテレスマクルーハンとでは実はまったく別のことを言っている。

アリストテレスの場合、人間の器官がモデルとなり、それが「投影」され拡張されたものが技術だということになります。つまり核には人間というものがしっかりと存在しています。一方でマクルーハンの場合はどうかというと、「身体の拡張」とはいいながらそこには拡張されるべき核となるような人間がはっきりとは存在しない。というのもマクルーハンのテーゼというのは、メディアの環境によって人間そのものが変化してしまうというものだからです。つまり核となっているのが人間ではなく技術の方なんですね。だから、「身体の拡張」という同じテーゼをめぐりながら、この両者ではまったく転倒した関係になっている。

もちろんこれはたまたま二人がそういった関係にあるというわけではなくて、歴史的変遷の過程のなかでそのような変化が起こったわけです。たとえば18世紀の半ばにはラ・メトリーが『人間機械論』を書いているわけですが、
ここでは「人間とは機械である」と端的に述べられている。つまりこの時点ではすでに中心となるモデルが人間から技術の方に移行していることがわかります。ただラ・メトリーの段階ではマクルーハンにおけるような変化の層というものは考えられていません。というのもそこでの「機械」は普遍的なモデルとして考えられているのであって、マクルーハンが意識しているような歴史的に変化する技術とは異なるからです。ただマクルーハンの場合も「感覚比率」というようなある種の普遍的モデルに依拠している部分はあるのですが。

かなり単純化してしまいましたが、アリストテレスからマクルーハンに至るまでの身体と技術との関係の捉えられ方の根本的な変化は、「身体とはなにか」という問いの意味をも根本的に変化させることになります。アリストテレスの場合には人間の身体そのものは技術から無垢であって、いわばその機能だけが技術を通して外界へと拡張されうるのですが、マクルーハンの段階に来てしまうと、技術がそもそも身体の核心にまで浸透しうるものとなってしまう。ここにはきわめて重大な問題が存在していると思うのです。が、そのような技術の身体への根源的な「浸透可能性」を正面から引き受けた身体論はそれほどなされているようには思えません。僕の知っている限りではさしあたりDon Ihdeの”Bodies in Technology"がそこに切り込んでいるとは思います。あとダナ・ハラウェイとかだろうか。ただ、大陸系の哲学の伝統を根本から読み変えるというパースペクティブにまでは広がっていないんじゃないだろうか。個人的にはBernard Stieglerの”La tecnologie et le temps"の三巻(全六巻まで出るみたいですが、早く出して欲しいもんです)が、そこを考えるための理論的支柱になりうると思っているのですが・・・。ただ翻訳がまだないので、そこから出発した身体論が広がるにはまだずいぶん時間がかかるのかもしれません。

ただ、メルロ=ポンティがいます。おそらくメルロ=ポンティのいわゆる「肉の現象学」はおおむね「生きられた身体」の直接性に照準を合わせたものとして捉えらており、とすると技術という次元が介入してこなそうですが、そんなことはない。『知覚の現象学』にははっきりと技術の次元へと議論を広げていく余地があります。キーワードは習慣。やっぱり、ここから出発するべきなんだろうか。個人的にはメルロ=ポンティにおいて「習慣」が意味するものと後期ヴィトゲンシュタインの議論をつなげれば色々見えてくる気がします。

哲学的な基礎づけとしては、やっぱりカントを捉え直す必要があるでしょう。雑駁な道筋としては、『純粋理性批判』における「統覚」を『判断力批判」における反省的判断を通して捉え直し、それからベンヤミンヴィリリオの議論に出てくるゆるい「統覚」へとつなげていく。と、その際には時間論は避けて通れないなあ。フッサールの時間論と、ハイデガーのそれ。で、ハイデガーの技術論がそこに入ってくるんだな。

おもいつくまま書き出してみてわかったけど、やっぱり大変そうだ・・・。そのうちまとめられたらいいな。ああ、ドイツ語ちゃんとやらないと。