『早稲田文学』と資本主義

今日、池袋ジュンク堂の雑誌コーナーで、復刊された『早稲田文学』を発見しました。しばらく以前からフリーペーパーになっていたのが、ついに雑誌として復刊したというのをたしか新聞広告かなにかでちょっと前に目にして気になっていたのですが、すっかり忘れていたのでした。

表紙はいま旬の川上未映子で、なかをチラッと覗いてみると、文芸誌なのにグラビアがついている!篠山紀信撮影で、解体前の早稲田文学部の校舎を舞台に、川上未映子がアンニョイにカメラをみつめている。さらにぱらぱらめくっていくと、なぜか後半部から文字が裏返しになっている。一瞬混乱したのですが、要は、一方では雑誌の通常の始まりのページから、他方では通常では最後のページになるところから、いわば向かい合うようにして二方向にページが進んでいて、真ん中あたりで交錯するという実験的な雑誌のつくりになっていたのでした。

その裏側から始まる最初の文章は、蓮実重彦へのインタビュー記事で、なんとなく読み進めていったらとても面白い。「人類はテクストを読むのがあまり好きではな」く、さらには「人類はフィルムを観ることもあまり好きではない」という恬淡かつ超然とした口調がなんとも独特。とにかく、やっぱりこの人は偉人なのだなあと素直に思いました。

いくらかするのか見てみると、400ページほどもあるのに933円と超お買い得。『早稲田文学』は個人的にもちょっと縁のある雑誌であり、ちょっと懐かしさもあったので買おうかとまずは思ったのですが、さらにぱらぱらめくっていると、なんだか堅苦しいというか、「今それですか?」というような思想家や思想ジャーゴンをならべた文章が目に入ってきて、猛烈に気分が萎えてしまいました。八割方、やっぱりやめようと思いながらも惰性でもう少しページをめくっていると、萩田洋文という名前が目に入りました。

この萩田洋文という方は、「ロマン戦」という小説で2004年(たぶん)の早稲田文学新人賞をとった人で、実は僕はかつて、この小説について長ったらしい感想みたいなものを書いたことがあったのでした。そんなものを書くことになったのは、『フリーターにとって「自由」とは何か』の著者であり、最近も「フリーターズ・フリー」の活動を行なっている杉田俊介さんが出していた『エフェメーレ』というCD-R雑誌のための原稿を依頼されたからでした。四年前くらいでしょうか。

今回の『早稲田文学』に掲載されていたのは「センチメンタル温泉」と題された小説だったのですが、その書き出しの一文は、「金がもの言う世界。」というものでした。それを見て僕は、無性に懐かしくなったのでした。というのも、僕が感想を書いた「ロマン戦」という小説でも、同じく「金」というものに焦点が当たっていて、僕はそのことに焦点を当てながら、この小説を「貨幣小説」ならぬ「資本小説」として分析していったからでした。結局これが決め手になって、僕は『早稲田文学』を購入しました。

帰ってから「萩田洋文」で検索してみると、ブログが見つかりました(http://blog.goo.ne.jp/8guitar)。そのブログから、『早稲田文学』のウェブサイトで「似せ金図鑑」という小説を連載していることも知りました(http://www.bungaku.net/wasebun/read/nisegane.html)。今回の『早稲田文学』の小説とあわせて、あとでじっくり読んでみようと思います。

それからせっかくだと思って、「ロマン戦」について書いた文章を探してみましたら、見つかりました。見ると全部で原稿用紙換算80枚を超えるもので、「こんなの読めるかっ!」と激怒したのですが、しかしとりあえず最初の方だけ読んでみました。で、卒倒しました。「ロマン戦」について分析すると最初に表明しながら、その後原稿用紙換算で20枚分ほど、ほとんど「ロマン戦」について触れずに自分の妄想を延々と開陳している。いまじゃこんなことは絶対にできません。若気の至り、といってもせいぜい四年ほど前だというのが恐ろしいです。

しかしその妄想は、いまの自分にはない奇妙な勢いに溢れていて、その点だけは、なんだかまぶしく感じられて仕方ありませんでした。そこでその「勢い」にあやかりたいと思ったので、恥を忍んで、そこの部分だけをここに載せることにしました。死にたいとか思っている人は、これを読んで自分へのハードルを下げて生きていってください。

ただその前に、eyes on tibet運動。
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/542995/

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資本という大地

クロソウスキーは贈与そのものであるような貨幣を構想したが、現実において貨幣は交換を可能とする媒介物のように考えられている。それはさまざまな価値の基準として社会に流通するとともにあらゆる商品を社会に流通させる。社会に流通するあらゆる商品は、貨幣に寄り添うことによってのみみずからを流通させることができる。このことは、基本的には労働商品としての個々人についても述べることができる。わたしたちが社会において誰かであることができるのは、基本的にはこの貨幣という価値基準に寄り添うとともに社会的流通過程に参入することによってであるととりあえずはいうことができる。もちろんさまざまなサークルや同好会や日曜大工の技術やアウトドアのノウハウや人に元気を与える笑顔やギターが弾けるとか浪曲が歌えるとかそんなこんなのこともまた各個人にアイデンティティーというものを与えはするが、しかしそのようなアイデンティティーは貨幣の流通過程という大地の上においてのみ可能なものである。ギターや盆栽を買ったり山に出かけて行ったりするだけでなく、ただ生きていくということにもまた金はかかるのであり、一見経済とは無関係に思えるあの人の笑顔にも、しっかりと維持費はかかっている。金は天下の回りものというが、いうまでもなく手をこまねいているだけでは金は自分のところには回ってこず、企業であったり国家であったりと、自分を金の流れに接続するなんらかの登録手続きが要求されるのであり、この登録の手続きが、資本主義社会においてまず第一に自己のアイデンティティーを形づくる。かつては軍事力をまったくもたない国家というものを想像することができなかったが、現在では経済力をまったくもたない国家というものが想像できない。地球上における貨幣の流れにみずからを接続させ、経済的アイデンティティーを確立すること、これが現在地球上において国家が存在する最低条件であるらしいのだ。それぞれの国家が地球上における貨幣の流れに接続し、そのようにしてみずからを貨幣の流れに登録している国家に個々人はみずからを接続し、そうしてわたしたちの財布には貨幣が循環していくわけだ。
このとき貨幣は二重化されている。「<サラリーマンのポケットに入る貨幣>と<企業の帳尻の中に登記される貨幣>とは、同じ貨幣ではない」(ドゥルーズガタリ『アンチオイディプス』)のだ。この後者の貨幣とは誰のポケットにも入らない、現実には目に見えない透明な経済的大地であり、たとえば株式市場における数字の目くるめく乱舞である。現代に生きるわたしたちの現実はいうまでも株式市場とけっして切り離しえないのであるが、もちろんそこでうごめく貨幣の流れはわたしたちの生活そのものではない。大地の底に流れているであろうマグマの狂った躍動とわたしたちは結び付けられていながら、わたしたちの生活にかかわるのはマグマが冷え固まった後の、作物の実りや小川のせせらぎや丘陵のなだらかな稜線でしかない。同じようにわたしたちにかかわる貨幣とは、株式市場の狂気の奔流ではなく、ダイコンを買ったり帽子を買ったり自販機でジュースを買ったりする際の、あの確固として交換可能な貨幣である。この二つの貨幣のあいだの断絶は決定的であり、この断絶を通してのみ、現代という時空は存続していくことができる。とはいってもこの断絶は、貨幣というものにつねにまとわりつく貨幣の本質というものではなく、確実に歴史的なものである。とするとこの断絶の歴史的な淵源を指し示すことができなければならないわけだが、その正確な指摘を行うのは自分には無理であるから、とりあえずここではあいまいに資本主義が出現した瞬間を<その時>とするにとどめておく。貨幣というものがどのような歴史を経てきたのかはよく知らないが、その歴史が遠大なものであろうことは疑いない。しかしその歴史の大半には、現代における貨幣に見られるような断絶は存在していなかった。貨幣はその大半の時間において、純粋に交換の媒体としてのみ存在していたのだろう。そこに刻み込まれた断絶とともに可能となったのが資本主義である。あの断絶とともに生まれた貨幣のもうひとつのあり方、<企業の帳尻の中に登記される貨幣>とは資本である。あの選考委員たちは貨幣におけるこの側面をまったく理解しないがゆえに、「ロマン戦」について「貨幣小説」という理解しか生まれえなかった。しかし「ロマン戦」において貨幣のもとで攻防されている地点は、まさに人々がこの資本的なるものと出会う地点であるのだ。
貨幣が交換の媒体と資本へと二重化されているという事実をわたしたちが日常のなかで意識することはほとんどないわけであるが、これは当然のことで、そんなことを意識する必要はわたしたちにはまったくないのだ。つまり資本の自己増殖運動が完全に狂っているのだとして、そしてまたその狂気を進展させていくのがわたしたち一人一人の消費活動であるのだとしても、そのわたしたち自身が狂っている必要はないし、消費の瞬間もわたしたちの狂気を通しての飛躍のようなものである必要などさらさらないのだ。わたしたちはただ欲しいものを買うだけである。ただそれだけで資本主義は機能していくし、それだけでわたしたちの大地の下の発狂したマグマは雄叫ぶのである。「経済的な認識を持つ持たないにかかわりなく、最も恵まれない人間の≪欲望≫が精一杯に資本主義社会野の全体を備給する」(『アンチオイディプス』)のだ。これがクロソウスキーの<生きた貨幣>との決定的な相違である。人間の身体を貨幣としてもちいることの夢想へと行き着く<生きた貨幣>は、貨幣自体に十全の狂気を要求するとともに、一回一回の貨幣の使用にもまた決定的な狂気を要求する。ここで要求されているものとは、たとえば必ず一方による相手の殺害へと行き着くようなコミュニケーションにおいて想像される、つねに決定的な出来事を惹起せざるをえない狂気の彷徨だ。貨幣と性交し、その性交から貨幣が再生産されていく。空想される動物的経済活動。この夢想が拒否しようとしているのは、言うまでもなく交換的な貨幣の使用だ。貨幣の交換が要求するものは、冷静さや未来への配慮や計画的生活や理路整然とした言葉や非暴力的なしぐさや、つまり狂気とは無縁なありとあらゆるものである。そしてまたここで要求されているのは近代人としての自己を証明してくれるありとあらゆるふるまいである。このホモ・エコノミクスを打ち破るものとしての空想が<生きた貨幣>であった。この空想の根源にある前提はというと、わたしたちはまだ真の狂気というものを一人一人の人間存在のその重さのなかに見出すことができるに違いないという確信だ。世の中には狂気へと身を開くことができる人間とそうでない人間がいるのであり、人間を通してのみ狂気というものは可能なのだ。さあ狂え狂うのだすべてを踏み越えていくのだ。
しかしこんな前提や、また狂気の人間のイメージに込められた大いなる期待というものは、現代人にはアホくさいとしか思えないのだ。何しろ現代において、狂気のイメージもまた経済活動と切り離しては存在しえない。家にあるニーチェ全集は、それを買うために働いた時間と、たとえば十時間なり二十時間分のマクドナルドでのスマイルと切り離すことはできない。自分はマクドナルドやそれに類する非ニーチェ的なアルバイトなどしていないといっても、それは家が金持ちであったりとかその他の偶然的な事情によるものでしかなく、原理的にはニーチェマクドナルドでのスマイルウン時間と切り離しえないのだ。このスマイルの非ニーチェ的感触にどうしても我慢できない人間は、紀伊国屋を強盗するかしてニーチェの本を手に入れなくてはならない。金を稼ぐためのスマイルが非ニーチェ的であるのと同様に、ニーチェの本を買うために財布から金を出してまたおつりを受け取るという所作もまた非ニーチェ的である。つまりここにははじめから経済的和解が達成されているのだ。誰もがこの和解から出発しているくせに、あらゆる和解を突き抜けたとされるような狂気にロマンチックな期待をかけるというのは、どこからどう見ても間が抜けている。それは千八百円払って、あるいは映画の日に千円払って観るハンニバル・レクターの狂気でしかない。現代における狂気というものは、ほとんど完全に消費の対象として囲い込まれている。クロソウスキーの『生きた貨幣』を称揚する人間だって、その本を自分の恋人を貨幣として使って買いはしないのだ。
ホモ・エコノミクスたるわたしたちは、経済上の理由からつねに狂気から遠ざかることを要求される。もちろん経済活動から離れているときにはそのような制約からは一応は解放されるわけだが、もちろんそれは翌日の仕事に支障のない限りでの自由であり、全般的な経済活動に破綻が起きない程度の放蕩である。わたしたちは財布の中身と相談しながら狂おうとする。ここにもまたはじめから経済的な和解が、予定調和が磐石に存在している。ほんとうに狂っているのは資本の運動だけであり、わたしたちは交換の媒体たる貨幣に釘付けにされている。資本の狂気はわたしたちの精神にはまったく触れ合うことのないまま、わたしたちがダイコンを買う瞬間などに狂気にふるえているのだが、わたしたちの手元に残るのはやはりダイコンだけであり、それを煮込んで食べたりするあいだも、わたしたちは狂気から疎外されている。もちろん狂気から疎外されているとしても人はなにひとつ困りそうもないし、それはそれである意味構わないのだが、たとえば文学なり芸術なりというものを考えてみるとすると、そうも行かない。芸術はなんらかの形で狂気というものを源泉としている、というのが芸術と狂気との関係についての大まかな了解事項であるのだ。わたしたちの生活がただダイコンを買ってそれを煮込んで食べるだけであるなら、どう考えても芸術は困難だ。交換がどれだけ連続していったところで、狂気との接点を証しする芸術など生まれえようがない。
現代において、意識とその外部との攻防の地点は、かつてと比べてまったく新しいところに存在している。ほんとうに狂っている人間などテレビにもどこにも出てこないし、ほんとうに狂っているという設定とともに現れてくる形象は、経済的和解の枠組みのなかでのみ消費される。さらにまた地理的な外部というものを、なにか本質的なものとしてロマンチックに想像することも現代においてはほとんど意味がない。かつては新しいものはつねに地理的な外部から到来していたのだろうが、現代において新しいものが出現するのはいうまでもなく中心からである。世の中を変化させる原動力は、大都市の真っ只中でうごめいている。新しい商品はつねに大都市でお披露目されるし、大企業も大都市に集まる。とすれば人々もそこに集まるし、そこにこそ新しいものがあるのだから、それも当然である。そしてすべてが集まるその場所とは、つまりあの二重化された貨幣が集まる場所にほかならない。現代において本質的な攻防は、周縁においてではなく中心において起こる。これは技術的な問題である。「当時、二つの超大国の間には戦争を予告するのにまだ十五分間の猶予があった。ロシアのミサイルをカストロの島に設置することは、アメリカにとってこの猶予を三十秒に縮める危険性をもっており、それゆえ大統領ケネディにとっては、断固拒否してどんな危険に陥ろうとも、受け入れ難いことだった。われわれは話の続きを知っている。ホットラインの開設、両国家元首の連結!」(ポール・ヴィリリオ『速度と政治』)技術的な進展そのものは、最終的にはコンピューターによる自動的な核管理を要請する。「速さの恒常的上昇はいつの日か核戦争の予告猶予を、運命的時間以下に引き下げかねない。つまりこの上昇が続けば、防衛システムの純粋かつ単純な自動化が優先され、国家元首の反省し決定する権限がゼロにされてしまうのである。そのとき、開戦の決定は、もっぱらいくつかの戦略コンピュータ・プログラムが下すだろう。」(『速度と政治』)速度の上昇がもたらす技術的な狂気に対して「人間的な」要素を持ち込むという点に、ここでは攻防の地点が存在する。ほんとうに危険なのは人間ではなく技術であるのだ。地球自体を破壊するボタンを押すことを決定できるような人間は存在しないが、プログラムの自動性はそれをまったく躊躇せずに行いうる。この軽々しさこそが完全に狂っているといえるのだ。もちろん技術というものはさまざまな有用性を発明する。しかしそれと同時に、技術はみずからの無条件的発展をも要請するのであり、この発展の無邪気さにはあの狂気が含まれるのだから、技術もまた貨幣と同様に二重化されている。この技術と貨幣とのあいだに強力な血縁関係が存在することはいうまでもないだろう。技術の開発には資本が投入されるわけであるし、新しい技術は資本の運動に新しい血液を注ぎ込む。
資本=技術という非人間的な大地の上に登録されてしまっているわたしたち人間は、不可避にあるジレンマの中に巻き込まれざるをえない。というのも、純粋な交換自体もまた非人間的であるからだ。とすると資本主義社会において人間的な生活はどこにあるのか。そんなことはわからないが、「ロマン戦」という小説がこのようなジレンマから出発しているということは疑いえないように思える。貨幣がわたしたちを二重の仕方で囲み込むこの社会空間のなかでなにものかが模索される。これは和解の模索ではないし、狂気へと突破していこうとする歯軋りなんかでもない。何しろ貨幣の二重の運動そのものにははじめから人間がほとんど存在していないのだから、人間的な和解も狂気もそもそも流産している。流通を促す貨幣の交換的な側面において、そこには非人間的な和解が存在しているといえるだろうし、際限なく剰余価値を生み出していくその運動において、すでにそれは狂っている。この二重の運動に取り巻かれて右往左往しながら、それでもわたしたちはダイコンを買ったりする瞬間などに、そこに人間の生活はあるのだと考える。それは確かにその通りだろう。ダイコン食って性交して子供が生まれて結婚してといったなんやかんやの悲喜劇は、それ自身としては人間の生活だろう。しかしわたしたちが登録されている大地そのものは、まったく非人間的である。もちろんこれは大昔においても別のやり方でそうだっただろう。自然のなかで生きる大昔の人々。たとえば山奥の一角を切り開いて家をつくり、狩猟し耕作し繁殖し生命を連続させていくその営為が人間的であった一方で、自然それ自身の運動はというと人間的なものに関心などなかったにちがいない。火山の噴火や大地震や際限のない大雨は、まるっきりの無関心で人間の生活を易々として押し流しただろう。ここに祈りが生まれる。山の神に海の神、豊穣の女神や怒りの神、ありとあらゆる神の名の下に、人間的生活と非人間的自然のはざまに祈りが捧げられていく。この接点に浸透するおののきに、人間の生活の攻防があった。自然という混沌に人間的秩序をもたらすこと、この攻防の運動に、人間の生活は宿り、さまざまな「百年の孤独」が生み出されていった。
現代において、すでに見たように攻防の地点はまったく別の場所にひかれている。人々は大地という生命の流れにみずからを接続する代わりに、資本という貨幣の流れにみずからを接続させている。わたしたちの生活は豊作と凶作のダイナミズムの上にではなく、好況と不況のダイナミズムの上に登録されているのだ。豊作の年に大量に廃棄される農作物。ただ大地が変わっただけだ、このように言うことはできるだろう。しかし祈りはどこにあるのか。もちろん資本主義は人々に祈りを用意している。さまざまな記号に彩られた消費活動だ。資本主義的消費活動につきものの新しさに対する欲望。この欲望を通じて、人々はわずかに狂気と触れることができる。それは資本という狂気だ。その狂気の乱舞にわずかに触れて満足する。もちろんそれはちゃんと痕跡を残す。つまり一方では商品という痕跡を残し、他方では企業の決算に利益という痕跡を残す。かつて狂気との接点はつねに人間の血をもたらし、そこから記念碑が誕生した。その血によって浸透された記念碑に中心化されることで、社会は統一性を保った。歴史と伝統が生まれる。なにかが語り継がれていく。しかし資本主義において真に存続していくものは、血に浸透されたいかなる記念碑でもなければ歴史と伝統によって語り継がれてきた物語でもない。記念碑も物語も、現代ではほとんど消費の対象でしかないのだ。資本主義において真に存続していくもの、それは資本でしかない。もちろんその点においては大昔も事情は変わらなかっただろう。人間的なものは時間とともに朽ちていかざるをえないのであり、真に存続していくもの、それは自然である、と言うことができたかもしれない。ただしこの両者の間には、看過しえない決定的な相違が存在する。それは速度だ。宇宙の寿命からすれば地球の生命など瞬きほどのものでしかないだろうし、またその地球の寿命からしても人類の歴史など同様に瞬きでしかないだろう。しかしそのような瞬きの瞬間に、それぞれせいぜい百年弱の寿命しかもたない人間の生命が、いいようのない重さでもって営まれていく。この重さのうちで感得されているのは、言うまでもなく瞬きの一瞬などではなく、それはほとんど永遠である。川の流れのように自然がすべてを押し流していくのだとしても、その流れのよどみが人間にとって数百年、数千年という時間を意味するのならば、そのよどみはなにか決定的なものである。そのよどみには確固とした巣が作られ、伝統や文化や歴史が刻み込まれ、曽祖父からひ孫に至るまでの血脈の物語が生まれ、そうしたなかでそのよどみには間違いのないものが根付くのだ。そうして自然の流れの呵責のなさに、このよどみのもつ悠長さにおいて、わたしたちはある慈愛というものを看て取ることもできる。静謐なる星の瞬きとそれを見上げるわたしたちの行き過ぎる身体とのあいだをみたす透明なエーテルにひびく遠さの感触に、人間は自分が存在することを許されているということを知る。
しかし資本主義社会においては狂気の速度が完全に異なっている。つねに新しさを生み出すことによって成長していく資本主義社会において、変化それ自身が変化の原動力となっている。変化の速度が鈍るとき、経済は停滞し失業者や自殺者が生まれ悲嘆の声が方々に上がることになるのだから、資本の動きは絶えず活性化されなければならない。こうして求められる資本の活発な運動とともに、わたしたちを取り巻く時代の空気というものは次々と移り変わっていく。そこには歴史であったり伝統であったり文化であったりというような通底する匂いは希薄であり、ただ消費の対象となる流行の変遷ばかりが存在する。わたしたちを世代として結びつけるものは、若さというよりは流行の流れにおけるある一つの空気であり、その空気に寄生するような形で、わたしたちの若さなり疲れなりはようやく自己を主張することができる。血の通った共同体なんてものは存在せず、消費空間における共犯者が存在するだけだ。資本主義社会において大地が変動していく速度は、そこにまったく新しい触覚とでもいうものを生み出している。量の氾濫と速度の過剰におぼれるような触覚、大都市の人混みを匿名的にさまよう遊歩、インターネット上における情報の表面上を滑走していくようなサーフィン。わたしたちの血管の中を流れる、たとえば神社仏閣の前に頭を垂れたり餅をついたり織姫と彦星に願いを込めたりする際の、あの不可思議な呼吸はどんどん希薄になっていく。とするとわたしたちは大地を完全に失ったのか。しかしそこには多様な記号が存在する。消費可能で交換可能な記号が存在する。過去と未来から断絶されたこの現在という瞬間において、それでもわたしたちの目の前にはすがることのできる磐石なるコードがしっかりと用意されている。大都市にさまよう私たちの目の前に、確かに顔と名前をもった人間は存在しないが、しかし見知った記号がいたるところにわたしたちに語りかける。衣服やしぐさや髪型や話題やはなしくち、どれも流通した記号をまとい、交換可能な自己を提示する。この交換可能性の瞬間において、わたしたちは確固としている。ヒヒョウとかいう空間だってそうありうる。ラカンドゥルーズ脱構築カラタニコウジンなんやらと、安全な記号が交換される。もちろん記号そのものを非難するわけではない。言語だって交換可能な記号の体系を形づくりはする。しかし同時に言語には、あのゆるやかな時間のなかで何ごとか取り返しのつかないものが一瞬一瞬に賭けられていく。寝息をたてる幼子に取るに足らない一言を語りかける瞬間などに、記号には血と涙のようなものが刻み込まれていく。これは速度の問題だ。資本主義社会の速度において、血と涙が記号へとたどり着くための猶予はあまり用意されてはいない。そうしてわたしたちは購入可能な記号の消費に終始するしかない。それでもその消費の運動によってわたしたちは社会に参加していけるのだしプラズマテレビエコカーは手元に残るし新製品を論評したりでまわりの人々とも楽しく会話ができるのだ。テレビや映画の話題は楽しいのだ。それでもなにかが不満なのだとしたら、やはりわたしたちにはあの血と涙が本質的だということなのだろう。とはいってもこの速度のなかで、いったいなにが可能なのか。