電王戦第一戦感想―「強さ」とは何か

昨晩の電王戦第一戦、菅井五段vs習甦の対局結果は衝撃的でした。

習甦はコンピュータ同士での予選では第五位、優勝したponanzaとはかなりの差があったというのは大方の共通認識だったと思います。また今回のレギュレーションでは、出場ソフトは大会時点で開発を止め、プログラムを対戦棋士に提供すると定められています。つまり棋士は、十分に対局相手の研究を積んだ上で本番に臨むことが出来るわけです。さらに今回は対局時に使用されるハードも固定されており、クラスタの暴力も発動できないようになっており、総じて、前回に比べてかなり棋士に有利な条件になっています。菅井五段は若手とはいえ、誰もが認める実力者であり、今回の出場ソフトの5位である習甦とでは、圧倒的に菅井五段が有利だろうというのが下馬評でした。ところが・・・。

対局結果は既報の通り習甦の勝利だったわけですが、問題はその内容です。僕の棋力ではもちろん細かいところはわかりませんが、習甦が横綱相撲とでも言える差し回して菅井五段を圧倒した、というのは衆目一致するところだと思います。ほとんど手合い違いと言えるほどの力の差を感じてしまった人も多かったのではないでしょうか。個人的には、トップのプロ棋士がどう頑張ってもコンピュータに手も足も出なくなる、という未来がもうそこまで来ていることを、深い絶望とともに実感しました。と同時に、将棋の「強さ」とはいったいなんなのか、という根本のところに思いを致さざるをえませんでした。それは同時に、プロの将棋の魅力とはいったい何なのか、という問いともつながるものです。

単純な「強さ」、つまり将棋に勝つか負けるかという「強さ」でいえば、コンピュータが人間を凌駕する日も遠くないでしょう。そのとき、プロ将棋の魅力は消えてしまうのか。もし単純な「強さ」だけがプロ将棋の魅力の指標であるとするならば、コンピュータに完全敗北したとき、プロ将棋の魅力もまた消滅してしまうでしょう。しかし僕は、たとえ「強さ」という点でコンピュータに凌駕されたとしても、プロ棋士の魅力がその時点で消えてしまうわけではない、と確信しています。それはなぜなのか。昨晩の対局の最期の場面、すでに結果は見えており、あとはどのタイミングで投了の言葉を発するのかだけを誰もが見守っている場面で、将棋の内容をゆっくり反芻するように、苦悩の表情を浮かべ何回もお茶に口をつける菅井五段の姿を見つめながら、プロ将棋の魅力とはなんなのかを僕は考えつづけていました。

そのとき僕がふと思い出したのは、三浦弘行九段でした。かつて、将棋と時間―将棋に見る有限性の考察という記事の中で、名人戦での三浦九段を題材として、将棋における時間と有限性の問題について書いたことがありました。そこでは、有限な時間のなかでの「不安」との戦いを通してそれぞれの一手を紡いでいく姿のなかに、棋士という存在の魅力を見て取ったのでした。奇しくも、前回の電王戦の最終局では、この三浦九段がGPSに苦杯をなめました。実はそのときすでに、棋士が対局の際に向かい合う「不安」という問題を、コンピュータの将棋との対比においてぼんやりと考えていたのですが、そのことを不意に思い出したのでした。

一つ一つの手を、将棋というゲームを進展されるたんなる出力として捉えるのならば、その出力者が人間であるかコンピュータであるかはどうでもいいことです。そこで問われるのは、それぞれの一手についての評価値だけであり、優れた評価値を得ることのできる出力者に優位が与えられる、ただそれだけのことです。しかし、人間とコンピュータは、それぞれまったく異なるプロセスを経て一つの手を導き出し、そしてこの差異は、将棋を観る別の人間にとって大きな意味を持っています。

人間は、将棋に限らず、強くなるということがとても難しいことであるということを知っています。そして強くなるということは、すなわち弱さを克服することであり、しかも弱さをたんに葬り去ってしまうのではなく、弱さとうまくつきあっていくことであることも知っています。つまり、強さとは弱さを持たないことではなく、弱さとうまく折り合いをつけながら、そのつどその弱さを克服していく絶えざるプロセスであるわけです。将棋というゲームは、とりわけその時間制限によって、「強くなる」ということに伴うこの普遍的なプロセスを、いわば拡大して見せてしまうという点で、きわめて残酷です。一局の将棋に勝つためには、集中力を持続させ、苦しくなっても踏みとどまり、勝負所で踏み込み、最後の時間が切迫したなかで正しい一手を発見しなければなりません。そのどこかで弱さに負けてしまえば、将棋にも負けてしまいます。プロ棋士の将棋はしばしば、最後まで弱さに負けなかった者こそが一番強いのだ、ということを教えてくれるように思えます。

将棋を観るぼくたち人間は、プロ棋士の「強さ」が、たんに優秀な出力=一手を導き出す強さなのではなく、その一手を導き出すために、数え切れない「弱さ」を克服してきたことの「強さ」であることを知っています。つまりぼくたち人間は、「強さ」をそれそのものとしてだけで観るのではなく、その「強さ」を獲得するために踏破された「弱さ」の踏破距離として計っているのだと思います。だからこそ、時間のない切迫したなかで、苦悶の表情を浮かべながら指された素晴らしい一手に、ぼくらの心は震えるのです。その一手を導き出すために克服された「弱さ」の総量を直感的に感得して、自己を極限にまで高める人間の偉大さに敬意を払い、素直に頭を垂れるのです。

そしてまたぼくたち人間は、敗者の姿にもまた、「弱さ」との苦闘の跡をしっかりと読み取って突き動かされるのです。習蘇への敗北という現実を前にして、その事実をかみしめるように受け入れようとしてしていく菅井五段の姿に、ぼくたちははっきりと「強さ」を感じ取ります。あの地点にたどり着くまでに、どれほどの「弱さ」を乗り越えてきたのか、にもかかわらず届かなかったという現実に、どのような思いで向き合おうとしているのか、敗北を受け入れた上でどのように次の一歩を歩み出そうとしているのか、そういったすべてが、まるでテレパシーのように伝わってくるのです。もちろんそれらの感慨は、観る人間側にもとから備わっている経験値のストックが、菅井五段の姿をいわばスクリーンとして鮮やかに映し出されたものであるでしょう。だからおそらく幼い子供とさまざまな苦悩を経験してきた大人とでは、そのスクリーンのうちに見いだすものはまったく異なるでしょう。しかしそれでいいのです。プロ棋士という戦う存在は、それぞれの人々が日々のなかで展開している戦いとそのプロセスとを、いわば偉大化してくれるのです。そして重要なのは、その偉大化の作用は、コンピュータではなく人間にしか果たせない、ということです。なぜならコンピュータの強さは、人間的な「弱さ」の克服というプロセスを経ずに獲得されているものであり、それゆえその強さはそれを観る人間のスクリーンとはなり得ないからです。

電王戦の第一局は、逆説的ではありますが、人間が敗北することによって、そもそも人間の「強さ」とは何なのかということを振り返らせてくれました。そして僕の心は、投了をつげる直前の苦悶する菅井五段の姿に、いまだ打ち震えています。敗北してしまった菅井五段にこのように言うのはおかしいけれど、本当に素晴らしいものを見せてもらったと感謝しています。そして、人間の将棋というものの魅力をさらに深く感じることが出来ました。このあとの電王戦の結果については、正直に言って、人間の立場からすると悲観的にならざるをえないという気がしますが、それでも素晴らしい「何か」を観ることができるはずだという一点においては、きわめて楽観的に構えています。