「大文字の他者」へのメッセンジャーとしての「マスコミ」

情報経路の多様化、などということはかなり前に言われていて、新聞やテレビといったいわゆる「マスコミ」の存在感はかつてに比べてばずっと小さくなっている、というのは疑いようのない事実だと思います。経営的に見ても、広告費の全体においてネット広告の占める割合が飛躍的に増しており、「マスコミ」と呼ばれているものがこれからは大なり小なり縮小していかなければならない、というのは間違いないでしょう。

そんな状況の中で、ここでは「マスコミはなくならない」という逆張りの主張を展開してみたいと思います。とはいっても現在あるような「マスコミ」の形がそのままでとどまりつづけるというのではなくて、「マスコミ的なもの」とはそもそも何なのか、ということを明確化し、その要素については絶対になくなることはない、と主張するだけの話です。なので、その「マスコミ的なもの」がなんらかの形で維持されつつも、現在「マスコミ」と呼ばれているものがまったく消え去ってしまう、という可能性だって原理的には排除しない議論にはなります。

現在「マスコミ」と呼ばれているものは、長い時間をかけて、物質的、組織的、社会的、経済的なさまざまな要素が絡み合い、さまざまな利害の調整のうえで成立しているものです。それは多数の要素や機能や利害関係者、関連法規などが織り成すコングロマリットのようなものだといえるかもしれません。ここではまず、そこから「マスコミ的なもの」を取り出し、その上で、その「マスコミ的なもの」が社会のなかで果たす不可欠な役割を考えてみると共に、それを巡ってこれからの社会のコミュニケーションがどのような配置になっていくのか、ついて簡単な考察を加えてみたいと思います。

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■ 「量的なマス」と「質的なマス」

「マスコミ」というのは言うまでもなく「マスコミュニケーション」の略で、その直接の意味は、「マスに組織されたコミュニケーション」であるでしょう。それでは、「コミュニケーションをマスに組織する」とは何を意味するのか。まずもっとも素朴な考え方として、ここでの「マス」を単に量的に理解することができます。命題にすると以下のようになります。

・命題1
マスコミュニケーション」は、コミュニケーションを量的にマスに、すなわち一定以上の規模をもってコミュニケーションを組織することを意味する。

「一定以上」というのがどのくらいを意味するのかははっきりとはわかりませんが、とにかく、特定のコミュニケーションがリーチする範囲をどんどんと広げていけば、どこかの時点でそれが「マス」に達する、という単純なイメージです。新聞やテレビに流れる情報は、数百万から数千万のオーダーの人々に共有されるわけでですが、これだけの「量」を組織することが「マス」なのだと。

量的な「マス」という観点から「マスコミュニケーション」を捉えるというのはごくごく一般的であると思いますし、またもちろん間違ってはいないのだと思うのですが、ここでは、「量的なマス」と区別される、「質的なマス」というものが存在するのだと主張します。

・命題2
マスコミュニケーション」は、コミュニケーションを質的にマスに、すなわち特定の性格を有するものとしてコミュニケーションを組織することを意味する。

ではコミュニケーションが「質的にマス」であるとはどのようなことを意味するのか。それについて説明するために、ここでは精神分析理論家ジャック・ラカンの「大文字の他者」という概念を援用したいと思います。


■ 「大文字の他者」――みんな知っていることをみんな知っている

情報の共有というものを「量的なマス」という観点から理解するならば、それは「みんな知っている」ということを意味します。しかし、ぼくがかつて適当に読み散らかしたジャック・ラカンスラヴォイ・ジジェクといった人たちの議論に則るならば、この「みんな知っていること」と「みんな知っていることをみんな知っていること」とは区別されます。この後者には、個人個人の知識に加えて、その知識を他者全般も共有しているという、他者の知識についての知識も存在しています。この他者というのは特定のだれかれという他者ではなく、社会のなかの他者全般、平たく言えば「世間」と呼ばれるようなものの事を指します。

たとえば電車内で、誰かが妙なことを大声でつぶやき始めるなどの奇行をはじめた場合、多くの人は「気まずい」と感じます。それはおそらく、その奇行が電車の中の「空気」を乱してしまうからです。しかし、もしその電車がガラガラでその奇行人と二人きりである場合には、危害を加えられるかもしれないという恐怖は覚えたり、読書の邪魔をされたという不快感を覚えたりはするかもしれませんが、「気まずい」という感覚は覚えません。そこには、電車内の「空気」を醸成する構成員がいないからです。

「気まずい」という感覚は、「空気」や「常識」に背く行為がなされる場に立ち会う際に感じられるものですが、しかし自分ひとりだけでその場に立ち会う際には「気まずさ」を覚えることはありません。「気まずさ」は、「空気」が乱されているのを「みんなも知っていることを自分が知る」際に生じるものだからです。別の例をあげると、誰かと一緒にいてまったく話題がないときにはしばしば「気まずい」と感じますが、これは、お互いに「気まずい」と思っていることをお互いに知っているときに生じるものです。だからごくごく親しい関係にあって、沈黙しているからといってお互いに「気まずさ」を覚えないということをお互いに知っている場合は、沈黙は「気まずさ」を生みません。ここには、「お互いに知っているということをお互いに知っている」という事態によって生み出される、「共同主観」の次元がはっきりと現れています。ラカンが「大文字の他者」と呼んだのは、「みんな知っていることをみんな知っている」というときの後者の「みんな」、誰とは名指しできない他者一般のことです。

たとえば電車の中で誰かの奇行と遭遇するとします。このとき、その車両の中にいるのが自分とその誰か二人だけである場合と、そこに他の多くの乗客も居合わせている場合とでは、そこでの体験の質は本質的に変わります。その奇行人と二人きりの場合、自分に危害が加えられるかもしれないという恐怖はもちろんあるかもしれませんが、そのような心配がない場合、単に無視するか興味深く眺めるかは人それぞれですが、あくまでも個人レベルで完結する反応が生じるだけです。しかしそこに他の人たちもいる場合には、まったく質の異なる経験、「きまずい」という経験が生じます。


■ 「大文字の他者」へのメッセンジャーとしての「マスコミ」

ここでの主張は、「マスコミ」の機能はたんに「みんな知っている」という量的なマスを生み出すだけでなく、「みんな知っていることをみんな知っている」という、質的なマスを生み出す機能も担っている、というものです。言い換えれば「マスコミ」は、単に個々人に情報を届けるだけではなく、「大文字の他者」に対して「みんなこのことを知っていますよ」とメッセージを届ける役割も担っているのです。

たとえば、「みんな知っているのにみんな知らないことになっている」という事態はそれほど珍しいことではありません。卑近な例ですが、特定の人のカツラ問題などはまさにそうでしょう。このとき、現実の個々人はみなその人のカツラのことを知っているわけですが、「大文字の他者」はそれを知らないわけです。「大文字の他者」とは現実の個々人の総体ではなく、仮想的な「みんな」という「共同主観」の審級だからです。

大文字の他者」がそのかぶりもののことを知るのは、それがおおっぴらな場所で故意にか偶然にか明かされるときです。多くの人の前でそのことが明らかにされるとき、事実として「みんな知っていた」ことは、共同主観的に「みんなしっている」ことになり、「みんながそのことを知っているものとしてみんなが振舞う」ということが可能となります。この、公的な場での人々の振る舞いのプロトコルとしてのもろもろの「として」の目録が登録されているのが、「大文字の他者」であるのです。ある情報は、「大文字の他者」に知らされることによって初めて、それが社会的に存在するもの「として」扱われます。

「マスコミ」は、「大文字の他者」が管理するもろもろの「として」の情報コミュニケーション分野の管理人です。少なくとも現時点では、あれこれの情報が社会で共有されているもの「として」存在するためには、「マスコミ」を通して「大文字の他者」にその旨を伝えてもらわなければなりません。ネットを通して流通するさまざまな情報も、それが「マスコミ」に取り上げることによって初めて「質的にマス」となります。ある情報が事実として広く知られていく経路は、インターネットによってもちろん飛躍的に多様化しましたが、しかしそれらの情報が「質的にマス」になるためには、あくまでも「マスコミ」というメッセンジャーによって「大文字の他者」に届けられる必要があるのです。

つまり、「大文字の他者」は2ちゃんねるまとめサイトを見ないのです。

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当初は、ここからさらに「大文字の他者」と表裏の関係にある「猥褻さ」や、またネット上にあふれる下衆な本音群の位置づけについても書きたかったのですが、ここまででそこそこの量になったので、それらのトピックについてはまた改めて書きます。たぶん。