『長江哀歌』の感想

昨日、一昨日と、ジャ・ジャンクー賈樟柯)監督の『長江哀歌』を恵比寿で観てきました。二日連続で同じ作品を劇場に観に行ったのは初めてです。この映画の持つ魅力がそうさせた、と単に言ってしまってもいいのですが、それに加えて、ちゃんと確認しておきたいことがあった、ということも大きくありました。

どうしても確認したかったこと、それはこの映画でカメラが対象を映し出すある独特の「やり方」です。昨日、恵比寿からブラブラと歩きながら、『長江哀歌』からにじみだすとても不思議な感触について考えていて、それを生み出しているものについてなんとなくあたりをつけたのでした。とりあえず僕はその「やり方」を「おずおずとした優しさ」と名付け、そして今日、その「優しさ」のたたずまいというものを改めて確認しに出かけたのでした。

『長江哀歌』は、一般的な感覚からするときわめて奇妙な距離感でもって対象を映し出します。正確には、そこで問題となるのは映像だけでなく音声も同様なので、「映し出す」というよりも「俎上に乗せる」という方がいいかもしれません。その距離感というのはどうしても映像作品でしか実現することのできないものであるので、それを言葉で再現しようとするのはもともと無理な話なのですが、さしあたりある一つの場面を例に挙げることで、なんとか雰囲気だけでも伝えたいと思います。

まだ冒頭の辺り、主人公の一人である男がバイクタクシーである場所に連れて行ってもらうとその場所はすでに川底に沈んでいた、という場面があります。三峡ダムの建設とそれにともなう近代化のプロセスという、この作品の底を絶えず流れるテーマが最初に正面から提示される、とても重要な場面です。

バイクの運転手は川岸で止まると、「着いた。あの草のあたりがそうだ」と主人公に告げます。そこで指示されている、川から草が飛び出た箇所はまだ画面のさらに左にあってその時点ではまだ見えません。主人公がバイクを降りて左の方に歩いていくと、カメラもそっちに移動していって、その草が見えてきます。運転手も降りてきて、長江を背にして二人でいろいろと話すのですが、そのとき、画面の外からくぐもったようなエンジン音が、正体不明のまま聞こえてきて、次第に大きくなっていきます。しかしそれとは無関係に二人の会話はつづいていきます。すると、そのうちに二人の奥に見えていた長江の右手から、一艘の船がゆっくりと川を上っていくのが見えてきます。そしてそのタイミングにあわせるようにして、二人はバイクの方に戻っていって画面の右側に消えていくのですが、カメラはその二人を追っていかずに、ゆるやかに川を上っていく船を正面に捉えたままで、その船がさらに画面左手の方に登っていくと、それに合わせてカメラも左手に移動していきます。その間に、画面外の右手の方からバイクのエンジン音が聞こえてきて、川を上っていく船を捉えている画面を右から左に横切ってバイクが通り過ぎていきます。おおよそこんな感じの場面です。

僕が思うに、この一見するとごくごくさりげない場面のうちには、『長江哀歌』が対象を捉えていく際の基本的な距離感というものが、映像に対しても音声に対してもきわめてはっきりと現われています。

この場面を物語を構成する一つの部分として考えるなら、そこで焦点が当てられるのは二人の人物であり、またその二人の会話です。そして背後の長江やそこを上っていく船はその背景にすぎません。しかし上の場面では、その背景であるはずの要素が、いつのまにかにじみ出てくるようにして画面の焦点を占めていきます。この場面で言えば、映像として言えば川を上っていく船が、音声で言えばおもむろに二人の会話に闖入してくる船のエンジン音が、そのにじみ出てくるものです。

このようにして、背景としてたたずんでいたりあるいは画面の外からまずは無関係なものとして画面のなかを通り過ぎていくものが、すっと風向きが変わるようにさりげなく画面の焦点に位置に立って、それまで焦点に位置にいた人物などが、こちらもすっと風向きが変わるように画面から消えていく、というカメラと対象との奇妙な関係が、この『長江哀歌』という映画を隅から隅まで作り上げている、といっても過言ではない気がします。ここでは仮に、上記の場面に見られるような画面上の焦点の移行を「焦点移行」と呼ぶことにします。

『長江哀歌』のカメラが採用しているこの距離感は、必然的に「長回し」を要求します。僕はこれまで、「長回し」というのは画面の緊張感を高めるためのものなんだと思っていましたが、『長江哀歌』によって、それとはまったく別の「長回し」の効用というものがあるのだといまさらながら気づきました。

短いカットをつないでいくとき、そこでつむがれていくのは意味の連鎖です。「意味」という言葉が強すぎるとすれば、「要素」の連鎖といってもいいかもしれません。そこでテンポよく連鎖していくのは一つのシーンを作り上げていく諸要素であり、一つ一つのショットにおいては、その「要素」以外の部分は見えなくなってしまいます。そこではドラマとサスペンスとそれを織りなす緩急とが、それぞれの要素によって配分されていくわけです。

『長江哀歌』もまた、長く離れ離れになっていた人を探し回る一つのドラマを軸としてもっている映画ですから、そこにはそのドラマを構成するいろいろな要素が配分されています。そうでなければ話の筋がまったくわからなくなります。一人の男が、十六年前に自分から去っていった妻と子供を探し回り、教わった住所にたどり着くとそこは川の底に沈んでおり、義兄を見つけ出してもはじめはつれない対応をされ、といったドラマ的諸要素がちゃんと配分されているわけです。しかし例の距離感が、全体のドラマを構成する諸要素のステータスを、とても不思議なやり方で根本から変容させているのです。

『長江哀歌』を構成する多くのショットで「焦点移行」が見られることによって、全体のドラマを構成する諸要素は、その輪郭をきわめて移ろいやすいものとなっています。最初に挙げた例で、妻と子供を捜すというドラマ上の要素が背後の長江を上っていく船との間で「焦点移行」を起こしていたように、全体のドラマを織りなす構成要素が、カメラに移りこんだ周囲の情景、あるいは周辺の人びとと緩やかに相互浸透してしまっているのです。

この事態を裏返しに証明するものとして、『長江哀歌』のなかにはいわゆる「エスタブリッシュメントショット=場面設定ショット」というものがほとんど存在しない、という事態があります。この映画は、そのタイトルが示すように長江を舞台としており、なかでも特に、三峡ダムによって多くの村が沈み、また現在も住民の撤去が進んでいるきわめて限定されたある場所を中心としてドラマが展開されていきます。『長江哀歌』を構成するドラマは、明確にある特定の場所をもっているわけです。

ある特定の場所を舞台とする映画は、しばしば冒頭やまた適当な場所において、その物語が展開される場所がどのような所であるのかということを提示するようなショットを差し込みます。これは映画でなくとも、小説なんかでもそうだと思います。しかし『長江哀歌』には、そのようなシーンがほとんどといっていいほどない。

しかしながら、だからといってこの映画のなかに、特定の場所の刻印がなされていないかといえばけっしてそんなことはありません。というよりも、この映画はこの上なく鮮烈に、優雅に流れゆく長江と、またその緩やかさとコントラストをなすようにせわしなく解体されていく廃墟ビル群とを描き出しています。では、『長江哀歌』はどのようにしてそれらの場所を描き出しているのか。

それを可能としているのが、例の「焦点移行」であるのです。最初に挙げた例においても、ドラマをなす要素からの「焦点移行」によって、同じショットのなかで人物から長江へと、映像の焦点が移っていたのでした。同じように、この映画のなかではあらゆる場面において、エスタブリッシュメントショットのように場所そのものを映し出すショットを用いずして、ドラマを構成する諸要素にまさに浸透させるような形で、ドラマが展開されていくその場所を描き出しているのです。

通常、ドラマが展開されていくのはある空間の「なか」においてです。まず特定の場所という空間が設定され、その設定された空間の「なか」で人物が動き回る。まずエスタブリッシュメントショットで空間を設定し、それから人物が登場するといったよくある映像の作り方が暗黙のうちに前提しているのも、この「なか」の論理だと思います。

その点でいえば、『長江哀歌』はそれとはまったく異なる論理によって、人物と空間との関係を作り出しているということがよくわかります。この映画のなかでは場所=空間はそれ自体として確立されることはなく、あくまでもドラマ自体に浸透するような形で、まさに画面からにじみ出てくるわけです。

このような描き方を可能にしている、ここで仮に「焦点移行」と呼んでいる手法について考えてみると、それがまさしくきわめて「映画的」な手法であるということがわかります。端的に言えば、そこでは「映りこむ」ということと「持続する」という二つの契機が最大限に活用されているのです。

「映りこむ」という事態をはじめて可能にしたのは、いうまでもなく写真という技術です。ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」で述べているように、カメラは史上初めてイメージの複製から手を解放しました。手が描く時、そこでは当然ながら、手が意図的に描いたものしか描かれえません。しかしカメラの場合は、レンズの前に存在したものが「機械的に」写し取られます。そこには、人間を経由した選別とは別の論理によって「映りこむ」という事態が可能になったわけです。

映画という技術は、対象が「映りこむ」ことを可能とした写真にさらに運動を与えました。写真に時間が付け加えられたわけです。映画の映像は、写真のように凍り付いているのではなく、もしそこで展開されているのがまったく同じ映像であるのだとしても、それは「持続」しているのです。

この二つの契機を足し合わせると、そこでは「映りこんだものが持続する」、という事態が出現していることがわかります。そしてこの事態こそが、僕の理解するところによると、『長江哀歌』を可能としているものです。

『長江哀歌』の特徴の一つとして、画面を構成する空間がとても広いということが挙げられます。ごくごく素朴に言えば、登場人物が屋外にいることが多く、しかもその屋外というのが長江沿いの見晴らしのいい場所なので視界がとても広いのです。そこではたんに長江が映りこんでいるだけではなく、対岸やまたそこに林立するビル群、上流や下流方面の開け、さらに山の上の雲や空もそこには開けています。これらの要素はことさらに描写されなくても、つねに画面のなかに映りこんでいます。このような空間の捉え方が、カメラが対象を機械的に切り取っていく映画というメディアでなければできないということは、小説というジャンルと比較すれば容易に理解できます。

カメラに映りこんでいるこれらの要素は、写真のように凍り付いているのではなく持続しています。そのことを象徴しているのが、長江に浮かんでいる船です。この映画のなかでは、長江にはほとんどつねに船が浮かんでいます。しかもしばしば、それは運航している船ではなく、あたかも静止しているかのように浮かんでいる船です。たえず流れゆく川で一ヶ所に静止しているということは、実際にはその船は緩やかに動いているわけです。この船の存在は、僕には「持続」の象徴であるように思えてなりません。

人物を映し出しているカメラが、その人物の背後に川に浮かぶ船を映りこませている。その後、この人物が歩き出したにもかかわらずカメラがそのまま固定されているとき、じっと同じ場所にたたずんだままでいる船が、急にせり出してくるように見える。これも一種の「焦点移行」であるのですが、ここには「映りこむ」ことと「持続する」こととが精妙に絡み合っています。ここに出現している事態こそ、絶対に映画というメディアにしかできない、まさに「映画的」という形容を与えるにふさわしいものだと思います。

書きたいこと、考えたいこと、まだ全然分かってないこと、羅列したいこと、などなどはたくさんあるのですが、ここではもう一点だけ書きたいと思います。

『長江哀歌』の冒頭は、船にぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々の顔をなめまわすように追っていく場面になっています。この場面からこの映画が始まっているというのは、きわめて重要であると僕は考えています。

映画と顔というと、僕はどうしてもカール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を連想するのですが、この映画を『長江哀歌』と比較するのは、案外正当なんじゃないかとなんとなく思っていたりもします。僕の記憶によれば、『裁かるるジャンヌ』は全編ほとんど顔のアップで構成されている映画です。短いカットの顔アップをひたすらつないでいく『裁判かるるジャンヌ』と、『長江哀歌』を比較するとなにが見えてくるか。

ジャン=ミシェル・フロドンという人が『映画と国民国家』という本のなかで、映画というものは原理的に民主主義的なものだ、ということを書いています。それは映画が対象を無条件的に映りこませてしまうものであるからです。むろんそこでは画面のフレームという問題はあるのですが、しかし少なくとも言語では不可能なある無条件性というものがそこに見出されうる、ということは言える気がします。

もしフロドンのいうように映画が原理的に民主主義的なものであるのだとしても、それが実際に民主主義的なものとなりうるためには、その映画の原理を最大限に活用した原理的な映画を作り出す必要があります。僕は『長江哀歌』を観て、もしそのような「原理的な映画」があるのだとしたら、『長江哀歌』はまさにそれなのではないか、と感じたのでした。

民主主義的、ということでいえば、『裁かるるジャンヌ』が描き出している魔女裁判は、まさにその対極にあるものだといえそうです。そこでは一種のスペクタクルとしての火あぶりというクライマックスに向かって、ことごとく脂ぎった残忍な聖職者たちの面々がこれでもかとつなぎ合わされていきます。それらはまぎれもなく、ドラマのその一番の突端に集中した顔の集合です。

それに対して『長江哀歌』に出てくる顔は、映りこみかつ持続するものです。その冒頭の場面では、長回しのなかで一つ一つの顔が次から次に画面を通り過ぎていく。画面外の右手からそっと画面のなかに入り込んできて、そしてつかの間画面の真ん中に穏やかな笑みを据えると、そのままゆるやかに左手に移っていって画面外に消えていく。そこには特権的な顔はなく、それこそ民主主義的に次々と新たな顔に焦点が移行していく。

これまでの文章では、「焦点移行」ということで人物と場所との相互浸透を強調してきましたが、この映画ではそれと平行してさまざまな人物同士の間でも「焦点移行」がひんぱんに生じています。ここに生じている事態を、フロドン風に端的に「民主主義的」と呼んでもさしつかえないのではないか、と僕は感じていたりします。

それにしても、あらためて考えると人間の顔というのは、まさに「映りこむ」という仕方でしか捉えることのできない対象であるように思います。ベンヤミンは写真の対象としての顔をアウラの最後の避難場所であるとして、それが写真の非本来的な対象であるようなことを言っていましたが、むしろそれは写真の本来的対象なのではないか、という気がしてなりません。実際、『明るい部屋』でのバルトの写真の現象学は、まさにそういう方向に進んでいます。しかし、写真が映画になるとき顔はどうなるのでしょう。

三日前には、神保町の岩波ホールで『胡同の理髪師』という、たしか92歳の老人が主役の中国映画を観てきました。僕が思うに、「老人の顔」というのは「顔のなかの顔」という地位を占めています。顔というのは、レヴィナスがいうような絶対的な他者性ではなくて、しわという痕跡が刻み込まれていくきわめて物質的なものであり、その物質性を如実に証言するのが「老人の顔」である気がします。レヴィナスの議論では、単純に考えて、写真や映像に残された顔について考えることができません。

そういえば昔、大学の卒業論文では『カラマーゾフの兄弟』のなかの「顔」と「子供」というのをテーマにして、そこでもやはり「老人の顔」という問題にたどりついたのですが、今思えば人間存在の物質性ということでいえば、「長老ゾシマ」の死体の腐臭がその極限的なものですよね。顔の物質性は写真や映画において記録することができるけれど、臭いは不可能です(むかし『エクソシスト』か何かの映画の上映の際に、映画館に臭いを流すという企画をやったらしいですが、これは臭いの「再現」あるいは「表現」であって、機械的な「再生」ではないですしね)。

最後はぐだぐだになってしまいました。自分の場合一息で書くことのできる文章はせいぜい五千字くらいまでなので、息切れしてしまいました。とりあえずまあ、今回はこんな感じで。