困った

id:finalvent氏からトラックバックというものをいただいたのですが、困りました。要は、「あなたの書いたものは間違っているよ」という話がされているのですが、その指摘の内容がなんともはや。文章を読む限り、個別に反論するというコストの見返りがあるような(それを読んで勉強になるような)意見をいただけるとは思えないので、「議論」めいたものをする気は毛頭ないのですが、こういう場合はどうしたもんなのですかねえ。

とりあえず文章を読ませていただいた限りだと、「自分も構造主義についていろいろ考えていて、自分なりに深めた理解からするとこの「若者」の見方はちょっと違う方向に行っているから指摘してあげよう」という話でないことは間違いない気がします。もしそうであれば、なにやら質問することで勉強させていただけたかもしれないのですが。僕の印象だと、むしろなにかコメントをするという動機が先にあって、そのあとでかつてかじったことのある知識をちょこちょこ張り付けてみた文章、という風にしか読めませんでした。

じゃあその「動機」はなんなんだ?という話ですが、氏の文章の最後を読むと「思想的な左翼」という言葉があるので、もしかしたら自分が「左翼」認定されたのでは、という可能性が浮かびます。まあ実際、構造主義なんてのをまともに受け取ろうとする人間は、それを「左翼」もしくは「文化左翼」であると受け取ってもそれほど間違えることはないと思うので、もしそうだとすればその判断についてうんぬんすることはしません。

で、こう考えれば「動機」については理解でき、気持ち悪さはなくなります。ということで一件落着。

最後に、覚え書きを二点。

フッサールの読み方について。
僕の理解するところでは、きわめて大まかに言ってフッサールに接する際には二種類の態度があり得ると思います。
1、フッサールが実際に言おうとしたことを理解する
2、フッサールがそれについて述べることを失敗したものを探る
で、実際にはこの二つは絡まり合っていて、フッサールの思想の変遷というのは、言おうとしたことがたえず失敗していることの連続と言えると思います。

さて、フッサールが「実際に言おうとしたこと」とは何か。それをここでは「テロス」と呼びます。知の根拠づけがフッサール現象学の中心的な動機だというのは常套的にいわれることですが、その根拠付けとしてなにが見出されるのか、という点については変遷が見られます。前の文章で挙げた『イデーン』では超越論的意識がその「テロス」にあたりますが、たとえば最晩期の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(「生活世界」論が中心的に展開されるのはここですね)や「幾何学の起源」では「西洋」というものがその「テロス」として見出されます。細かく見ていけば、超越論的意識と「西洋」とでは、「テロス」としての機能が少し違うのですが、しかしこの粗い見取り図の段階では無視していいでしょう。で、「構造主義について考える」では構造主義エートスを「人間の乗り越え」のうちにあるとしたのですが、フッサール的なテロスは、その最晩期にあってもあきらかにこの「人間」を巡っています。というか、構造主義がその的と見なした「人間」の形象というのが、フッサール的な「西洋」を含むほどの広いものである、ということなんですが。ちなみに、「生活世界」論はある意味では「テロス」の失敗の系譜(上記の2ですね)に連なるものである(より一般的にいえば「地平」に関する問題系ですね)、と僕は理解しています。

2、ソシュールについて
面倒くなってきたのでこれを貼る。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070121#p1