「間違わない」というステータス

ここしばらく、三日に一回は「ダーウィンって偉大だなあ」とつぶやいている僕ですが、進化論関係の本を読んでていつも気になるのはselectionという言葉の訳語です。詳しくはわかりませんが、かつては「淘汰」っていう訳語が一般的に使われていた気がしますが、このところは「選択」という訳語をよく見かける気がします。昨日読んでいたロバート・アンジェ編の『ダーウィン文化論』でもそうでした。推察するに、「淘汰」という言葉にはなにか不穏なニュアンスがあるということから「選択」がまさしく選択されているのかなあという気がします。「政治的公正さ」というやつですか。

ただ、個人的には「選択」という訳語には違和感があります。その理由を説明するためには、selectionという言葉の両義性を考える必要があります。selectionは、その結果として「環境に適応した者」と「環境に適応できなかった者」とを分けるわけですが、selectionが働きかけるのは当然ながらその両者に対してです。しかし、「選択」という言葉にはその両者に対する働きかけというニュアンスが薄く、環境に適応した者を「選択」する、というニュアンスにどうしてもなってしまいます。他方、「淘汰」という言葉もまたselectionの両義性はもちませんが、こちらは「環境に適応できなかった者」を「淘汰」するというニュアンスになります。つまり、selectionという言葉が「環境に適応した者」と「環境に適応できなかった者」の両者に働きかけるのに対し、「選択」と「淘汰」という訳語はそれぞれ前者と後者に焦点を当てるわけです。で、おそらくその後者に焦点を当てる「淘汰」は不穏であると敬遠されたのではないか、と推察するわけです。

「選択」も「淘汰」のどちらもがselectionの一面しか表現していないわけで、ではそのどちらが適当なのかということが問題になるわけですが、そこで、僕としては「淘汰」の方が適切だと考えているのでした。つまり、selectionにおいては、「環境に適応した者」よりも「環境に適応できなかった者」に焦点を当てるべきだ、と考えているわけです。そして、この焦点の当て方は僕の考えではけっして些細なものではありません。というよりも、このことは進化論という発想のきわめて重大な側面に関わる、と個人的に思っているのです。

「選択」という言葉は、「環境に適応した者」をポジティブに捉えるようなニュアンスがあるように思います。そのこと自体は問題ないと思うのですが、ただそこでのポジティブ性には二種類の発想の可能性がある、ということを考える必要があるように思います。一つは、そこで「選択」された種が他の「淘汰」された種よりも相対的に特定の環境に対して適応することができた、というものです。もう一つは、その「選択」された種が、特定の環境に対して正しく適応した、というものです。この二つの発想の違いはけっして見過ごされてはならないように思います。この両者の違いを単純化すれば、前者においては適応があくまでも事後的に成功したものとして見出されるにすぎないのに対して、後者の場合はあらかじめ唯一の正解があることが想定されている、ということです。いうまでもなく、ただしく進化論的な発想と言えるのは前者だけですが、ときにそこに後者の発想が紛れ込んでしまう、ということがある気がします。しばしば進化論が目的論の疑いをかけられるのはそのためだと僕は思っています。

僕としてはむしろ、「環境に適応した者」をネガティブに、否定形で捉えた方がいい、と考えています。つまり、「環境に適応した者」とは「淘汰されなかった者」である、というわけです。そしてこのように捉えると、selectionというものが絶えざるプロセスである、ということも忘れずにすみます。「選択」といってしまうと、ある種(あるいは遺伝子の乗り物としての個体)が「適応」した瞬間というものがどうしても想定されてしまいますが、「淘汰」という言葉を使えば、生き残っている種のステータスを「いまだ淘汰されていない者」というプロセスの途上に置くことができます。実際、natural selectionにおいては、神の判断のような決定的瞬間などなく、際限のないプロセスだけが見出されるわけです。それゆえ、実は「適応した」という断定は、厳密に言えば不可能であり、やはり実際には、「いまだ淘汰されていない」としかいえないのです。

こういう問題があります。「60チームでトーナメント戦をする場合、全部で何試合行なえば優勝チームが決まるか?」。この問題に対しては、なにも実際にトーナメント表を作ってみなくても、ちょっと考えれば即座に答えはわかります。トーナメント戦では一試合ごとに1チーム敗退し、優勝するのは1チームだけなので、どんな組み合わせにするにせよ59試合行なえば自動的に優勝チームが決まります。ここでは、優勝チームは一度も敗退しなかったチーム、として捉えられているわけです。この例はあくまでも類比的なものでしかありませんが、ここに見られるような発想の転換が進化論の根底にはある、という気がします。

ここで述べたこと進化論の文脈を越えて抽象的に一般化すれば、「正しい」は存在せず、「間違わない」だけが存在する、ということになります。一般的に考えるならば、「間違わない」が存在するなら「間違い」が存在し、そして「間違い」が存在するならそれを判定する基準としての「正しい」が存在する、ということになりそうです。しかしここで重要なのは、「間違い」は存在せず、それは端的に「淘汰」される、ということです。だから、ここでの「間違わない」は、「正しい/間違い」という二項対立には属さないのです。思うに、哲学の世界でこのような意味での「間違わない」というステータスをはじめて定式化したのが『哲学探求』におけるヴィトゲンシュタインだったのだと個人的に考えています。とにかく、このような「間違わない」というステータスを保存するためには、selectionの訳語は「淘汰」でなければならない、と考えている次第なのでした。

なお、記事とは関係ないですが、進化論関係のブログでは→http://d.hatena.ne.jp/shorebird/を僕は愛読しています。邦訳のない文献についてのきわめて詳細かつ親切な読書ノートは非常に勉強になるので、ひろくお勧めします。と、こういうのは作法としては不適切なのかもしれないのですが、学識のある上記のブログ主の方に、selectionの訳語に関する意見などもらえたら、とブログ紹介がてらにトラックバックをこっそりと送ることにしたのでした。