「反証されていない」というステータス

先日、イアン・ハッキングの『何が社会的に構成されるのか』を読み、全部読み終わったと思ったらあとがきで部分訳だと知って卒倒しそうになったのですが、それはさておき、僕が個人的にもっとも興味を覚えたのは科学の構成の問題について論じている第三章でした。といっても僕が興味を引かれたのは、サイエンス・ウォーズうんぬんにまつわる面白エピソードなどではなく、そこで紹介されていたアンドリュー・ピカリングという人の議論の方法です。というのも、本が手元にないので(ジュンク堂で座り読み)詳しいことは書けませんが、彼の理解が自分の科学の理解ときわめて近いように思えたからです。

ハッキングは一般的に構成主義と呼ばれているものの総体を基礎的なものから過激なものまでたしか六段階にわけていたのですが、そのなかでももっとも基礎的なもの、つまり構成主義と呼ばれるものすべてに共通する基本的なものとして、ある対象が実体的なものではなく歴史的、社会的に構成されてきたものであることを示すこと、を挙げています。で、構成主義的主張というのはつまり、「Xは自明な存在だと思われているが、実は歴史的、社会的に構成されているのだ」という形式をとることになります。ということは、そこで「X」の中に入るのは、多くの場面で自明な存在だと思われている対象でなければなりません。たとえば「人の名前」などは社会的に構成されているのは誰の眼にも明らかであるので、だれもそれが「構成」されている、などと主張する人はいないわけです。

さて、構成主義という発想が出現してからというもの、ありとあらゆるものが「X」のなかに放り込まれて構成主義的な主張がなされてきた、とハッキングは述べるのですが、そのなかでも、「科学」というのは、構成主義の流れのなかでひとつの範例的な対象となります。赤川学構成主義構築主義というconstructionismに当てられる二つの訳語について、前者は本質主義に対抗するものとして、後者は客観主義に対抗するものとして用いる、ということを提案しています(赤川学構築主義を再構築する』参照)。本質主義とは、ある対象には絶対普遍の本質が存在する、という発想であり、客観主義とはそれを観察あるいは分析する主体とは無関係に対象が実在する、という発想です。ハッキングはこのような区別はしていませんが(というかそもそも、訳語上の曖昧さを経験していないのですから当たり前です)、「科学」というのは、まさにこのような意味での本質主義と客観主義の権化である、ということには同意する気がします。つまり、「科学」はいってみれば構成主義にとっての最大の「抵抗勢力」であるわけです。とくに深く考えなくても、「科学は歴史的、社会的に構成されたものである」という主張に対しては、科学者が猛反発することが容易に予想されます。

むろん、「構成」ということの水準がなによりもまず問題になります。たとえばピカリングは『クォークを構成する』(邦訳無し)という本を書いているらしいのですが、「クォーク」という名称が社会的、歴史的に構成された恣意的なものである、ということには、すべての科学者も同意することは間違いありません。問題は、「クォーク」という対象です。その対象が、観察者、あるいはその観察行為を支える社会的、歴史的文脈とは無関係に実在し、特定の本質を有しているのかそうではないのか、という点が争点になるわけです。そしてこういった議論では必ず登場するのが「相対主義」という言葉でしょう。科学者たちからすれば、ここでは「クォーク」という対象そのものが社会的に構成されたものである、と主張する構成主義者たちは、「あらゆる真実を恣意的な構成物に変えてしまう悪しき相対主義者」に見えることでしょう。そしてたとえば、「重力は誰がなんと言おうと存在しているじゃないか」と主張すると思います。たしかに、重力の作用そのものが社会的に構成されているのだ、などという主張はさすがにナンセンスでしょう。ところで、「サイエンス・ウォーズ」の口火を切ったアラン・ソーカルのパロディー論文は、まさにそのような主張をしていたのでした。

それではハッキングに紹介されていたピカリングの議論もまた構成主義的主張であるからには、科学者に「悪しき相対主義者」となじられるようなものであるのか、というとそうではありません。というのもピカリングは、科学の分析対象による「抵抗」という概念を持ち込むからです。自分の言葉で言い換えれば、科学は実験を通してもろもろの仮説を確かめていくわけですが、自然は間違った仮説に基づいた実験に対して抵抗する、というわけです。たとえば重さの違うものを落とすと落下の速度が違う、という仮説に基づいてピサの斜塔から二つの物を落としたとすると、その両者は同時に地面へと辿り着くことになりますが、このように間違った仮説に対して実験結果が「否」をつきつけることを、ピカリングは「抵抗」を呼ぶのです。そして科学というのは実験を通してつねにこの「抵抗」に試されることによって構築されていくのだから、極端な構成主義者が主張するような純粋に恣意的な構成物ではありえない、ということになります。「抵抗」そのものは科学者集団によって構成されたものなのではなく、誰がなんと言おうと、そこに「ある」ものです。むろん、「抵抗」というのはある仮説に基づいた実験が行なわれることではじめて見出されるものですから、それは石や山のようにそこに「ある」というわけではないですが、しかしそれでも実験に対して「抵抗」する「なにものか」のリアリティーは紛れもないわけです。

とすると、そのような観察者とは無関係に存在する「抵抗」というものを前提とするならば、それはもはや構成主義とは言えないのではないか、と言い出す人ももしかしたら存在するかもしれませんが、そんなことはありません。科学の客観主義、本質主義といわれるものがあるとすれば、それは現在通用している科学理論が想定しているような世界がまさにそのように実在している、という発想がそれに当たるでしょう。「実在」という表現の範囲が微妙なところですが、ピカリングはこの主張に対してはすくなくともなんらかの異は唱えることは間違いありません。あらゆる科学理論は「抵抗」によってテストされる、これをピカリングは基本的な出発点としますが、だからといってそのテストにパスした理論が「正しい」ということにはなりません。そこで確かであるのは、その理論がいまだ「抵抗」によって棄却されていない、ということだけです。その理論は、その理論が生み出されるまでに行なわれてきたありとあらゆる実験によって棄却されてきたありとあらゆる仮説よりは、より大きな説明可能性を有している、ということは言えますが、しかしそのことと、その理論が「正しい」というのは別のことです。「正しい」と本当に言えるのは、その理論が世界そのものを正確に写し取っている場合のみですが、「抵抗」からはそのような「正しさ」は原理的に導き出せません。ここが、ピカリングの主張の胆である、と僕は考えています。それゆえピカリングは、大きな説明可能性を有する科学理論に賦与する形容詞として、「正しい」ではなく「頑健である(robust)」を選びます。

「正しい」理論を作り上げるものとしてではなく、カントの「物自体」のようにそのものとしては不可知であるけれどもしかしその実在は疑いえないものに対して、すこしづつ一貫した説明を与えていくプロセスとして科学を捉えるというこの発想は、しかし、なにもピカリングがはじめて発明したものではありません。ハッキングによるピカリングの議論の紹介を読みながら、僕は「これはパースだな」と思っていたのですが、最後の方でハッキングもパースの名前を注で挙げていました。パースのプラグマティズム(あるいはプラグマティシズム)の発想は、まさにこのような科学イメージを提出しており、またパースがカントの『純粋理性批判』に傾倒していた、ということも広く知られています(米盛裕二『パースの記号学』参照)。そして僕自身の科学の理解というのも、このパースの線に乗っています。

カール・ポパーの本をまともに読んだことがないので名前を挙げるのはおこがましいのですが、彼が科学的手続きを「反証可能性」によって性格づけているらしい、ってことは風の便りに聞いています。僕の考えでは、この「反証可能性」という発想は、ピカリングの「抵抗」という発想とうまく結びつく気がします。「反証可能性」そのものはあくまでも手続きに関するものでしかありませんが、その「反証」というものが可能となるその最終的な根拠として「抵抗」というものを見出すことができるのではないか、という見通しです。つまり、反証するというのは、「その理論だと抵抗に出会いますよ」というのを示すことである、と捉えるのです。そしてこの見通しにおいては、それぞれの科学的理論は「いまだ反証されていないもの」として捉えられることになります。長くなってきたので、この「いまだ反証されていないもの」としての科学の構成性について触れるのは止めにして、この「いまだ反証されていないもの」というステータスが、「正しい/間違い」という単純な二項対立には属さない、ということだけを確認しておきます。

といってもこれまでのところでほとんど必要なことはいってしまっていますが、そもそもこのピカリングの発想では「正しい」科学理論というものが原理的には存在しないのですから、その「正しい」という基準に則って判断される「間違い」も存在しないわけです。それゆえもし二つの対比的な項を設定するとすれば、「反証されていないもの/反証(抵抗)」ということになると思います。容易にわかるように、「正しい/間違い」という二項対立が、「正しい」というポジティブなものから出発しているのに対して、「反証されていないもの/反証」という二項が、仮説によって出会われる否定的な抵抗、という「否定」から出発し、さらにそれがその「否定の否定」としての「反証されていないもの」と対比させられている、という根本的な違いが見られます。「正しい/間違い」と「反証されていないもの/反証(抵抗)」との根本的な位相のずれが、前回の日記(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070223#p1)で「淘汰」という言葉と「間違わない」という否定性に焦点を当てることで浮かび上がらさせようとしたものである、ということは、前回の記事を読んでいただいた方には言うまでもないことかもしれませんが、念のために注意を促しておきます。

ただ、科学における「抵抗」と生物の進化のプロセスにおける環境とでは、すこし性格に違いもあります。というのも、科学が出会う抵抗はつねに一貫したものであると想定され、その一貫性ゆえに科学理論も一貫した説明となることができるわけですが(重力のある日があったりない日があったりはしない)、生物がそこで生きている環境というのは、ほとんどの場合はなんらかの安定性を示しているのだとはしても、やはりつねに移り変わっていくものであるからです。しかしそれでも、もっとも根本にあるアルゴリズム、自然界=環境の抵抗に出会ったものが反証=淘汰されていき、さしあたりは「反証されていない=淘汰されていない」ものが残っていく、というアルゴリズムに関しては共通しているのではないか、と考えています。そういえば原著は読んでいないので正確なところはわかりませんが、ピカリングも科学理論の生長というものを進化論の観点からとらえている、というようなことをハッキングも語っていた気がします。




何が社会的に構成されるのか

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Constructing Quarks: Sociological History of Particle Physics

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