稲葉振一郎『「資本」論』

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

以前から読もう読もうと思っていた稲葉振一郎氏(id:shinichiroinaba)の著作をはじめて読みました。

むかしマルクスの『資本論』を読んだとき、どうしても繰り返し引っかからざるをえなかったのが「労働価値説」への依拠でした。肉体労働者を労働に関するモデルとして想定することで主張される「価値を生むのは労働である」という『資本論』を支える大前提は、現代の情報消費社会を生きる人間としては「おいおい」と突っ込まざるをえませんでした。大地へと働きかける労働がそれだけで価値をもつのではなく、結果として商品が売れることによって事後的に労働に価値が賦与されるのであり、だから、労働時間をそれだけで自律して価値をもつものとして設定し、その労働時間を基準として生産物の価値を計る、というのはとにかくナンセンスとしか言いようがない、と感じざるをえませんでした。そして、「資本家による搾取」、という主張が成立しうるのも、この労働時間を価値基準と設定した上で、それを資本家がかすめ取っているという図式に則ることによってなので、『資本論』の論旨の流れ自体に強い違和感を覚えたのでした。むしろ、資本家が労働を組織しそこに付加価値を加えることによって、そもそもの個別の労働自体の価値が上がるのではないか、というのが現代における常識的な見方であるわけです。

しかしのちにある本で(なんだったかは忘れました)、マルクスの「労働価値説」というのは、労働者の権利を主張するための発明物なのだ、ということを読んで納得しました。『資本論』の一巻では、労働者(とくに子供)の搾取に関するひどい惨状が丹念に描かれていて読む者を暗澹とさせるのですが、その現状からは、「搾取」という事態が存在することは疑いようのない事実だったのでしょう。そしてマルクスは、その惨状に対して改善を主張する「権利」の根拠として、「労働価値説」をいわば発明したわけです。たとえば上に述べたように、事実としては労働そのものが価値をもつという主張はナンセンスで、実際にはそれは消費という場面から遡及的に価値を受け取るわけであり、だとすれば、そこにはそもそも「搾取」などという事態は出現しようがありません。しかし、「労働価値説」という、労働そのものがすでに価値を有しているのだ、という虚構を構築することで、現実の状況としては疑いえない「搾取」に対抗するための足場が得られるわけです。だからその点では、マルクスの『資本論』は単なる経済学の書というよりは、すでに同時に政治的でもある政治経済学の書であり、現実に内在した分析というよりは、現実の分析に同時に理念の発明が同居する一種のパフォーマンスである、とするのが適切である気がします。とすると『資本論』は、原初状態に見出されるものとしての「自由」や「平等」の観念を発明した、ルソーの『社会契約論』に近いものである、と言えるのではないでしょうか(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/searchdiary?word=%2a%5b%C0%AF%BC%A3%5d参照)。

このような意味での政治経済学の書と読み替えれば、『資本論』はやはりきわめて素晴らしい分析と発明の書である、と言えると思います。しかし、マルクスの議論もそこに多いに貢献したさまざまな労働運動の進展にともなって、『資本論』が書かれたその背景にあったようなひどい搾取というのは次第に姿を消していきました(「第三世界」に移し替えられただけだ、という主張もあるかと思いますが)。となると、資本家を搾取階級として指定することを必然的に要求する「労働価値説」という虚構は、次第にそのアクチュアリティーを喪失していきます。にもかかわらず「労働価値説」の虚構性、行為遂行性に気付かずにそれを真に受けた困った人たちが、旧態依然と資本家打倒、さらには資本家と結託した国家打倒とむやみやたらに吹き上がりつづける、という事態が到来することになります。とすると、それを見た人たちが、そういった困った吹き上がりの人たちとマルクスの議論とを同一視し、たとえば「労働価値説」を同じく真に受けて、『資本論』を事実から乖離した空想の書、として受け取ってしまう、ということが起こってしまうわけです。というか、かくいう自分が最初はそうでした。これは、『資本論』にとってもわたしたちにとっても同様に不幸な事態である、と言わざるを得ません。

と、そこで登場するのが稲葉振一郎氏の『「資本」論』であるわけです。この本を要約するならば、マルクスの議論を「労働価値説」の発明としてではなく、「労働」と「労働力」の区別の発明として捉えなおし、それを現代の労働者の権利主張のための地盤として取り出す、というものです。そしてその際、所有制の廃絶、というマルクスの主張は端的に退けて、「労働力」を労働者の所有物として認定する、というアクロバットを繰り出します。このアクロバットによって、資本主義打倒とか国家打倒というスローガンも同時に捨て去られることになります。この稲葉氏の見取り図は、現代において『資本論』を読むにはまさにこのような方向性である必要があるだろう、といえるものだと僕は思いました。チャート式にするとつぎのようになります。
1、『資本論』を経済的事実の分析的確認だけではなく、同時に権利主張の地盤としての理念の発明の書としても読む。
2、その理念の発明という身ぶりのなかで、現代においてはどこにアクチュアリティーがあるかを見抜く。
3、そしてそのアクチュアリティーを、具体的な権利主張へと結びつけていく。

個人的には、稲葉氏が人工物、あるいは人工物によって形成される環境、さらにはその環境との相互作用を通じて進化論的なアルゴリズムに則って展開される出来事のプロセス、という問題をどのように考えていくのか、という点に一番興味があってこの『「資本」論』を読んだのですが、それとは別の部分が非常に面白かったのでその部分についてだけ書きました。人工物や環境についての議論もそこかしこで見られるのですが、それらについては正面からは扱われていませんでした。これからはその辺の議論を追っていこうと考えています。もし、「それならこれを読んだ方がいい」というのがあればご教示願えれば嬉しいです。

なお、デリダの"Mal d'archive"についてですが、これについて書くと長くなりそうなのでなかなか時間が取れていません。万が一待っている人がいたとしたら、もうしばらくご容赦を。