鐘の音と魂の耕作

ひょんなことから「往く年来る年」という番組を見ることになりました。低く伸びやかな鐘の音、遠くで響くように呻かれるお経、そしてその画面を見つめる人びとの、どことなくうきうきとして、それでいながらなにか敬虔なところのある雰囲気を感じながら、いろいろと思いました。最初に思ったのは本当に身も蓋もないことでした。毎年毎年おなじことをして、飽きないんだなあ、と。そして、どうして飽きないのかを考えはじめました。

なぜ、飽きることなく同じことを反復するのか。しかし、おそらくこの問いの設定は間違えています。むしろ本当に問うべきなのはこういうことです。反復することでしか生まれない何がそこにあるのか。そう考えながら僕は、ベルナール・スティグレールが『象徴の貧困』の二巻で書いていた次の言葉を思い出していました。

日曜日ごとに信者たちは、教会や礼拝堂において、つまり彼らの礼拝の場所において、絵画やステンドグラスやタピストリーや彫像やアラベスクやそれらの眺望や絡み合いや混雑やに出会い、また再会する。彼らは詩編を歌いながらそれらを眺め、また彼らの目や体を導く説教を?そこではこの目は、彼らの手や石の冷たさや心の熱さを感じる?聴きながらそれらを眺める。そのように耳を傾け、歌いながら応答することで、彼らは自分たちの見ているものを見つめre-gardent、そして再び見つめるre-regardent。このまなざしregardのなかには、それに思いを巡らせるmediterようにと文化が誘いかけるあるまなざしの失敗megardeが存在し、それについての沈思meditationがある文化、観照することへと化すものとしてのまなざすことの文化なのである 。

ここでいわれているような「まなざし」は、けっして一回限りのものであるということはありません。フランス語のregarder「まなざす」には、「心を向ける」というような意味もあります。スティグレールによって描き出されているこの信者たちが心を向けているもの、それは、実際にはそこにはない何かです。絵画やステンドグラスや彫像、教会のたたずまいやあるいは神父の荘重な声調、それらにはおそらくどこか囁きかけてくるようなところがるのだと思いますが、にもかかわらずそれらはあくまでも遠いもののままに留まる。というのもそれらすべての断片は例外なく神の栄光へと差し向けられているものでありながら、それらの断片それ自体は神の栄光ではないからです。信者が心を向けているのは神の栄光の断片であり、そしてその断片に刻み込まれているある欠如です。そこには神が欠如している。だからそこでのまなざしは、つねにまなざしの失敗でしかありえない。しかしもし神がそもそも欠如しているものとしてしか見出されえないものだとするならば、その欠如の発見は同時に神の発見でもあります。

欠如を通しての神の発見、これはつまるところ祈りの経験であるということだと思います。重要なのは、祈りははじめから神に捧げられるものではない、ということです。パスカルはこう言っています。「神を信じているから祈るのではな。祈っているうちにいつの間にか信じるようになるのだ。」あの信者たちもまたそうなのではないでしょうか。そこでは礼拝における祈りの反復、まなざしの反復が積み重ねられていき、そのうちに、そこには「何かがない」という欠如が次第に見出されていく。そこにすこしずつ神の存在というものが感じられはじめていく。そしてこのことは、なにもキリスト教的な「神」といったものを引き合いに出すまでもなく、じつはいろんなところにありふれている事態であったりします。たとえば大晦日の鐘の音。

そこにはなにか遠さがある。あの鐘の音には、たんにそこで鳴っているだけのものではなく、どこか「他なる場所」へと目配せをしているようなところがある。それを伝統と呼ばれるのかどうかはさしあたりどうでもいい。その、《いまここ》を束の間切断して遠さを呼び込むその瞬間に、際限のない反復を可能とするものがある、という気がします。そして、その遠さそのものが、じつは世代を超えた反復を通して作り上げられてきたものであるのです。子供は知らぬ間に伝統へと向けられた祈りを反復させられ、そのうちにあの遠さが体に染みついてくる。そうすると今度は自分自身が遠さに呼び寄せられて反復を積み重ねていき、そのことによってさらなる遠さを全身に刻み込んでいく。そして子供が生まれるとかつて自分が通った道、つまり祈りの反復を教え込む。こうして伝統というものが受け継がれていく。

スティグレールはこの事態を説明するに際して欠如defaultという言葉を使います。信者たちは礼拝の場所に欠如を見出し、そこに反復する祈りを捧げる。あるいは芸術作品の例も挙げられます。たんに消費されてしまうわけではない芸術作品の場合には、その受け手は作品の中にある遠さの感覚としての欠如を見出す。それゆえ繰り返しその作品に立ち戻っていくことになる。作品に捧げられたその祈りの過程において、作品はまったくすり減っていくことがない。というよりも逆に、その反復を通して作品はなおいっそうその遠さを積み重ねていく。このとき、神や伝統や芸術作品を、ある欠如の埋め合わせとして理解することは正しくありません。というのもそれらが重ね合わさっていくところの欠如というのは、あの祈りを通して、埋め合わされるというよりもむしろ、時間をかけて次第に耕されていくものであるからです。文化cultureという言葉が、もともとは「耕す」という言葉から派生しているということがここでは思い返されます。

信仰も伝統も芸術も、最初から自明のものとしてそこにあるのではなく、パスカルが述べたようにそれらは反復される祈りのまっただなかにおいてまさに耕されていくものなのでしょう。そして大地が耕されていくように、それらもまた祈りの反復を通して着実に豊かになっていき、そして子孫へと受け渡されていく。ただしそこで耕されているものは、大地ではなく「魂」です。とすると実は「魂」もまた受け渡され相続されていくものであるということになります。とはいってもその相続は、いわゆる遺言相続のように仰々しいものではなく、日常のあらゆる場面で少しずつ譲り渡されていくものであり、たとえば大晦日の鐘の音は、そのささやかなハイライトというものでしかないのでしょう。スティグレールノートルダム大聖堂への祈りを通して相続されていくものについて次のように述べています。

この礼拝、この実践、それは反復の実践であり、それぞれの日課、それぞれの週、それぞれの年、それぞれの世紀にわたってさまざまな旋律が謳い上げてきたもろもろのイメージの回帰の実践(それが体系的に反復されているだけにいっそう、自然化され、気付かれず、忘却されている実践)である。

現代人は往々にしてこうした魂の「耕作」を忘れがちであり、ご多分に漏れず自分もそうであるわけです。そして、自分はどこにおいて欠如を耕しているのだろうか、と自問します。いま、遠くから太鼓を打ち鳴らす音が聞こえます。これまで正月に自分の家にいたことはなかったのでそれははじめて聞くものですが、にもかかわらずそこに不思議と懐かしいものを感じないわけではありません。それはおそらく、僕の中にもある耕されてきたものへの信頼というものがいつのまにか埋め込まれていて、それがあの太鼓の音によって呼びおこされているからなのだと思います。そこに、ある遠さをともなった親密さというものが生まれている気がします。

さて、ならば初詣に行ってこい、というところなのですが、現代にすっかりと毒された僕にはそれがどうにも面倒くさい。というか、そもそも物心ついた頃から外出することは嫌いだったのでした。そこで、何か別の物を耕そうと思い立ち、安易に足を運んだのが24時間営業のレンタルビデオ屋。そしてしばらく物色したすてに、僕の魂の耕作地を選んでみました。黒澤明監督の『生きものの記録』。いまからエンヤコラと耕してみます。