ハムレットの饒舌

デリダの『マルクスの亡霊』の英訳を読んでいて気付きました。

シェイクスピアの『ハムレット』の有名なセリフに、"To be, or not to be : that is the question”というのがあります。「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」とか「あるべきかあらざるべきか、それが問題だ」とか翻訳もいろいろあるようですが、それがいったいなにを意味しているのか、というのはなんだかよくわかりません。が、デリダの議論に依拠すれば新しい解釈ができます。

"to be, or not to be"というのは直訳すれば「あること、あるいはないこと」という身も蓋もない日本語になります。たしか「ある、ない、それが問題だ」っていう翻訳もあった気がします。とにかく、言葉そのものはどのみち身も蓋もないのですが、そこにどうしても実存的な色合いを読みとろうとするから、「べき」という要素が訳語に入ってくるのでしょう。

ハムレット』の話を身も蓋もなく要約してしまうと、妻とその愛人(ハムレットの叔父)によって毒殺されたハムレットの父である前王の亡霊がハムレットに復讐を求め、苦悩と逡巡の末にハムレットがその復讐を遂げる、というもの。そしてその苦悩と逡巡の時期につぶやかれるのが、件の"to be, or not to be"であるというわけです。

さて、ポイントは亡霊です。"to be, or not to be"という表現と亡霊とは奇妙な関係にあります。たとえばこんな場面を想像してみればいいでしょう。父の亡霊に出会ったハムレットがこのようにつぶやく。"to be, or not to be : that is the question".つまり、目の前に現われた父は「存在しているのだろうか、存在していないのだろうか。それが問題だ」ということになります。

これは確かに難問です。父はすでに死んでいるのだから、存在しているとは言えないだろう。しかしたんに存在していないのかと言えばそうも言い切れない。その姿は紛れもなく目の前に現われているのです。亡霊とは、存在しているとも存在していないとも言い切ることのできない、いわば不確定の存在なのです。

この不確定性は、一つの時間性をもっています。亡霊は過去から到来するものです。亡霊を生みだすのは過去の怨念であり、その怨念をもたらした出来事は「すでに」死という取り返しのつかない形で完了してしまっています。しかしながらその亡霊は未来への呼びかけを伴っています。ハムレットの父の亡霊は、「いまだ」果たされていない復讐という未来の行為をハムレットに呼び掛けているわけです。とすれば亡霊は、「すでに」と「いまだ」が奇妙に組み合わさった時間に位置していることになります。父王から暗殺という事実を聞かされたハムレットはこのように叫んだのでした。"The time is out of joint!(時の関節が外れている!)"

亡霊がそこに位置している奇妙な時間、それは、ハムレットの苦悩の時間でもあります。ハムレットは父の暗殺という「すでに」なされてしまった出来事が呼び掛ける復讐の声と、「いまだ」果たされていない復讐という未来の行為との間で苦悩しているわけです。その有名なハムレットの苦悩と逡巡は、しかしながら亡霊とはことなる場を持っています。それは、言葉と行為とのはざまという場です。

苦悩と逡巡のなか、なにか答えを見つけようと本を読むハムレット。それをみて「何を読んでいるのか」と尋ねる大臣ポローニアスに対してハムレットは答える。

"Words, words, words"

ハムレットは書物のなかに言葉を読みながら、同時に言葉に対して歯噛みをしている。そこには亡霊的な時間、過去と未来との奇妙なはざまにある時間、そしてその時間が呼び掛けるある行為の飛躍への答えはなにもない。というのも、言葉が扱う時間と亡霊が位置している時間は根本から異なっているからです。言葉の時間が参照するのはつねに「ある」とその変様として「ない」だけです。たしかに存在しているものを説明し指し示す、あるいは逆にそれを否定する、そのどちらかです。そこには亡霊の場所はないのです。そのことにハムレットは気付かざるを得なかった。

だから、ハムレットはつぶやくのです。

"To be, or not to be: that is the question"

つまり、そのどちらを選ぶべきかをハムレットは悩んでいたのはないのです。言葉に留まる限りそのどちらかしかなく、そこでは亡霊に対する応答、行為という飛躍は果たせないということが問題questionだったわけです。

よく知られている通り、ハムレットが飛躍をおこうなうのは、デンマークからイングランドへと向かう船の上においてでした。ヘルダーリンが中間休止と呼んだ、そのどこでもない場所の存在しない時間において、ハムレットは決断する。そしてハムレット謀殺の任を密かに帯びていたギルゲンスターンとローゼンクロイツを殺し、船を母国へと引き返させる。

ハムレットは、「生きるか死ぬか」あるいは「なすべきかなさざるべきか」という二つの言葉の間で逡巡しそのどちらを選ぶかを問題としていたのではなかった。そこでは言葉そのものが問題とされていたのです。そしてそう考えれば、『ハムレット』終幕の最後の言葉の意味も理解されるというものです。父王の復讐を果たし、さらには毒のついた剣によってみずからも致命的な傷を負ったハムレットハムレット以外の人物はもうみな死んでしまった。そこで一人死を迎えつつあるハムレットは、薄れゆく意識のなかで最後にこうつぶやいたのでした。

"The rest is silence"
「あとは沈黙」