ユダと理性の狡知

なんだか背筋がゾクゾクします。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060407i301.htm?from=main3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060407-00000301-yom-soci
このニュースによると、ユダはキリストを裏切っていなかったらしい。
「イエスは、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。」
つまり、ユダはキリストを裏切ったわけではなく、むしろキリストを現世の肉体から解放して高めるためにキリスト自身に頼まれてキリストを官憲に売り渡したのだということです。キリストはユダをもっとも信頼し、そしてユダはその信頼に応えた。そのユダの行為がいかに崇高なものだったかということは、そのあと2000年にも渡って卑怯な裏切り者という汚名を着せられ続けたことからもわかります。キリストのために、キリストの裏切り者という最悪のレッテルを引き受けたわけです。

これは、ほとんどパロディーです。それもかなりトチ狂ったパロディーです。現実は小説より奇なり、という決まり文句があります。このニュースは、一見するとこの決まり文句を凡庸になぞっているかのように思えます。しかしこのトチ狂ったパロディーはそんな単純なものではないわけです。

この新事実が発覚する元となった文書が発見されたのは1970年代とのこと。しかしその26年前に、スペイン語で一冊の本が出版されました。著者はホルヘ・ルイス・ボルヘス、タイトルは『伝奇集』。有名な本なので知ってる人もたくさんいると思いますが、このなかに「ユダについての三つの解釈」という短編がはいっています。ずいぶん前に読んだので細かいことは覚えていないですが、書かれているのはこういうことです。

ユダは、もしかしたら裏切り者ではなかったのではないか。むしろもっとも敬虔なる者であり、イエス・キリストという存在を高めるために、あえて裏切り者という汚名を甘んじて受けてキリストを裏切ったのではないだろうか。そのユダの極限の敬虔な行為があって、キリストという形象は崇高なる存在となることができた。

これ、まさに今回のニュースで報じられていることじゃないでしょうか。まあキリストが自分で頼んだという要素はありませんが。オスカー・ワイルドの「人生は芸術を模倣する」ではありませんが、めぐりめぐって現実が小説をなぞっています。トチ狂っています。これだけでゾクゾクしますが、しかしこのパロディーはまだ終わりではない。

ボルヘスは、おそらくヘーゲルを読んでいたのでしょう。ヘーゲルの有名な概念に、「理性の狡知」というものがあります。簡単にいってしまえば、歴史のなかでひとりひとりは各自の思惑をもって動いているわけだけれども、あとから振り返ってみればそれらのふるまいのひとつひとつは、歴史という大きな理性にしたがっているかのように振る舞っている、というものです。これに関して、キリストに対するユダの裏切りについても述べられていたはずです。

いわく、ユダは自分の思惑でキリストを裏切ったけれど、そこには「理性の狡知」というものがはたらいて、ユダの裏切りはまさにキリストを崇高な存在にするための行為として機能した。歴史がみずからを実現するためにユダの卑小な思惑を利用したのだ、と。

ボルヘスは例の小説のアイデアをここからもってきたのだと思います。が、いずれにせよ、ここにもあのニュースの先取りがはっきりと現れています。これは19世紀のはじめの頃です。これはいったいどんなパロディーなんでしょう?「理性の狡知」っていう発想自体が個々の行為を一種のパロディーとしてしまうものですし、ボルヘスの小説だってきわめて高度なパロディーだといえるし、んでもってその遅ればせのパロディーである現実の発見とやらが、かれこれ2000年近くにわたっておそらく数百億人の胸に薄暗い感情を刻み込んできたユダという形象にまつわると来たわけです。

ここって、爆笑するところなんでしょうか?

※追記
こちらでもうちょっと細かい話と、これに関連した記事の発表予定がわかります。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_1.shtml