電王戦第一戦感想―「強さ」とは何か

昨晩の電王戦第一戦、菅井五段vs習甦の対局結果は衝撃的でした。

習甦はコンピュータ同士での予選では第五位、優勝したponanzaとはかなりの差があったというのは大方の共通認識だったと思います。また今回のレギュレーションでは、出場ソフトは大会時点で開発を止め、プログラムを対戦棋士に提供すると定められています。つまり棋士は、十分に対局相手の研究を積んだ上で本番に臨むことが出来るわけです。さらに今回は対局時に使用されるハードも固定されており、クラスタの暴力も発動できないようになっており、総じて、前回に比べてかなり棋士に有利な条件になっています。菅井五段は若手とはいえ、誰もが認める実力者であり、今回の出場ソフトの5位である習甦とでは、圧倒的に菅井五段が有利だろうというのが下馬評でした。ところが・・・。

対局結果は既報の通り習甦の勝利だったわけですが、問題はその内容です。僕の棋力ではもちろん細かいところはわかりませんが、習甦が横綱相撲とでも言える差し回して菅井五段を圧倒した、というのは衆目一致するところだと思います。ほとんど手合い違いと言えるほどの力の差を感じてしまった人も多かったのではないでしょうか。個人的には、トップのプロ棋士がどう頑張ってもコンピュータに手も足も出なくなる、という未来がもうそこまで来ていることを、深い絶望とともに実感しました。と同時に、将棋の「強さ」とはいったいなんなのか、という根本のところに思いを致さざるをえませんでした。それは同時に、プロの将棋の魅力とはいったい何なのか、という問いともつながるものです。

単純な「強さ」、つまり将棋に勝つか負けるかという「強さ」でいえば、コンピュータが人間を凌駕する日も遠くないでしょう。そのとき、プロ将棋の魅力は消えてしまうのか。もし単純な「強さ」だけがプロ将棋の魅力の指標であるとするならば、コンピュータに完全敗北したとき、プロ将棋の魅力もまた消滅してしまうでしょう。しかし僕は、たとえ「強さ」という点でコンピュータに凌駕されたとしても、プロ棋士の魅力がその時点で消えてしまうわけではない、と確信しています。それはなぜなのか。昨晩の対局の最期の場面、すでに結果は見えており、あとはどのタイミングで投了の言葉を発するのかだけを誰もが見守っている場面で、将棋の内容をゆっくり反芻するように、苦悩の表情を浮かべ何回もお茶に口をつける菅井五段の姿を見つめながら、プロ将棋の魅力とはなんなのかを僕は考えつづけていました。

そのとき僕がふと思い出したのは、三浦弘行九段でした。かつて、将棋と時間―将棋に見る有限性の考察という記事の中で、名人戦での三浦九段を題材として、将棋における時間と有限性の問題について書いたことがありました。そこでは、有限な時間のなかでの「不安」との戦いを通してそれぞれの一手を紡いでいく姿のなかに、棋士という存在の魅力を見て取ったのでした。奇しくも、前回の電王戦の最終局では、この三浦九段がGPSに苦杯をなめました。実はそのときすでに、棋士が対局の際に向かい合う「不安」という問題を、コンピュータの将棋との対比においてぼんやりと考えていたのですが、そのことを不意に思い出したのでした。

一つ一つの手を、将棋というゲームを進展されるたんなる出力として捉えるのならば、その出力者が人間であるかコンピュータであるかはどうでもいいことです。そこで問われるのは、それぞれの一手についての評価値だけであり、優れた評価値を得ることのできる出力者に優位が与えられる、ただそれだけのことです。しかし、人間とコンピュータは、それぞれまったく異なるプロセスを経て一つの手を導き出し、そしてこの差異は、将棋を観る別の人間にとって大きな意味を持っています。

人間は、将棋に限らず、強くなるということがとても難しいことであるということを知っています。そして強くなるということは、すなわち弱さを克服することであり、しかも弱さをたんに葬り去ってしまうのではなく、弱さとうまくつきあっていくことであることも知っています。つまり、強さとは弱さを持たないことではなく、弱さとうまく折り合いをつけながら、そのつどその弱さを克服していく絶えざるプロセスであるわけです。将棋というゲームは、とりわけその時間制限によって、「強くなる」ということに伴うこの普遍的なプロセスを、いわば拡大して見せてしまうという点で、きわめて残酷です。一局の将棋に勝つためには、集中力を持続させ、苦しくなっても踏みとどまり、勝負所で踏み込み、最後の時間が切迫したなかで正しい一手を発見しなければなりません。そのどこかで弱さに負けてしまえば、将棋にも負けてしまいます。プロ棋士の将棋はしばしば、最後まで弱さに負けなかった者こそが一番強いのだ、ということを教えてくれるように思えます。

将棋を観るぼくたち人間は、プロ棋士の「強さ」が、たんに優秀な出力=一手を導き出す強さなのではなく、その一手を導き出すために、数え切れない「弱さ」を克服してきたことの「強さ」であることを知っています。つまりぼくたち人間は、「強さ」をそれそのものとしてだけで観るのではなく、その「強さ」を獲得するために踏破された「弱さ」の踏破距離として計っているのだと思います。だからこそ、時間のない切迫したなかで、苦悶の表情を浮かべながら指された素晴らしい一手に、ぼくらの心は震えるのです。その一手を導き出すために克服された「弱さ」の総量を直感的に感得して、自己を極限にまで高める人間の偉大さに敬意を払い、素直に頭を垂れるのです。

そしてまたぼくたち人間は、敗者の姿にもまた、「弱さ」との苦闘の跡をしっかりと読み取って突き動かされるのです。習蘇への敗北という現実を前にして、その事実をかみしめるように受け入れようとしてしていく菅井五段の姿に、ぼくたちははっきりと「強さ」を感じ取ります。あの地点にたどり着くまでに、どれほどの「弱さ」を乗り越えてきたのか、にもかかわらず届かなかったという現実に、どのような思いで向き合おうとしているのか、敗北を受け入れた上でどのように次の一歩を歩み出そうとしているのか、そういったすべてが、まるでテレパシーのように伝わってくるのです。もちろんそれらの感慨は、観る人間側にもとから備わっている経験値のストックが、菅井五段の姿をいわばスクリーンとして鮮やかに映し出されたものであるでしょう。だからおそらく幼い子供とさまざまな苦悩を経験してきた大人とでは、そのスクリーンのうちに見いだすものはまったく異なるでしょう。しかしそれでいいのです。プロ棋士という戦う存在は、それぞれの人々が日々のなかで展開している戦いとそのプロセスとを、いわば偉大化してくれるのです。そして重要なのは、その偉大化の作用は、コンピュータではなく人間にしか果たせない、ということです。なぜならコンピュータの強さは、人間的な「弱さ」の克服というプロセスを経ずに獲得されているものであり、それゆえその強さはそれを観る人間のスクリーンとはなり得ないからです。

電王戦の第一局は、逆説的ではありますが、人間が敗北することによって、そもそも人間の「強さ」とは何なのかということを振り返らせてくれました。そして僕の心は、投了をつげる直前の苦悶する菅井五段の姿に、いまだ打ち震えています。敗北してしまった菅井五段にこのように言うのはおかしいけれど、本当に素晴らしいものを見せてもらったと感謝しています。そして、人間の将棋というものの魅力をさらに深く感じることが出来ました。このあとの電王戦の結果については、正直に言って、人間の立場からすると悲観的にならざるをえないという気がしますが、それでも素晴らしい「何か」を観ることができるはずだという一点においては、きわめて楽観的に構えています。

ももいろクローバーZ『5th Dimension』の反時代性

ずいぶん久しぶりの更新で、なぜか4月10日に発売されたももいろクローバーZのニューアルバム『5th Dimension』ついて書くことになりました。なにとぞご容赦ください。

前段:音楽コンテンツの売れない時代

 この記事では、ももクロのニューアルバム『5th Dimension』の反時代性というものについて論じるわけですが、そもそも反時代性とは何かということから語り起こす必要があるでしょう。ここで「反時代的」という言葉で念頭に置いているのは、フリードリヒ・ニーチェの『反時代的考察』です。そこで「反時代的」ということで言われているのは、(たぶん)たんに時流に逆らうということ以上の、たとえば自衛隊が戦国時代にタイムスリップしてしまうような、通常の時間の流れの論理を逸脱する時間性です。「反時代性」とは、それゆえ本当は「新しい」も「古い」もなく、脈絡のない「闖入」とでも呼ぶべき時間の論理を意味するのです(たぶん)。

 とはいえ、ももクロの反時代的アルバムがどのような時代に闖入してきたのかというその時代背景を抑えておくと、その闖入の破壊度の深さを測りやすくなるでしょう。ということで、『5th Dimension』に強烈な闖入をかまされた現代という時代について簡単に振り返ってみます。

 いまさら数字を出すまでもなく、昨今の音楽産業は猛烈な冬の時代を迎えています。諸悪の根源はデジタル技術とインターネッツ。そう、音楽コンテンツの音源が、Youtubeをはじめとした、合法非合法を問わずあらゆるルートで出回るようになったのです。自分自身、高校時代は月のバイト代の半分以上をCD等の音楽コンテンツに費やしてきましたが、気付くとCDを買うという習慣はまるっきり消え去っていました。もちろん年を取ったというのもありますが、それ以上、なにか聴きたいものがあったとしても、わざわざ買わなくともネット上で見つかる、もし見つからなければ見つかるものを聴けばいい、という感覚が普通になっていったということが大きいように思います。音楽コンテンツを聴くのにお金を払う必然性を感じなくなった、この感覚は、それなりに一般的なのではないかと思います。

 クリス・アンダーソンが『フリー』のなかで、「情報はフリーになりたがる」と述べていましたが、この原理は音楽コンテンツにも当てはまるようです。CDとしてパッケージ化された音楽情報は、すぐさまデジタルデータと取り出してオンライン上に挙げられ加速度的に出回っていく。その結果として、オンライン上には無料の音楽があふれかえっていくことになります。デジタル的な複製技術の時代において、音楽コンテンツが長期的には無料化へと向かっていくことはおそらく時代の趨勢なのでしょう。ということで、音楽コンテンツをパッケージ化して販売することを飯の種にしてきた音楽産業は、なにか別のビジネスモデルを模索しなければならなくなったわけです。

体験の消費化1―AKB王国の誕生

 音楽コンテンツがデジタルな複製技術によっていやおうなく無料化されていってしまう事態に対して、音楽産業はどのように対抗しうるのか。当然頭の固い人間は、複製行為そのものを法的に取り締まることで、従来のビジネスモデルを救おうと考えるわけですが、そんなことうまくいくはずがありません。いくら法的規制をかけたところで、大規模なものは別として、個人個人の範囲で行う複製行為をすべて取り締まることは不可能です。ではどうしればいいのか。答えは簡単です。デジタル技術が複製できないものを商品にすればいいのです。複製が不可能なもの、それはつまり、体験です。

 複製可能な音楽コンテンツが売れないのならば、体験を売るしかない、この当たり前といえば当たり前の結論を音楽産業でもっとも大規模に展開したのは、いうまでもなく秋元康AKB48です。自前の劇場を作り、握手会を方法論化することで、AKB48は体験を商品化しました。何月何日のある時間に劇場で公演をみるという体験や、推しメンの誰かと握手をしたという経験は、絶対に複製不可能なのです。秋元康はその複製不可能な体験を商品化することによって、デジタル時代の音楽産業(あるいはエンターテイメント産業)の一つの回答としたわけです。

 握手券を付けてCDを大量に販売する手法は、AKB商法やドーピングなどと言われ批判を受けていますが、それらの批判は部分的には筋違いと言えるでしょう。複製可能な音楽コンテンツそのものはもはや商品とはなりにくい、ということは周知の事実です。CDを買う人の大部分がお金を払っているのは、音源そのものに対してではなく、ジャケットや歌詞カードを含むモノとしてのCDや、さまざまな特典や、あるいは特定の日付にCDが発売されるというそのイベント性に参加するためでしょう。もちろんオンラインのダウンロードという形で音源そのものを購入するというケースも増えていますが、しかしいくらでも複製可能なものそのものを商品とするのは、ビジネスモデルとしては脆弱であるような気がします。

 音楽コンテンツの音源そのものは商業的価値を失いつつあります。そのことは誰もが気付いているわけですが、AKBのビジネスモデルは、その事実がはらむ帰結を極限にまで展開している、という点で前衛的です。ビジネスモデルとしてのAKBは、そもそも音楽コンテンツを商品としているのではなく体験を商品としているのであり、その体験を売るためのチケットとして、CDという音楽コンテンツのパッケージを利用しているだけです。これはきわめて賢明な戦略と言えるでしょう。音楽産業が作り上げてきた既存の流通システムと、さらにはオリコンチャートなどの話題生成システムも同時に利用することができる。そしてもちろん音楽という素材そのものが、体験を売るための乗りもとしてきわめて有効であるのだと思います。AKBは、音楽コンテンツを売るために握手券というドーピングをしているわけではなく、AKBが生み出す体験を売るための販売経路として、既存のシステムをハックしているだけなのです。当然、音楽コンテンツを売るというロジックと、体験を売るというロジックが一つのヒットチャートのなかで混ざり合ってしまうので、そこに強い軋轢が生まれるのは必然的にですが、まあ時代の変わり目なんだってことです。

体験の商品化2――ももいろクローバーのゲリラ戦

 さて、ようやくももいろクローバーZの話に入ることができます。AKBのシステムは、デジタルな複製時代に複製不可能な体験を商品とすることで大躍進し、一大アイドル王国を築き上げました。それを推し進めた秋元康の着眼点と手腕は天才的だといわざるを得ないでしょう。しかしそのAKB王国が盤石の体制を築き上げているその傍らで、もう一つのアイドルグループが活動を開始しました。2008年に産声を上げたももいろクローバーです。僕の理解では、ももいろクローバー、そして改名後のももいろクローバーZは、AKBとは別のアプローチで、デジタルな複製時代におけるエンターテイメント産業からの回答を提示しています。詳しく説明していきましょう。

 ところでこの記事では、ももクロの魅力そのものにはまったく触れることはしません。ここで扱われるのは、ももクロが躍進することを可能とした環境条件だけです。ただしその環境条件を説明していく中で、ももクロがどのような点でその環境条件にうまく適応することができたのか、という点については言及することになるでしょう。

 ももクロもまた、AKBとは別の方法論を用いて、デジタル技術では複製できない体験を商品としました。その中心となるのは、LIVEパフォーマンスです。もちろん多くの音楽のアーティストはLIVEパフォーマンスを売りとしているわけで、ももクロだけが特別なわけではありません。では、ももクロのケースは、ほかの多くのアーティストのケースとどのように違うのか。メディア的環境条件、およびそれにうまく適応した三つの要素という観点からその点を考察していく。

環境条件:動画サイトのアーカイブ

 かつては、あるグループ(ソロでも)が広い認知を集めるためにはマスメディアに経由するしかありませんでした。しかし現在ではネットを介して、原理的にはネットに接続できるすべての人に認知してもらえる可能性があります。さらには動画サイトにPVやライブパフォーマンスの動画が挙げられていることによって、ちょっと興味を持った人がいくらでもハマっていくことのできる素材が用意されています。ももクロの躍進(驚異的な新規ファン獲得の速度)が、こういった技術的環境によって可能となったということは、誰しもが認めるところだと思います。もちろんこの環境は誰でもが利用できるものであり、なぜももクロだけがここまで躍進したのか、という説明にはなりません。

適応要素1:ライブパフォーマンス

 インターネットを介した認知獲得という回路が生まれたことで、ライブパフォーマンスというものの価値が大きく変わりました。とくにももクロの躍進は、ある種のライブパフォーマンスの映像がもつ驚異的な感染力を証明した、と言えると思います。かつては、「ライブがすごい」と言われても、そのライブをすぐに見ることはできず、それゆえ感染力には限界がありました。しかし現在では多くの動画がネットに転がっているので、「ライブがすごい」という口コミが、即座に「ほんとうだすごい」という感染につながるわけです。ライブ映像というのは、感染力は高いが寿命の短いウイルスみたいなものです。人口密度が低ければ感染者がほかの誰かに出会うまでにウィルスが死んでしまうが、人口密度が高いと次々に感染が連鎖してパンデミックが起こる。現在のメディア環境は、一定以上の感染力の高いライブパフォーマンスを、動画サイトを介して大流行させることができる、というわけです。とはいってもこの事実は、凄いライブパフォーマンスをするグループは一気に認知が広がる、という環境条件を説明しているにすぎず、魅力的なライブパフォーマンスを行うグループが数えきれないほどあるなかで、なぜももクロのライブパフォーマンスだけがなぜこれほどの感染力を持ったのか、という説明にはなっていません。

適応要素2:成長する少女の物語性

 結果的にももクロが見せた驚異的な感染力は、おそらく「アイドル」というジャンルと切り離すことができません。ライムスターの宇多丸の定義によれば、アイドルとは「魅力が実力を凌駕している存在」(うろ覚え)です。つまりそこには魅力と実力の隔たりというものがあって、そこに存在する実力の不足をファンが応援によって埋め合わせる、という関係を作り出すのがアイドルだというわけです。そしておそらくアイドルのリアリティー・テレビ化が始まったモーニング娘。の時代から、アイドルの本質である(らしい)魅力と実力の隔たりは、アイドルの成長物語という性格を持つことになったのだと思われます。アイドルのまだまだ未熟な部分を積極的にファンに見せていくことによって、そのアイドルが成長していく様をファンたちが共有する、というアイドル消費の形式が確立されたわけです。モーニング娘。がテレビというメディアでやったことを、AKBはインターネットと劇場を使って再び大成功させました。なにやら、「必死に頑張る少女の成長」というものにはある種普遍的な魔力があるようです。おそらくこの普遍的な魔力が、アイドルという存在がもつ不思議な感染力の源なのでしょう。

 さて、ももクロです。ももクロが大躍進するきっかけとなったのは、2011年4月の早見あかり脱退からZ改名に至る一連の出来事でしょう。この時期に、「必死に頑張る少女の成長」の物語は、まったく新しい強度を持つことになりました。もちろんそこには、紅白出場というわかりやすい目標も用意されていました。そしてさまざまな動画サイトを通して、新たにももクロに興味を持った人が関連動画に出会いこの物語にどハマりしていく。ベルトコンベアー式のモノノフ生産工場です。ここではその物語の魅力について主観的に語ることはしませんが、結果としてももクロの物語が発揮した感染力から逆算すると、エボラ出血熱なみに強力な物語ウィルスが生成されたのだと推測されます。もちろんこの大きな物語だけではなく、ライブパフォーマンスそのものにひそんでいる小さな物語も存在します。まだ未熟ながらも必死に歌って踊る姿には、やはり「必死に頑張る少女の成長」物語がミクロにひそんでいます。そしておそらくこのミクロの物語もまた、ペスト並みの感染力を持っていたのでしょう。

適応要素3:ネットを介して垣間見える素顔

 「アイドル」という言葉はもともと「偶像」という意味であり、だとすれば「アイドルの素顔」というのは語義矛盾だったりするわけです。しかし現代のメディア環境は、アイドルの素顔というものをファンにひたすらにさらしていきます。それゆえおそらく、現代ほどアイドルの「人柄」や「人間性」というものが重要になっている時代もないでしょう。テレビしかなかった時代であれば隠せていただろうものも、現代ではダダ漏れになってしまうのです。それゆえ現代では、アイドルの人間性が、そのアイドルがもつ感染力の大きな源にならざるをえません。そしておそらくももクロの場合、ライブパフォーマンスや脱退&紅白の物語に加え、メンバーの人間性という点でも驚異的な感染力を持ったのでしょう。ただし言ううまでもなく、さまざまな経路を通して漏れてくるメンバーの人間性は、ライブパフォーマンスの魅力やグループをめぐる物語の吸引力と不可分に結びついています。メンバーの人間性を知っていれば、ライブパフォーマンスの魅力は深まりますし、また真に感動的な物語の素材となるのは、メンバーの人間性以外の何物でもないわけです。「ねぇあかりん?」*1という物語内のセリフの意味は、それを裏付ける人間性によってまったく変わってくるわけです。

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 まとめると、ももクロは、動画メディアが整備されている環境のなかで、1)ライブパフォーマンス、2)成長物語、3)人間性という三つの要素で驚異的な感染力を発揮することによって、AKBに迫るほどの社会的認知を獲得した、ということです。そして、AKBがメンバーとの接触という複製不可能な体験を商品とするように、ももクロ人間性と物語性とによってさらに磨き上げられたライブパフォーマンスという複製不可能な体験を商品としているわけです。どちらの戦略においても、前提には音楽コンテンツそのものは商品にならないという認識があります。たとえばももクロの場合、極端な話CDを出さずに曲は全部PVとして無料でネット上に挙げ、それらは商品ではなくライブに来てもらうための導線とする、というスタイルを取ることだってできるわけです。実際ももクロファンには、シングルはほとんど買わず動画サイトで聴き、しかしライブには全力で参戦という層も一定程度いると思われます。とにかく、音楽コンテンツが商品にならない時代に、それぞれの手法で体験を商品にして成功しているのがAKBとももクロである、というのがおおまかな時代な趨勢であるわけです。

『5th Dimension」―異次元のコンセプトアルバム

 『5th Dimension』発売の一か月近く前、アルバムのタイトルを冠したツアーが開催されました。このツアーはファンの間で大きな議論を呼びました。議論の的となったのは、大きく次の三つの点。
1)二部構成の第一部が、まだ発売されていないアルバムの曲を曲順通りに全演奏
→知らない曲ばかりで、うりゃおい騒ごうとやってきたモノノフ完全置いてけぼり

2)五次元バンド使用でコンサート第一部はサイリウム完全禁止
→観客には中央制御で光る五次元バンドなるものが渡され、ももクロファン(モノノフ)の象徴ともいえるサイリウムが禁止され、モノノフやるせなす

3)仮面装着&MCなしの純粋パフォーマンスライブ
→コンサート一部の間は仮面装着でメンバーの顔が全く見えず、またわちゃちゃトークによるMCもなしでモノノフ萌えられず

とまあ、いつものライブを期待していたファンの一部は大荒れし、五次元という世界観や、また五次元の象徴となっていたドリアンマスクに批判殺到、ということがあったわけです。ツアー自体は少しずつ評価がよくなっていったようですが、しかしくすぶるものはしっかりくすぶったまま、アルバム発売日を迎える。

さあ、ようやく本題です。恥ずかしながら人生初のフラゲというやつで『5th Dimension』を聴いたのですが、腰を抜かしました。最初は、単純に内容が素晴らしすぎて腰を抜かしていたのです。既発のそれぞれきわめて特徴的なシングル曲が、不思議なことにアルバムのコンセプトにぴったりとはまるように配置されている。しかも、シングル曲以外のアルバム曲がどれも素晴らしく、バリエーションもぶっ飛んでいて、それでもやはり全体で一つのコンセプトを貫いている。見事すぎるコンセプトアルバムです。でも、そのうちに、このアルバムの異次元具合にしだいに気付いていきました。長々書いてきたように、時代の趨勢は音楽コンテンツではなく体験を売る、というもので、ももクロそのものがまさにその趨勢にハマりにハマって大量のモノノフを生産してきたわけです。しかしなんなんだ、このアルバムは。

『5th Dimension』というアルバムを聴き、そこで実現しているおそるべき完成度の曲の流れを知った時点から振り返るならば、一か月前のツアーで、モノノフを置いてきぼりにしてまでも「五次元」という世界観を貫徹したこともむべなるかなと大きくうなずける。うなずけるのだけど、時代の趨勢はどこにいった?時代の趨勢に完璧に乗っていたはずのアイドルグループから、なぜ、音楽コンテンツそのものの完成度を追求し、しかもそれを驚くべきレベルで実現してしまうということが生じうるのか。わけわからんちん。しかもご丁寧にとげとげドリアンマスクまでかぶって、アイドル的な「体験」の方向をゼロにするどころかマイナスに落としてまで、こんな時代を外れたコンセプトアルバムを作ってしまうって、何なの?斜め上どころか、まさしく五次元から飛び出してきたとしか言えない「反時代的」な産物です。時代に逆行するどころではなく、ハムレット風に言えば時間に関節技かけてマジ脱臼起こさせているレベル。

ポストAKBと呼ばれ、ビジネスモデル的にもAKBに並走する形で時代の趨勢にチューニングしていたももクロ。それがいきなり五次元カーブを切って視界から消えたと思うと、ドリアンマスクかぶって別の惑星で踊っている。凄すぎワロタ。むしろ泣いた。五次元までついていきます。本当にありがとうございました。

 

「大文字の他者」へのメッセンジャーとしての「マスコミ」

情報経路の多様化、などということはかなり前に言われていて、新聞やテレビといったいわゆる「マスコミ」の存在感はかつてに比べてばずっと小さくなっている、というのは疑いようのない事実だと思います。経営的に見ても、広告費の全体においてネット広告の占める割合が飛躍的に増しており、「マスコミ」と呼ばれているものがこれからは大なり小なり縮小していかなければならない、というのは間違いないでしょう。

そんな状況の中で、ここでは「マスコミはなくならない」という逆張りの主張を展開してみたいと思います。とはいっても現在あるような「マスコミ」の形がそのままでとどまりつづけるというのではなくて、「マスコミ的なもの」とはそもそも何なのか、ということを明確化し、その要素については絶対になくなることはない、と主張するだけの話です。なので、その「マスコミ的なもの」がなんらかの形で維持されつつも、現在「マスコミ」と呼ばれているものがまったく消え去ってしまう、という可能性だって原理的には排除しない議論にはなります。

現在「マスコミ」と呼ばれているものは、長い時間をかけて、物質的、組織的、社会的、経済的なさまざまな要素が絡み合い、さまざまな利害の調整のうえで成立しているものです。それは多数の要素や機能や利害関係者、関連法規などが織り成すコングロマリットのようなものだといえるかもしれません。ここではまず、そこから「マスコミ的なもの」を取り出し、その上で、その「マスコミ的なもの」が社会のなかで果たす不可欠な役割を考えてみると共に、それを巡ってこれからの社会のコミュニケーションがどのような配置になっていくのか、ついて簡単な考察を加えてみたいと思います。

                          ※

■ 「量的なマス」と「質的なマス」

「マスコミ」というのは言うまでもなく「マスコミュニケーション」の略で、その直接の意味は、「マスに組織されたコミュニケーション」であるでしょう。それでは、「コミュニケーションをマスに組織する」とは何を意味するのか。まずもっとも素朴な考え方として、ここでの「マス」を単に量的に理解することができます。命題にすると以下のようになります。

・命題1
マスコミュニケーション」は、コミュニケーションを量的にマスに、すなわち一定以上の規模をもってコミュニケーションを組織することを意味する。

「一定以上」というのがどのくらいを意味するのかははっきりとはわかりませんが、とにかく、特定のコミュニケーションがリーチする範囲をどんどんと広げていけば、どこかの時点でそれが「マス」に達する、という単純なイメージです。新聞やテレビに流れる情報は、数百万から数千万のオーダーの人々に共有されるわけでですが、これだけの「量」を組織することが「マス」なのだと。

量的な「マス」という観点から「マスコミュニケーション」を捉えるというのはごくごく一般的であると思いますし、またもちろん間違ってはいないのだと思うのですが、ここでは、「量的なマス」と区別される、「質的なマス」というものが存在するのだと主張します。

・命題2
マスコミュニケーション」は、コミュニケーションを質的にマスに、すなわち特定の性格を有するものとしてコミュニケーションを組織することを意味する。

ではコミュニケーションが「質的にマス」であるとはどのようなことを意味するのか。それについて説明するために、ここでは精神分析理論家ジャック・ラカンの「大文字の他者」という概念を援用したいと思います。


■ 「大文字の他者」――みんな知っていることをみんな知っている

情報の共有というものを「量的なマス」という観点から理解するならば、それは「みんな知っている」ということを意味します。しかし、ぼくがかつて適当に読み散らかしたジャック・ラカンスラヴォイ・ジジェクといった人たちの議論に則るならば、この「みんな知っていること」と「みんな知っていることをみんな知っていること」とは区別されます。この後者には、個人個人の知識に加えて、その知識を他者全般も共有しているという、他者の知識についての知識も存在しています。この他者というのは特定のだれかれという他者ではなく、社会のなかの他者全般、平たく言えば「世間」と呼ばれるようなものの事を指します。

たとえば電車内で、誰かが妙なことを大声でつぶやき始めるなどの奇行をはじめた場合、多くの人は「気まずい」と感じます。それはおそらく、その奇行が電車の中の「空気」を乱してしまうからです。しかし、もしその電車がガラガラでその奇行人と二人きりである場合には、危害を加えられるかもしれないという恐怖は覚えたり、読書の邪魔をされたという不快感を覚えたりはするかもしれませんが、「気まずい」という感覚は覚えません。そこには、電車内の「空気」を醸成する構成員がいないからです。

「気まずい」という感覚は、「空気」や「常識」に背く行為がなされる場に立ち会う際に感じられるものですが、しかし自分ひとりだけでその場に立ち会う際には「気まずさ」を覚えることはありません。「気まずさ」は、「空気」が乱されているのを「みんなも知っていることを自分が知る」際に生じるものだからです。別の例をあげると、誰かと一緒にいてまったく話題がないときにはしばしば「気まずい」と感じますが、これは、お互いに「気まずい」と思っていることをお互いに知っているときに生じるものです。だからごくごく親しい関係にあって、沈黙しているからといってお互いに「気まずさ」を覚えないということをお互いに知っている場合は、沈黙は「気まずさ」を生みません。ここには、「お互いに知っているということをお互いに知っている」という事態によって生み出される、「共同主観」の次元がはっきりと現れています。ラカンが「大文字の他者」と呼んだのは、「みんな知っていることをみんな知っている」というときの後者の「みんな」、誰とは名指しできない他者一般のことです。

たとえば電車の中で誰かの奇行と遭遇するとします。このとき、その車両の中にいるのが自分とその誰か二人だけである場合と、そこに他の多くの乗客も居合わせている場合とでは、そこでの体験の質は本質的に変わります。その奇行人と二人きりの場合、自分に危害が加えられるかもしれないという恐怖はもちろんあるかもしれませんが、そのような心配がない場合、単に無視するか興味深く眺めるかは人それぞれですが、あくまでも個人レベルで完結する反応が生じるだけです。しかしそこに他の人たちもいる場合には、まったく質の異なる経験、「きまずい」という経験が生じます。


■ 「大文字の他者」へのメッセンジャーとしての「マスコミ」

ここでの主張は、「マスコミ」の機能はたんに「みんな知っている」という量的なマスを生み出すだけでなく、「みんな知っていることをみんな知っている」という、質的なマスを生み出す機能も担っている、というものです。言い換えれば「マスコミ」は、単に個々人に情報を届けるだけではなく、「大文字の他者」に対して「みんなこのことを知っていますよ」とメッセージを届ける役割も担っているのです。

たとえば、「みんな知っているのにみんな知らないことになっている」という事態はそれほど珍しいことではありません。卑近な例ですが、特定の人のカツラ問題などはまさにそうでしょう。このとき、現実の個々人はみなその人のカツラのことを知っているわけですが、「大文字の他者」はそれを知らないわけです。「大文字の他者」とは現実の個々人の総体ではなく、仮想的な「みんな」という「共同主観」の審級だからです。

大文字の他者」がそのかぶりもののことを知るのは、それがおおっぴらな場所で故意にか偶然にか明かされるときです。多くの人の前でそのことが明らかにされるとき、事実として「みんな知っていた」ことは、共同主観的に「みんなしっている」ことになり、「みんながそのことを知っているものとしてみんなが振舞う」ということが可能となります。この、公的な場での人々の振る舞いのプロトコルとしてのもろもろの「として」の目録が登録されているのが、「大文字の他者」であるのです。ある情報は、「大文字の他者」に知らされることによって初めて、それが社会的に存在するもの「として」扱われます。

「マスコミ」は、「大文字の他者」が管理するもろもろの「として」の情報コミュニケーション分野の管理人です。少なくとも現時点では、あれこれの情報が社会で共有されているもの「として」存在するためには、「マスコミ」を通して「大文字の他者」にその旨を伝えてもらわなければなりません。ネットを通して流通するさまざまな情報も、それが「マスコミ」に取り上げることによって初めて「質的にマス」となります。ある情報が事実として広く知られていく経路は、インターネットによってもちろん飛躍的に多様化しましたが、しかしそれらの情報が「質的にマス」になるためには、あくまでも「マスコミ」というメッセンジャーによって「大文字の他者」に届けられる必要があるのです。

つまり、「大文字の他者」は2ちゃんねるまとめサイトを見ないのです。

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当初は、ここからさらに「大文字の他者」と表裏の関係にある「猥褻さ」や、またネット上にあふれる下衆な本音群の位置づけについても書きたかったのですが、ここまででそこそこの量になったので、それらのトピックについてはまた改めて書きます。たぶん。

スティグレールによるゲーミフィケーション

ゲーミフィケーション」に関してツイッターに連投したものを、せっかくだからまとめておくことにしました。

不勉強ながら、ゲーミフィケーション(ゲーム化)という言葉についてはTBSラジオの「文化系トークラジオLIFE」の去年の特集で初めて知り、すると不思議なものであちこちでゲーミフィケーションという言葉が使われていることに気づくようになりました。それからは本当にうすぼんやりと、このゲーム化ということについて少しずつ考えていたのですが、そんななか、ベルナール・スティグレールがゲームについて論じている文章(正確には講演記録)のなかで、このゲーム化に関して面白いエピソードを紹介しているのにぶつかりました。

スティグレールのゲーム論については、以下のリンクから読むことができます(原文はフランス語ですが、google翻訳で英語に直せばだいたいは分かるんじゃないかと思います)。
Bernard Stiegler, Questions de pharmacologie générale. Il n’y a pas de simple pharmakon
(「ファルマコンの問い:単純なファルマコンは存在しない」)
http://www.cairn.info/revue-psychotropes-2007-3-page-27.htm

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フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは、銀行強盗の罪で五年間服役したという異色の経歴の持ち主ですが、その経歴が初めて公表されたのは2003年出版の『現勢化』という本においてでした。その本のなかでスティグレールは、刑務所という場所がある種の宙吊りの作用を持っていると指摘しています。日々流れていく日常生活の連関から無理やりに引き離されることで、ふだん人が無意識のうちに前提としているものがすべて宙吊りにされるという状況に投げ込まれる。スティグレールはこの状態を「実践的エポケー」と呼び、それをくぐることで自分の存在を根元から見つめ直し、哲学者として生まれ直したのだと証言しています。事実スティグレールは刑務所内でプラトンを読み込み、出所後はジャック・デリダのもとを訪れ弟子入りをし、哲学者としてのキャリアを開始していくことになります。

ある日、この『現勢化』を読んだ元麻薬中毒患者(のちに教育者となった)が、スティグレールを訪れてきました。彼の話はつぎのようなものでした。

「あなたの≪実践的エポケー≫といくらか似た経験が、ヘロインとの関係でわたしにあったんです。これまで何度もヘロインをやめようとしては失敗してきました。でもある日、ヘロインのない状態の中毒になったんです。ヘロインのない状態を一つの試練として、一つのゲームとして考えることができるようになったんです。そうすると、ヘロインのない状態から喜びを引き出せるようになったんですよ。」

麻薬中毒者にとって、麻薬の欠如は身体的な禁断症状という耐え難い苦しみとして現われるのだと思いますが、この彼は、その苦しみの状態をあるゲームの中の到達目標に設定し、そのゲームの中毒になろうとしたのでした。麻薬に対する身体的中毒に、ゲームの遂行という精神的な中毒で対抗し、それによって麻薬を克服することができたというわけです。

このときゲーム化という操作は、自分自身の感情や身体から発される直接的衝動を宙吊りにし、そこから距離をとるフレームとしてまず機能します。その上で、直接的リアリティーから距離を置いた地点で独自に目標を設定し、ゲーム内でのその目標の遂行が迂回した形で現実に影響を及ぼす、という回路が生み出される、と言えるかと思います。

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ちなみにスティグレール自身が、刑務所内での精神的サバイバルのためにこのようなゲーム化を遂行したと述べています。哲学の研究を一種のゲームとし、そこへの中毒に自分を持っていくことで刑務所内の現実から部分的に自分を引き離し、自己鍛錬の回路を確立したのだと。スティグレールは刑務所という場所が、日常生活の連関から自分を強制に切り離すという宙吊り(エポケー)作用を有していると繰り返し述べていますが、ゲーム化のついての上記の話を踏まえるならば、刑務所におけるスティグレールの再生は、実際には二つのステップを経たといえるのかもしれません。つまり、刑務所に投げ込まれることによって日常の連関から引き離され、その状態の中で「哲学研究」というひとつのゲームを設定し、その回路のなかでのハイパフォーマンスを目指した、と.

先述の文章ではスティグレールは刑務所が有するエポケー効果について語る一方で、その同じ場所で怠惰に流れてしまう恐怖についても触れていました。そもそもスティグレールの出発点は人間の根源的な有限性(脆さ、弱さ、怠惰さ)にあり、その根源的な欠如を埋め合わせる契機として技術・テクノロジーが捉えられているのでした。そしてゲームあるいはゲーム化という操作もまた、人間の弱さを代補するテクノロジーであるわけです。(このように考えると、死という根源的な有限性と宗教との関係もまた、一種のゲーム化という観点から捉えることができそうです)

人間は根源的に弱いものであり、だから技術が必要となる。このことは刑務所のなかにおいても同じであるはずで、たんに刑務所に放り込まれただけで誰もが哲学者に生まれ変わるわけではないでしょう。スティグレール刑務所の中で、自分の弱さに対抗するために「哲学研究」というゲームを発明し、自分の弱さを補ったわけです。今回参考にしている講演録のタイトルには「ファルマコン」という言葉が入っていますが、この言葉は「使い方によって毒にもなるし薬にもなるもの」を指します。人間の弱さは放っておけばどんどん易きに流れていく(毒)一方で、その弱さゆえに発明された技術が、類まれな強靭さを生み出す(薬)ことも可能であるわけです。

ちなみに、これは間接的に聞いた話ですが、スティグレールは刑務所内で二週間ほどのハンストを行って独房を勝ち取り他者とのコミュニケーションを断絶した上で、哲学研究に没頭したとのことです。ゲームとしてはガチハードモードと言えるのではないでしょうか。

ちなみにスティグレールは、「よいゲーム」と「悪いゲーム」の分かりやすい区別を提示しています。ゲームという形で現実から距離を置いて遂行されるプロセスが、巡り巡って現実に効果を及ぼす回路が存在しているのが「いいゲーム」、現実から完全に切り離され完結してしまうのが「悪いゲーム」というのです。この場合、「現実」および「ゲームの遂行が巡り巡って現実にフィードバックされる」という二つのことが何を意味するのかについては、それぞれの解釈によって可能な限り広く捉えられていいと思います。

スティグレールが刑務所内で行ったゲーム化の操作は、たとえば「社蓄化」とどう違うのかという疑問も見ましたが、こうした疑問については、上記の区別が参考になるのではないでしょうか。ただしその場合もっとも重要になるのは、「自分にとっての最終的な現実とは一体何か」、言い換えれば「自分が生きていることの最終的なよりどころとなっているのは何か」、あるいは「自分が生きているという感じの最終的な中身とその支えとなっているものは何か」、というこれまたややこしい問いだったりするのですが。

「アーキテクチャ」と「プラットフォーム」――コミュニケーション的接触についての考察

書こうと思っているテーマがいくつかありながら、わかりやすく書くのが難しくうっちゃっているうちに、ずいぶん間隔が空いてしまいました。今回は「プラットフォーム」という言葉をめぐってちょっと書いてみようと思っているのですが、このテーマについても、以前から何か書きたいと思っていたのでした。書けば書けそうという感覚は少し前から芽生えていて、なんとなく機が熟したような気がするので、書いてみることにします。

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「プラットフォーム」という言葉についてはずいぶん前から繰り返し語られて来ているかと思うのですが、ここでそのキーワードとともに焦点を当てたいと思っている問題をわかりやすくするために、「アーキテクチャ」という概念との対比をまずは考えてみるのがいいかと思います。ローレンス・レッシグの『CODE』に端を発する意味での「アーキテクチャ」という言葉は、「技術的に管理された物理的インフラ」というようなことを意味しているかと思います。日本という文脈では、東浩紀の「情報管理型権力」というキーワードや濱野智史の『アーキテクチャの生態系』という書物が、そのような意味での「アーキテクチャ」に端を発する議論として思い起こされます。

濱野氏の『アーキテクチャの生態系』はいま手許になく、また読んだのもかなり前なのでおぼろげな記憶での話になってしまうのですが、この本のなかでは、「アーキテクチャ」と「プラットフォーム」とが基本的には同じようなものとして理解されていたような印象があります。より包括的な物理的インフラ(アーキテクチャ=プラットフォーム)を生態環境として、より下位のサービスが入れ子状にそれぞれの生態系を紡いでいく、というイメージ。インターネットという一番大きなプラットフォームがあり、それに乗っかる形でフェイスブックなりツイッターなり楽天なりという下位のプラットフォームがあり、またそれに乗っかる形でサードパーティのアプリやそれぞれの焦点があり、という形で、ピラミッドのように一番の基盤となるプラットフォームからそれに依存する下位のプラットフォームが順々に積み上がっていく、というイメージです。

この説明に仕方そのものについては、実際のネット上のサービスのあり方を描き出していると思いますし、それを生態系というフレームで捉えることにはなんらかの発見力があるのだろうとも思います。しかしこの場所では、「技術的に管理された物理的インフラ」としての「アーキテクチャ」とは完全に区別されるものとしての「プラットフォーム」というものを構想することによって、ネット上(あるいはメディア全般)で起こっていることを捉えるための別の視座を提示してみたいと思います。その際のキーワードとなるのは「コミュニケーションの組織」です。結論を先取りして言ってしまえば、「技術的に管理された物理的インフラ」と対比される、「組織されたコミュニケーション基盤」としての「プラットフォーム」というものを描き出していきたいと考えています。

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ところで以前、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」という言葉の差異について書いたことがありました(これとかこれ)。

そこではたとえば次のように書いていました。

従来は「マスメディア」は、マスな人々とのコミュニケーションを実際に成立させていたので、同時に「マスコミュニケーション」でした。しかしインターネットの出現は、「マスメディア」=「マスコミュニケーション」の図式を大きく動揺させることになります。というのも、たとえば個人的に作成されたホームページやブログは、物質的条件としてはマスな人々に届きうる「マスメディア」ですが、しかしその潜在的な可能性を具体化するコミュニケーションを実現することができないので、「マスコミュニケーション」ではありません。書かれたものが読み手に届くためには、それがなんらかのコミュニケーション回路に乗る必要があるのです。

もちろん「メディア」という言葉はもともと「媒介するもの」という意味だったわけで、するとそこには「コミュニケーション」という要素はなんらかの形でつねにすでに入り込んでいるわけですが、ここでは便宜的に「メディア」を物理的インフラという面に限定して捉え、それを「コミュニケーションと対比したいと思います。

このように考えたとき、たとえばフェイスブックというサービスは、たんなる「メディア」ではありません。フェイスブックフェイスブックたらしめているのは、そこで整備されている物理的なインフラ=「メディア」(巨大なサーバやさまざまなプログラムも含め)ではなく、そこで組織されている「コミュニケーション」です。インターネットという「マスメディア」はすでに誰にでも開かれていますが、しかしあれほどの規模のコミュニケーションをあのような効率的かつ活発な形で組織することは、現時点ではフェイスブックにしかできません。ツイッターも同様です。これらのサービスを独自たらしめているのは、そこで「組織されているコミュニケーション」であり、それをここでは「プラットフォーム」と呼びたいと思っているのですが、このように書いただけではその御利益はよくわからないかと思います。そこで今度は、この「プラットフォーム」で組織されている「コミュニケーション」というものの内実について、もう少し細かく考察してみます。

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「組織されたコミュニケーション」を考察する際して、ここではダニエル・ブーニューの「コミュニケーション学」を参考にしたいと思います。ブーニューの議論については以前書いたことがあるので、興味のある方はそちらも読んでいただけると嬉しいのですが、ここでは関連する部分だけを簡単に思い起こしておくにとどめます。

ブーニューの「コミュニケーション学」の核となるのは、指標、類像、象徴という記号の三分類から構成される「記号のピラミッド」のモデルです。このうち、指標という記号作用があらゆるコミュニケーションの開始地点にあり、そこから上昇することによって初めてそれよりも高次なコミュニケーションが起動しうる、とブーニューは主張します。ここではおおざっぱに、簡単な例を挙げながらブーニューが指標indiceという概念で意味しているものを振り返っておきます。

指標的な記号というのは、物理的な接触によって生み出される記号で、たとえば足跡だとか壁についた手の跡などがそれに当たります。この指標的な記号は、接触にもとづく連続性によって、記号とそれが指し示す対象とを結びつけます。コミュニケーションの場合にこれを置きなおすと、たとえば電話口での「もしもし」がこれにあたります。「もしもし」という発話は特定の意味内容を伝えるものではなく、「自分はあなたに話しかけていますよ」という接触の事実を確認するという行為です。この最初の接触によって会話のチャンネルを確立することによって、ようやくなんらかの内容についてのコミュニケーションが成立するわけです。あるいはもう少しハードルの高いコミュニケーションの例として、ナンパというものを考えてもいいかもしれません。ナンパする際にまず重要なのは(ってやったことないですが)、注意を向けてもらうことです。無視されている状態から、とりあえずわずかでも耳を傾けてくれるようにすること、これがコミュニケーションの糸口となる接触を確立するという行為であるわけです。あらゆるコミュニケーションは、まずは接触が確立されなければ起動しえないのです。

このことはメディアを介したコミュニケーションにおいても同じことです。手紙はまず物理的に手元に届けられる必要があり、そしてそれを読む気になってもらわなければなりません。新聞や雑誌であればそれが配達され、手にとってもらわなければなりません。テレビならば受像機とアンテナが用意され、そしてチャンネルをひねってもらわなければなりません。人々は、それぞれに組織された接触の契機を介して、さまざまなコミュニケーションに参入し、またそこに巻き込まれていきます。

ところでメディアを介したコミュニケーションという上に挙げた例では、実は一口に接触といいながらも、それは実は二つの契機に分割されています。たとえば手紙が郵便制度などを通じて手紙に届く、というのは物理的な接触であり、他方でそれを実際に読み始めるのはコミュニケーションな接触です。メッセージは、なによりもまずは物理的に届けられる(物理的接触)必要があり、そのうえさらに相手の興味をひく(コミュニケーション的接触)ことではじめて意味のあるものとなるわけです。むろんこのことは口頭でのコミュニケーションでも同じことで、なんらかの理由で物理的に声が届かなければ、意味論的な接触も起こりえません。

このようにとりあえずは区別される物理的接触とコミュニケーション的接触ですが、この両者は多くの場合、現実としては制度的に深く結び付けられています。たとえば手紙は郵便という制度によって届けられるわけですが、このような制度を通じて物理的に手元に届いた手紙に対しては、多くの人が自然と注意を向けます。郵便という制度は、物理的接触を組織すると同時に、手紙を受け取った人間の注意を手紙に向けるというコミュニケーション的な接触を組織しているわけです。このことは、新聞やテレビといったマスメディアについても同じく当てはまります。新聞が配達されたりテレビが部屋に置かれていたりするというのは、脈絡なく突然に出現する自体ではなく、ある歴史を有する制度を通して生み出されている事態です。うちに新聞という紙の束が届くという事態には、新聞が社会のなかに広く流通し誰もがそれを読むようになっているという歴史的、社会的な文脈が浸透しています。言いかえれば、新聞の配達制度という、紙の束を各家庭に届けるという制度の確立は、人々がその紙の束に記された情報に向ける組織された興味関心の確立とカップリングされているのです。テレビに関しても同様です。物理的にテレビ受像機が家に置かれる、つまり人々がテレビを買って家に運び入れるという行為には、テレビで放送される番組に人々が興味をもつようになるという、コミュニケーションの流れの組織とカップリングされているわけです。

このように考えると、「マスメディア」と「マスコミュニケーション」とがほとんど同義扱われている理由がよくわかります。つまり、新聞の配達制度を確立したり、テレビ局のネットワーク体制を確立させるとともにテレビ受像機を各家庭に普及させる、というメディア制度の組織化は、そこで流通される情報に人々の興味関心を向けさせるというコミュニケーションの組織化と同時に進められてきたのです。

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ある情報が流通するためには、まずはそれが物理的に人々に接触する必要があり、そしてまた実際にその人の興味を引く(「もしもし」)という形でコミュニケーション的に接触する必要があります。いわゆる「マスメディア」は、そのマスなメディア体制によって物理的な接触を確保し、またその物理的な接触の確保と平行してコミュニケーション的な接触も確保してきたのでした。そこではマスな物理的な接触が、そのままマスへと届くコミュニケーション的接触を担保するという事態が出現していました。もちろんマスメディアに乗るコンテンツがもつコミュニケーション能力によって視聴率などは変わってくるわけですが、しかしそれでもたとえばテレビに映るというそれだけで、自動的に数百万人オーダーの人がそれを目にする、という状況が生まれていたわけです。「マスなメディア」と「マスなコミュニケーション」とのこの密接な結びつきは、しかしインターネットの出現によって根本から相対化されることになります。というのも、インターネットとともに誰でもが「マスなメディア」を手にすることができるようになった一方で、それは「マスなコミュニケーション」をまったく担保しはしないからです。メディアとしては数億人と接触しうるメディアでありながら、一日に十人も読まないブログなんてのは腐るほどある、という状態が出現したのです。かつては「マスなメディア」を手に入れることがすなわちマスへと届くコミュニケーション的接触を組織することを意味したわけですが、現在では「マスなメディア」は誰にでも手にすることができ、しかしそれとは別に、コミュニケーション的接触を組織していかなければならない、という時代になっているのです。

現代では、何よりも重要なのは「マスなメディア」を手に入れることではなく、誰にでも開かれたインターネットという「マスなメディア」上で、コミュニケーション的接触をマスに組織することです。フェイスブックが重要であるのは、このサービスがマスなコミュニケーション的接触を組織しているからです。毎朝郵便受けから新聞を取り出すように、ブラウザを開いた時にまずフェイスブックを見る、という行為は、そこからさまざまなコミュニケーションが起動していく最初の接触を意味します。フェイスブックはこうした接触をマスに組織しそれをマネタイズすることで収益を上げることができるわけです。あらゆる商売が始まるのは顧客との接触を確保することからであり、そのために宣伝や広告があるわけですから、そうした接触をマスに組織しているものがもっとも強くなるのは当然の道理です。

さて、ここまできてようやく「プラットフォーム」という言葉に立ち戻ることができます。技術的に管理された物理的インフラとしての「アーキテクチャ」と対比する形で、組織されたコミュニケーション的接触を「プラットフォーム」と呼ぶことでなにが見えてくるでしょうか?それは、「プラットフォーマー」とはつまり、コミュニケーション的接触をマスに組織し、それを他者に配分していく存在である、ということです。なぜ多くの人が「プラットフォーム」を必要とするかというと、それはそこにはコミュニケーション的接触が組織されているからです。その「プラットフォーム」に乗ることで、そこに組織されたコミュニケーション的接触から配分を受け取ることができるからです。「アーキテクチャの生態系」と区別されるものとして「プラットフォームの生態系」というものを構想するとするならば、それはコミュニケーション的接触の配分関係を描き出すものになるのだと思います。

フェイスブックでもtwitterでもなんでもいいですが、それらのサービス(プラットフォーム)を、コミュニケーション的接触の配分関係という観点から考えてみると、色々見えてくるかと思います(ツイッターについては「アテンション・エコノミー」というキーワードとともに少し考察してみたことがありました)。たとえばニコニコ動画Ustreamの違いといったことについても。疲れてきたので、個別のサービスについてはそのうちまた書くとして、とりあえずはこんなところで。

日本のメディア文化: カタストロフィとメディア

本日21時から、フランスのリヨンにて以下のタイムテーブルでイベントが開催されます。
(時間はフランス時間)

2:00 pm – 8:00 pm
2:00 pm - 3:30 pm 石田英敬「イントロダクション――カタストロフィとメディア」
3:30 pm - 4:15 pm ベルナール・スティグレール「テクノロジーの衝撃と大学の諸課題――デジタル・スタディーズの時代」

4:15 pm - 4:25 pm 休憩

4:25 pm - 5:10 pm 藤幡正樹「メディアと無常について」
5:10 pm - 5:55 pm ロバン・ルヌッチ「(未定)」
5:55 pm - 6:40 pm 吉見俊哉放射能の雨の中をアメリカの傘さして」
6:40 pm - 6:50 pm 諏訪敦彦監督作品『黒髪』上映

6:50 pm - 7:00 pm 休憩

7:00 pm - 8:00 pm ディスカッション

詳細はこちら


イベントの模様は、下記の場所から生中継されます。
http://www.polemictweet.com/iii-catastrophe/client.php?CONNECT=true

twitterのアカウントがあれば、polemic tweetというシステムを利用することもできます。

かなり興味深い内容になるかと思いますので、関心のある方は覗いてみてください。

ヒマを巡る哲学的序説

以前、同人誌を出すという知り合いに求められて書いたものの、結局同人誌そのものが立ち消えになり、ずっと宙づりになっていた文章を載せます。マルクスの娘婿であるポール・ラファルグの『怠ける権利』の批判から出発し、、ベルナール・スティグレールの議論を参考に、怠けることとは区別される「ヒマ」という時間の在り方について考察しています。

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1、あまりに牧歌的な「怠けること」

 ポール・ラファルグというオッサンが、ずっと昔のことだけれど、『怠ける権利』という本を書いたらしい。聞くところによるとその本では、労働三時間制というものが提唱されているとのこと。人は一日三時間働けばそれでいい、というなんとも心地のよい主張。で、その本を読んでみたところおそらく該当するのは次の箇所、オッサンはプロレタリアートについてこう語っている。

(……)彼らがみずからの力を自覚するためには、(……)自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。
ポール・ラファルグ『怠ける権利』、p.37

 労働時間が三時間、というのはとてもわかりやすい主張だが、その一方で「怠ける」ということが何を指しているのかはいまいちよくわからない。で、上の引用文を見てみると、とりあえず「旨いもの」をたらふく食べるということが「怠ける」には含まれているらしい。また「自然の本能」という文言が見られるように、オッサンが労働を非難するときは、その裏側に人間のある種の「自然」というものが念頭に置かれている。たとえば次のような一文にもそのことは明らかだ。

民話や昔話に出てくるあの陽気なおばさん連中はどこに行ったのだ。あけすけに語り、天真爛漫にぱくつく、徳利大明神の恋人たちは。いつもこまめに駆けまわり、料理と歌が好きで、喜びをふりまいては、健康で逞しいちびたちを陣痛もなく産み、生命の種を撒く、あの朗らかな娘たちはどこに行ってしまったのか。
同上、p.23

 この一文が引き合いに出しているのは、ある牧歌的なライフスタイルだ。無邪気な精神の持ち主たちが、飲み食い遊び繁殖する。そこでは誰もが生まれつき生き方というものを知っている。労働ひいては資本主義が敵視されるのは、この生まれつきの生き方というものを解体してしまうとされているからだと思われる。とすると「怠ける権利」と呼ばれているのは、この生き方へと立ち戻る権利のことなのだろう。
 しかしラファルグの時代以降の資本主義の動向というものを思い出すならば、そう牧歌的に「怠ける権利」というものを謳い上げている場合ではないことはすぐにわかる。このオッサンが標的にしているのは、労働、つまり生産するという行為だ。そしてその生産行為の外部に、あの牧歌的な生き方が無傷で眠っているのだと想定されている。しかし19世紀から20世紀にかけての資本主義、たとえばベンヤミンが『パサージュ論』で描き出しているような資本主義以降は、むしろ消費が資本主義の運動の中心に位置するようになっている。そして消費という問題が『怠ける権利』との関係で重要なのは、消費というものが、すなわち生き方の消費に他ならないからだ。


2、消費することと「生きる仕方」

 たしかにラファルグのオッサンも消費の問題について言及してはいる。が、そこでは消費は生産と切り離されていて、生産の回路から離れさえすれば、人々は自動的にあの生まれつきの生き方へと立ち戻ることができるかのように扱われている。しかしそんなことはありえない。ラファルグの義理の父親であるカール・マルクスがすでに論じているように、生産と消費とは不可分に結びついている。たとえば生産されうるのは消費の対象だけだ。つまり、そもそも人々が何を消費するのかが、生産されるものをある程度決定する。マルクスの有名な表現を用いるなら、消費は生産に「≪finishing stroke最後の仕上げ≫をくらわす*1」のだ。
 ただしここで問題となるのは、たんに一般的な生産と消費との循環だけではない。消費されなければ再び生産することができず、再生産のプロセスが立ち行かなくなる、ということだけが問題となっているのではないのだ。というのもこれまたマルクスが述べているように、「消費は、欲望を再生産する*2」からだ。つまり、モノの消費と生産という再生産プロセスだけではなく、そこでは同時に欲望の消費と生産という再生産プロセスもまた作動しているのだ。
 何を食べ、何を着て、どういう場所に住むのか、これらのことは、どのように生きるのかということと切り離すことができない。この点についても、マルクスはきわめて明確に語っている。

〔消費の〕対象は、けっして対象一般ではなくて、ある一定の対象であり、しかもそれは、ある一定の、生産そのものによってふたたび媒介されるような仕方で、消費されなくてはならない。空腹は空腹であるが、料理された肉をフォークやナイフでたべてみたされる空腹は手や爪や牙をつかって生肉をむさぼりくらいような空腹とは、別のものである。だから消費の対象ばかりではなく、消費の仕方もまた、生産によって、客体的にはむろんのこと主体的にも、生産される。生産は、こうして消費者を創造する。
マルクス『経済学批判』,300頁

 生産は、消費の対象を生み出すだけでなく、それらを消費する仕方をも生み出す。ごくごく素朴な風景を想像してみよう。たとえばゴッホが描いた靴、マルティン・ハイデガーが『芸術作品の根源』で取り上げた、あの使い古された農民の靴。あの靴のうちには、農民がどのように生産しているのかが紛れもなくにじみ出ている。そしてそれは、マルクスが「一般的労働時間」と呼んだような分断され抽象化された労働行為ではなく、それ自身が「生きる仕方」であるような行為だ。産業資本主義が労働を機械化し抽象化する以前には、働くことと「生きる仕方」とは不即不離の関係にあったはずなのだ。
 またその靴が喚起する生産の場面は、同時に消費の場面とも切り離せない。ゴッホの見た農民が具体的にどのような生活をしていたのかは僕は知らないが、そこには、生産と消費とをともに貫く、農民のある「生きる仕方」というものが存在していたことは疑いえない。つまり生産と消費とは、循環プロセスをなすひとつの「生きる仕方」のそれぞれの側面に過ぎないのだ。ラファルグは、このように不可分に結びついているはずの生産と消費との関係を切り離してしまい、「消費の仕方」を生まれつきの自明ものとして自然化してしまう。しかしマルクスの偉大な発見によれば、消費の仕方そのものも、そのときどきの生産体制を通して作り上げられる歴史的なものにすぎないのだ。


3 象徴的貧困と感性の闘争

 産業資本主義は、機械化され抽象化された労働を導入し、働くという行為を「生きる仕方」の再生産プロセスから切り離した。ラファルグはこの動向に、「怠ける権利」なるものを対置させた。その挙動自体はわからないことはないが、ただしそこでの問題は、特定の「生きる仕方」が、「怠ける」ことで自動的に手に入るということを前提にしている点にある。実際には、「生きる仕方」というものは自動的に手に入るものではなく、特定の歴史的諸条件のなかでまさしく生産されていかなければならないものだ。
 そのことは、マルクスの死後はるか経った現在、とりわけアドルノとホルクハイマーが文化産業を激しく指弾した時代以後に生きる僕らにとって、より切実な問題になっている。たとえばアドルノとホルクハイマーは人間の想像力の産業的横領を論じていたし、ベンヤミンは文化産業の基盤である複製技術の到来がもたらした感性の変容を指摘していた。つまりある時点以降の資本主義は、たんに生活物資とその利用方法を変容させるだけでなく、「生きる仕方」を根底のところで支えている「感じる仕方」そのものに影響を及ぼすのだ。
 このような状況下では、ノンキに怠けている場合ではないのではないか。いつの時代であれひとびとは、良かれ悪しかれ自分たちを取り囲む環境に触発される。映画、テレビ、インターネット、携帯といったさまざまなメディアにつねに触れざるをえない現代の人々にとってはなおさらだ。「このような状況でたんに怠けるのは危険なのではないか?」、現代のフランスの思想家ベルナール・スティグレールなら、きっとそうラファルグに反論するでしょう。
 このスティグレールが提唱する「象徴的貧困」という言葉は、感性的次元での貧困、いわば「感じる仕方」の貧困を指し示すものだ。現代において問題とされるべきは、この「感じる仕方」の貧困であり、そこにこそ政治が戦っていかなければならない本質的な領域が存在している、というのがスティグレールの主張だ。『象徴の貧困』と題された書物の第一巻冒頭で、彼は次のように述べている。

政治の問題とは感性学(美学)の問題であり、また逆に、感性学の問題は政治の問題である。わたしはここで感性学(esthetique)という用語を、もっとも広い意味で用いている。つまり、アイステーシス(aisthesis)が感覚を意味し、それゆえ感性学が感じることと感受性一般の問題となるような、広い意味で用いている。
スティグレール『象徴の貧困1』、p.17(原著)私訳

 日本語では一般に美学と訳されるエステティックという言葉は、もともとは「感覚に関する学」という広い意味を有していた。スティグレールはこの元来の語義に立ち戻りつつ、「感じる仕方」の問題こそがまさに政治の問題の核心にあるのだと述べている。この問題意識の背後には、経済主体がますます消費者というステータスへと還元されていく経済システムの動向に対する認識が控えている。

20世紀には、個人を消費者へと仕立て上げるために、その情動的、感性学的次元を機能化する新たな感性学が立ち上げられた。
同上、p.23

 この「新たな感性学」を導くものとして名指されるのがマーケティングだ。個々人の感性や情動を商品の回路へと誘導していくテクニックとしてのマーケティングとは、消費者を作り上げるテクニックにほかならない。そこでは個々人の欲望が、いわばそれぞれの商品のサイズに適合するように整形され、結果的にその回路の外で何かを生み出すという契機を押しつぶしてしまう。スティグレールはこのような経済的傾向に対抗する一つの手段として、『象徴の貧困』シリーズでは芸術の役割に期待を寄せている。感性をカタログ化するマーケティングに抗して、特異性の経験を生み出す感性的な闘争を行う営為として、芸術が捉えられているのだ。


4 仕事と雇用

 もちろん「感性のカタログ化」への抵抗は芸術家だけの特権ではない。戦線は社会のあらゆる場所で展開されているのだ。スティグレールは『民主主義に対する遠隔支配』(2006年)および『新たな政治経済批判のために』(2009年)のなかで、「仕事」という概念の再定義を通して、感性をめぐる闘争を、芸術という限られた領域を超えた「仕事」一般の問題として捉えなおしている。
 マルクスによれば、資本主義は働くという行為を「一般的労働時間」という抽象的で量的な次元へと還元してしまう。これは、マルクスの時代の資本主義が依拠していた産業モデル、つまり機械化された生産プロセスのなかで労働者が単純労働を行うというモデルに関係する事態だ。しかし現在に生きる僕らにとってもこの「一般的労働時間」という発想は、実はきわめて身近なものだといえる。たとえば僕らが「働く」という行為をその対価としての賃金という観点からのみ理解するとき、そのとき僕らは知らない間に「一般的労働時間」を参照している。つまり、労働の内容=質は完全に無視され、そこでの労働は賃金=量に還元されるからだ。
 この発想の背景には、「働く」という行為を「雇用」に還元する、というより根本的な発想がある。つまり、「働くこと」を「雇用されること」と同一視する発想だ。常識的には、生活する=消費するためにはお金が必要で、働くのはそのお金を稼ぐためだ。だとすれば、働かないで消費できるならそれに越したことはない。ラファルグのオッサンの「怠ける」という言葉が魅力的に響いてくる。この場合には「働く」のモチベーションは消費のためのお金を獲得することであり、つまり「雇用」されることだ。そのモチベーションは、当然ながらお金が手に入れば消えることになる。
 スティグレールが異議を申し立てるのは、この発想に対してだ。

すべての雇用が仕事であるわけではない。つまり、すべての雇用が知識を獲得し、発達させてくれるわけではなく、またその知識を通して個体化することを可能としてくれるわけではない、すなわち、雇用され収入を得ることで購買力をもつ消費者としてだけでなく、社会のなかでの生産者としての位置をもたらしてくれるわけではないのだ。対して個体化とは、雇用を超えるものである仕事がもたらしてくれるものである。ただしそのためには仕事というものを、自身がもっている知識をもとにして世界を変えるために世界に働きかける行為、として理解しなければならない。ところで今日では仕事は、(・・・)だいたいにおいて雇用へと還元されてしまっている。
スティグレール『民主主義に対する遠隔支配』,p243,244

 ここには、スティグレール独自の仕事観が現れている。それによると仕事とは、雇用され賃金を得ることにつきるものではなく、ある「個体化」のプロセスを実現していく営為に他ならない。フランスの思想家ジルベール・シモンドンに由来する「個体化individuation」という概念は、ここでは、個体と環境との間のポジティブな相互作用のプロセスのことを指している。仕事を例に挙げるならば、仕事をする人間はその行為を通して環境=世界へと働きかけ、またその行為を通して自分自身を豊かにしていく、というプロセスだ。ちなみにここで環境=世界と呼ばれているものは、物理的な環境であると同時に、個人をとりまく社会でもある。この後者のケースはとくに「横断的個体化trans-individuation」と呼ばれ、個と社会とがダイナミックに相互作用を行うプロセスのことを指す。
 このような「個体化」という観点から出発するならば、仕事はたんに時間の切り売りとは全く異なるものであり、それは自己と世界とを同時に豊かにしていく営為であることになる。先に名前の挙がったジルベール・シモンドンは、まさにこのような観点からマルクスの疎外概念を批判していた。マルクスは疎外という概念を剰余価値の搾取という観点から捉えた。その議論はまず、仕事というものをあらかじめ抽象化され賃金へと換算された労働行為へと還元し、そのうえで、その成果の一部を資本家が搾取しているという点に労働主体による労働成果に対する疎外、というものを見出している。そこでは疎外は最終的には労働の成果との関係においてのみ捉えられている。したがって労働のプロセスそのものは、その成果に対する疎外を構造化している契機としてのみ位置付けられることになる。この見方に反対してシモンドンは、疎外という事態は労働の成果との関係にではなく、労働のプロセスそのもののうちに見出すべきであると主張したのだ。
 シモンドンによれば、産業資本主義の到来が仕事という営為にもたらした決定的な変化は、「ものを作る知」が労働者のうちに内面化されることをやめ、機械へと外在化されてしまったという点にある。そこでは労働者は「ものを作る知」の保持者であることをやめ、生産を行う機械の付属物という地位へと還元されてしまう。シモンドンは、労働者が「ものを作る知」から切り離されてしまったという事態をこそ疎外として理解するべきであると主張する。この観点からするならば、マルクスの議論では搾取する存在として理解されていた資本家すらも、一種の疎外状況に置かれていると言える。というのも資本家もまた労働者と同様に、「ものを作り出す知」から切り離されてしまっているからだ。
 

5 ≪日々の交渉negotium≫と≪ヒマotium≫

 シモンドンが扱っている対象は、マルクスのそれと同じく産業資本主義における労働者の疎外状況だ。そこで問題となっているのは身ぶりの次元での疎外であり、身体を通じて何かを生み出す「知」が労働者から取り去られてしまったという事態が、そこでは論じられている。スティグレールはこのシモンドンの議論から出発しながら、それをより後期の資本主義、一般に「ポスト産業社会」と呼ばれ、スティグレールが「ハイパー産業社会」と呼びなおしている資本主義の現在の形に対して拡張する。その上でスティグレールは、現代にはマルクスが想定していなかった新たな種類のプロレタリアートが出現しつつあるのだと断じる。それは、生産のプロセスにおけるプロレタリアートではなく、消費のプロセスにおけるプロレタリアートであり、その現代的な貧困のあり方を指し示す言葉として提示されるのが「象徴的貧困」である。
 産業資本主義は、労働者の身体をいわば組み立て可能な流れとして扱い、そこから得られる生産性を利潤の源泉とした。対してスティグレールが「ハイパー産業化時代」と呼ぶ現代の資本主義は、消費者の意識の流れをそこから利潤を汲み出す源泉としている。そこでは、マーケティングを通して遂行的に消費者の欲望を生産することが資本主義の中心的な活動となり、それゆえ欲望の生産工場としてのメディアが支配的な地位を占めることになる。たとえばメディアはさまざまなブランドを消費者に提示する。ブランドによって消費者は、「自身の≪存在≫の最重要の契機を形作るシステムをもたらす≪世界の表象≫の代用品を内面化する*3」ようになる。このことによって消費者は、生産者が「ものを作る知」から疎外されたように、「生き方を作る知」から疎外されるようになる。むろん、このような疎外はなんらかの形であらゆる伝統社会にも存在するものだ。しかし「ハイパー産業化時代」では、その疎外が経済的利潤の源泉となっているという点に根本的な新しさがある。
 「余暇社会」ということが言われるとき、そこでの余暇とは、購買力を有した消費者があれこれの≪世界の表象≫を購買するための時間だ。この時間には、基本的に「何かを生み出す」という契機はそなわっていない。このことは、生産者と消費者とを厳然と切り離し、後者を純粋な購買力へと還元するという体制がもたらす必然的な帰結だ。誰もが知っている通り、消費者というのは怠け者だからだ。この体制では、日々の時間は二つに分割される。一つは生産者の時間であり、このとき人は過剰に勤勉になる。もう一つは消費者の時間であり、このとき人は過剰に怠け者になる。とすれば問題なのは、このように生産と消費とを完全に切り分けてしまう体制そのものだということになる。ところで改めて振り返っておけば、あのラファルグのオッサンもまた、この分割体制を完全に共有していたのだった。
 スティグレールは生産と消費という不毛な分割に代えて、negotiumとotiumという区別を提案している。この前者、negotiumは、さしあたり≪日々の交渉≫とでも訳しておくことにする。これは、衣食住などの人間が生存していくための物資を確保し、さらには社会を成立させるための基本的なやりとりを維持する活動だ。言うまでもなく、これなくしては人は生きていくことができない。対してotiumの方は、かなり冒険的かもしれないが、≪ヒマ≫と訳しておくことにする。≪ヒマ≫とはいってもこのotiumは何もしない時間のことではなく、生きるために必要な活動とは別のことに向けられる活動のことなので、日本語の≪ヒマ≫という語感には少々そぐわないところがあるが、他に適当なものも思いつかないし、それにラファルグの「怠けること」に対比させる意味でも、この訳語を採用することにする。
 この≪ヒマ≫というのは、ラファルグがイメージするような自然で享楽的な消費とは異なり、蓄積的で反復されていく積極的な実践のことを指す。生産/消費という対比が生み出す契機とそれを消費する契機とを分割するのに対して、≪日々の交渉≫/≪ヒマ≫という対比は、何かを生み出していく際の二つの次元を区別する。その区別の軸となるのが、有用/無用という基準だ。無用、という言葉は少し誤解を招くかもしれないが、よりスティグレール自身の物言いに近づいて、「現実には存在しないもの」と言ってもいい。平たく言えば≪ヒマ≫な行為というのは、日々の営為のなかで確かに存在する何かに向けられるのではなく、いわば日常から飛躍する心の作用のなかにしか存在しない、「現実には存在しないもの」に向けられる行為だ。スティグレールはいわゆる「文化」というものの核心を、このような≪ヒマ≫のうちに見出す。すこし長くなるが引用する。

≪ヒマ≫とは≪日々の交渉≫ではないものだ。すなわちそれとは別のものであり、それは一つの区別であるのだ。つまり、それはある差異を識別することであり、それが可能であるのは、それが信じられる限りであり、そしてそれが信じられるのは、それが行われる限りである。これらのことがなによりも意味しているのは、まさしく、差異がそのようなものとしてあり、またそのようなものになるのは、それが耕される(cultive)限りであり、つまりそれが欲される限りである、ということだ。それが理論として観想されるのは、それが実践される時でしかない。つまり人々が、ただあるがままに放置しておくのではなく、努力してそうあるように、そうなるように、そしてそれを増大させ、高めさせていくようにしていく時だけなのだ。
スティグレール『無信仰と不信1』,p.139

 スティグレールによれば≪ヒマ≫な行為の対象とは、最終的には手で触って確かめることができるような証拠を持たず、むしろそれは、触って確かめることのできるもの――≪日々の交渉≫――ではないもの、というネガティブなやり方でしか感じられる――あるいは信じられる――ことのできないものだ。スティグレールはこの≪ヒマ≫という概念をきわめて広く用いており、そこには宗教的なものも含めたあらゆる「文化的」とされる営為が含まれている。そしてその中心には、単に生きていくために必要なもの「ではないもの」を信じ、日常とは異なる時間軸のなかでそれを耕していく(「耕す」というのは文化cultureの語源です)、という悠長な営為があるのだとスティグレールは述べている。


6 最後に――「怠けること」と「≪ヒマ≫であること」

 最後に、スティグレールが≪ヒマ≫の両義性について注意を促していることを覚え書として残すことで、ポール・ラファルグの『怠ける権利』から書き起こしたこのささやかな一文に区切りをつけたい。
 スティグレールはあらゆる文化的営為の基盤には≪ヒマ≫なるものが存在すると述べているのだが、しかし同時にこの≪ヒマ≫とは両義的なものであり、最良のものに結実することもあれば、最悪のものへと転落してしまうこともあると言う。それゆえスティグレールはラファルグの結論とは正反対に、「怠ける」ということに対して強い警戒心を持っている。ラファルグの「怠けること」とは異なり、スティグレールの≪ヒマ≫とは絶えず耕していくことであり、それは本質的につねに何か新しいものを生み出していく営為だ。そのためには、あまり怠けていることはできない。というよりも、単に怠けるに任すことには大いなる危険が孕まれている、という意識をスティグレールは持っているのだ。
 この文章にとってはきわめて好都合なことに、スティグレールは先にあげた『無信仰と不信』のなかで「怠惰」についても直接に論じている。そこでは、第二次世界大戦直前にポール・ヴァレリーが記した「精神の危機」への懸念を引き合いに出しながら次のように述べられている。

(・・・)ヴァレリーにとっては、問題となる災厄とはまずは精神なるものの全般的な脆弱さ――そこからもたらされるさまざまな災難はその弱さの諸事例でしかありません――という事実であり、そしてそれに関連して、精神の政治であること、さらには精神の政治経済であることを諦めてしまったという政治的な脆弱さという事実である。乱暴に言ってしまえば、そこでは次の事実を前にしての思想の破滅的な怠惰が問題なのだ。「精神によって変容した世界はもやは精神にかつてと同じ展望、かつてと同じ方向をもたらしてはくれない。そこではまったく新たな諸問題が、数えきれない謎が課されている。」
スティグレール『無信仰と不信』,p.141)

 世界が大きく変動しつつある状況を前にして何もできないでいること、スティグレールはこの状態を端的に「怠惰」と呼んで批判している。ここで批判されているような「怠惰=怠けること」に対立するのは、ラファルグが考えていたような「生産」ではなく、逆説的に響くかもしれないが、精神を耕す営為としての≪ヒマ≫である。そしてスティグレールが「精神の政治経済学」と呼んでいるものは、その≪ヒマ≫の政治的活用に他ならない。
 現在という時代には、ヴァレリーが身を置いていた時代のような形で軍事的脅威が差し迫っているわけではない。しかしその代りに、そこでは感性の次元での戦争がより全面的に進行しつつある、とスティグレールなら述べるだろう。とすれば新たな武器を手にする必要がある。それは火を噴く武器ではなく、感性を再構築し、「生きる仕方」を作り上げていくための武器だ。そしてその戦場はさまざまメディアであり、人々がさまざまなものを見たり聞いたりするコミュニケーションの場に他ならない。いずれにせよ、どうやら怠けている場合ではないようだ。

*1:カール・マルクス『経済学批判』、岩波文庫、299頁

*2:同上、300頁

*3:スティグレール『無信仰と不信1』,p.145