自己を完遂する孤独――『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

何かしら新しいところのある映画については、その新しさの核心を一息につかまえてしまおうなどと考えるのは無謀なことで、さしあたりは、「それは何ではないのか」を数え上げていくことで、おずおずとその輪郭を浮かび上がらせていく、という手順を踏むのが穏当であるかもしれません。

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ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、石油で財をなす一人の男が、最後には孤独のうちに破滅していく様を描いた作品です。このようなあらすじだけを聞くと、それがどういう組み立てになっているかを容易に想像できるような気になります。

1、まず、無一文の男が苦労して石油を掘り当て財を成していく。きっとそこでは画面は希望に溢れていて、明るい未来を指し示しているにちがいない。

2、しかし男が成功すると、そこで獲得された財そのものによって何かが狂い始める。おそらく家族が遠ざかり、男は孤独に落ち込むことになる。

3、そして予想されたように、破滅が訪れる。成功を求めた男が、その成功によって食い荒らされるわけです。

あらかじめ断言しておくと、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はまったくもってこのような映画ではありません。というのもこの作品のなかには、無邪気な希望を握り締めながら成功に向かう局面、というのがまったく存在しないからです。

映画の冒頭、主人公がはじめに黄金を掘り当て、その後の成功の一番最初のきっかけをつかんだ場面。男はその黄金を握り締め、折れた足を引きずって街へと向かう。その男の姿を見下ろしていたカメラが首をあげると、起伏の激しい荒涼たる大地が姿を現し、それに合わせて、なにか悲痛な叫びのような音が画面に響き渡る。通常ならば、冒頭のもっとも希望に溢れているはずの画面が、この上なく不吉な映像と音響によって構成されている。まずこの点に、この映画が「どんな映画ではないか」ということがはっきり見てとられるかと思います。

この映画には、希望、暗転、破滅といった諸々のトーンの変転はなく、ただ一つのトーン、不吉でまがまがしい、未来のあらゆる細部にあらかじめ呪いをかけてしまっている暗黒のトーンだけしか存在しません。唯一例外があるとすれば、それはエンドロールの場面です。そこではのっぺりとした緑地に、古文書に書いてあるような古めかしい字体でスタッフの名前が映し出されていきます。すべてが終わった後のこのファンタジックな調子は、映画そのものの暗黒さを強調してやみません。

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あらすじからは、映画全体のトーンの変転についてだけではなく、主人公の性質とその変転についても、ごくごく常識的な想像を働かせることが出来るかと思います。

1、野望と希望に溢れる善良な男が石油を掘って回る。

2、成功にもかかわらず周りから親しい人びとが離れていき、対処の出来ない焦燥に次第に駆られていく。

3、最後にはすべてを失い精神に破綻をきたす。

ふたたび断言しなければなりませんが、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公はまったくもってこのような人物ではありません。というのもこの作品の主人公は、状況の変化によって影響を蒙りうるような可塑的な精神の持ち主ではなく、いかなる状況にも影響をうけないただ一つの性質しかもっていないからです。

さてこのように述べると、「それならばその性質とはつまり狂気のことだろう」と考え、このような主人公の前例として、ヴェルナー・ヘルツォークの映画に出てくるクラウス・キンスキー(ちなみに昨年末から話題の鳥居みゆきが大好きな俳優)を挙げるかもしれません。しかしここでもまた、「『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はそのような映画ではない」と言わなければならないのです。というのも、この映画の主人公において、はじめから最後までまったく変わることのない不変の性質、それは「孤独」であるからです。

狂気ということで言えば、この映画の中では大地そのもの、正確にいえば大地の奥底はまさに狂っているといえるかもしれません。その狂気の具体物が原油です。最初に原油が発見される場面。掘削道具が刀のように油井の奥底に突き刺さると、そこから血のように滲み出してくる真っ黒な原油。突如ガスを吹き飛ばして、主人公の息子の聴覚を奪ったのも、その地下の奥底の力でした。そして、引火して激しく火を吹く油井の光景は、まさしく地獄を思わせるものです。

しかしこの大地の狂気に対応するのは、クラウス・キンスキーやあるいは『地獄の黙示録』のカーツ大佐の狂気ではなく、もはや手の出せないほどの心の奥底で凝結してしまっている、ある一つの孤独なのです。

この主人公は、過去について詮索されること、自分の家族に口出しされることを極端に嫌がります。それどころかそもそもこの人物には、過去の痕跡がまったくみあたりません。息子の母親のことは観客にはまったく知らされませんし、それに最後に彼が息子に対して「お前は拾った息子なんだ」と言い放つ場面においても、観客はそれが真実なのか虚偽なのかを判別することが出来ません。だから、あらゆる過去から切り離されたこの男には物語というものがない。ということはつまり、出会いや改心や回顧が存在しえない。そこで唯一可能であるのは、それぞれの現在において展開していく絶対的な孤独だけです。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』がスクリーンに映し出すもの、それは、その冒頭からラストまで、いかなる外からの影響も蒙ることなく自己を貫徹する孤独の形象です。そこには、孤独の完成以外の出来事はなにひとつ生じません。

まだ観ていない人のために詳しくは言いませんが、映画のラストシーン、最終的な破滅が確定した瞬間での主人公の言葉には、なにか「ひと仕事終えた」とでもいうような不思議な雰囲気がただよっています(というか、セリフそのものがそのような意味です)。この言葉も、この映画における唯一の出来事が、その冒頭から始まり最後の場面で完成する、一つの孤独の完遂であると考えるなら、得心のいくものです。

狂気を超えるものとしての孤独、まったくべつのやり方での狂気としての孤独、このような孤独が現代において描かれるということには、本質的な必然性があるのではないかという気がします。孤独をそれ自体において作品にまで吊り上げたこと、これこそが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』が行なったことである、とひとまずは言っておこうと思います。