オリンピックは政治からいかにして自由であるか

3月10日のラサでのチベット人僧侶によるデモ活動に対する中国当局の弾圧によって一気に発火した、北京オリンピックへの大ブーイング。ここ数日は、聖火リレーの妨害に関するニュースが繰り返し流されています。これら一連の動きに対して中国政府が繰り返し強調するのは、「政治とスポーツの分離」というものです。今回は、この「政治とスポーツの分離」というものについて少し考察してみたいと思います。

さて、まず確認しておく必要があるのは、一般に「政治とスポーツの分離」という主張が、きわめて曖昧に用いられているという点です。ごくごく素朴に考えてみても、この「分離」という主張には少なくとも二つの含意があるように思えます。
1、政治とスポーツはそもそも分離されたものである(事実としての分離)
2、政治とスポーツは分離されなければならない(規範としての分離)
個人的印象としては、この二つの主張がなんとなくごっちゃになって「政治とスポーツの分離」ということが叫ばれているような気がします。

よく考えないでこの二つを見ると、これらの主張は密接に結びついているようにも見えるかもしれません。たとえば、「事実としての分離」が「規範としての分離」の根拠になっている、と考えることもできそうです。しかしちょっとでも頭を使えば、この発想が根本的な矛盾をはらんでいることがわかります。というのも、政治とスポーツの分離というものが動かしようのない事実であるのだとすれば、そもそもこの両者が結びついてしまうということはありえず、それゆえ「分離すべき」というような規範が持ち出されることもありえないからです。

このことから理解されるのは、「分離すべき」という規範が存在するためには、政治とスポーツとがつねに結びついてしまっているという事実が存在しなければなりません。事実としてはこの両者はつねに結びついているが、しかし理念としてはこの両者は「分離すべき」である、という点に規範が出現する余地があるわけです。ちょっと考えてみれば、こんなことはあまりにも当たり前です。しかし実際にはあたかも、「この二つはそもそも別のものなんだからそれを結びつけるべきではない」という「事実としての分離」を「規範」の根拠として持ち出してくるような議論がしばしば見られるように思います。北京五輪反対運動を非難する中国政府の対応もまさにそうです。

このような対応戦略が採用されることには、もちろん相応の理由があります。簡単に言えば、このやり方を取れば非難する側の責任が全面的に免除されるのです。北京オリンピックの例で言えば、中国政府はオリンピックと政治との分離というものをあらかじめ自明の所与として設定することによって、政治とスポーツとの境界の動揺の責任を、その所与としての分離を侵犯する抗議者だけに割り当てています。しかし、政治とスポーツの分離が自明の所与であったことなど一度もありませんし、これからもないでしょう。

たとえばどこかのサッカーチームがサッカーボールをもってソマリアにサッカーしに行ったとしても、それがスポーツだからという理由で安全が守られるなどということは決してありません。そんなことするやつらは、単なるアホです。これはあまりに極端な例ですが、しかしスポーツがあたかも自律した領域であるように振舞うことができるのは、最低限の政治的枠組みなりなんなりがそれを可能とする限りにおいてであるというのは、ほとんどミもフタもないといっていいほどの事実です。

しかしこの事実は、政治とスポーツの分離という規範、あるいは分離という理念の役割を無に帰せしめるものではありません。むしろ政治や暴力の世界というものが徹底的にミもフタもないものであるからこそなお一層のこと、政治とスポーツの分離という理念が共有され育てられていく必要があるのだと思います。現在のソマリアでそれが可能かはわかりませんが、しかし政治とスポーツの分離という理念を共有しまたそれに敬意を払うことで、たとえば交戦中の国同士がオリンピックの間だけ停戦し、スポーツの祭典のために政治的対立を一時的に宙吊りにする、ということは慎重に話し合いの場を作っていけば生じうる事態であると思います。そこでは、政治とスポーツとの分離は自明の所与などではなく、慎重に取り扱うことでようやくなんらかの形で実現することのできる心許ない理念でしかありません。そのためには、関係する当事者全てが、この理念の具体化のために尽力しなければなりません。

政治とスポーツの分離というものはあくまでも理念的なフィクションであり、事実としてはいかなる人間活動も政治からは無縁ではありません。しかしだからといってこの理念が無意味であるということはなく、むしろ、この政治的次元との関係においてこそ、理念というものが機能する場所があるのだと思います。理念としては政治からは自律的なスポーツの領域というのは、政治と無関係な領域であるのではなく、あるやり方で政治を宙吊りにする領域です。そしてその宙吊りは、いうまでもなく政治になんらかの影響を及ぼします。思うに、ほとんどの場合それが悪い影響となることはないのじゃないでしょうか。

そういうわけで僕としては、「政治とスポーツの分離」という理念そのものは断固として守っていくべきものだと思っています。この理念は、お互いにまるっきり異なる考えや立場をもつ人間同士が出会っていくこの混沌と世界において、きわめて貴重な象徴的な資本であり、大事に運用して増やしていかなければならないものだと思います。それゆえオリンピック関係者が、ことあるごとに「政治とスポーツの分離」についてアナウンスすること自体は、そうあるべきものであると考えます。

しかしすでに述べたように、少なくとも現時点までは、中国にはこの理念を大事にしようとする姿勢はまったく見られず、戦略的な道具としてこの「分離」という理念を用いているようにしか見えません。聖火リレーに対する暴力的な抗議のあり方には確かに非難されるべき点があるかもしれませんが、しかしそれ以上に中国の責任は大きいように思えます。

「政治とスポーツの分離」とは決して確立された事実などではなく、あらゆる努力を作り上げていくべき目標です。このことは北京五輪に限らず、あらゆるスポーツイベントに関してもあてはまります。中国は抗議者に非難を向ける以前に、まずは自身がこの努力を充分に尽くしているかを自問するべきでしょう。