変革はつねに広場で起こる――チベットへの道

essaさんという方が、「 一日一チベットリンク / Eyes on Tibet 運動」というものを提案していました*1

 ブログを書いている人に、しばらくの間、一日に一つ、なんでもいいからチベット関係のURLにリンクしようという運動を提案したい。
 別にチベットについて書く必要はなくて、エントリ本体は普段通りにいつも書いていることを書いて、最後に何か一つリンクを貼るだけ。「一日一チベットリンク」か「Eyes on Tibet」と添えて。

僕自身も昨日あたり、インターネットはチベット問題にどのように介入することができるんだろうとか考えながら、どう考えても実現できなそうな計画を夢想してたりしました。それでこの「運動」を目にして、なるほどそういうのもあるなあと感心したのでした。

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変革はつねに広場で起こってきた。しかしこれからもそうなのか。あるいは新たな変革の場所が生まれつつあるのではないか。そんなことをちょっと考えたいと思います。

たいていの場合、ものごとはほとんど変わらないように見えていながらほんの少しずつ変わっていきます。社会もまた人間の体と同じく急激な変化には耐えられず、それが新しく変わっていくためには、適切な変化の速度というものがあるわけです。この見方は、おそらく「穏健な保守」の考え方だと思います。しかし着実な変化への自然的傾きが無理やりに抑圧されているとき、ひずみが少しずつたまっていきます。ここに、大きな痛みをともなう変革のポテンシャルが増大していくのだと思います。このポテンシャルは、路地や部屋の片隅で、囁くように溜め込まれていく。

この溜め込まれたポテンシャルは、必ずどこかで噴出します。僕はよく知りませんが、おそらく歴史的にみて、この噴出はこれまでつねに広場で生じてきたのではないでしょうか。ほんのささいなきっかけが、急激に不穏な空気をある一帯に瀰漫させ、人びとの身ぶりやささやきが、なにやら急き立てられたように険しくなっていく。そのとき人びとが向かうところ、それが広場です。広場において多くの身体が出会い、言葉や身ぶりやあるいはただその存在だけでお互いを触発しあう。そこでささやきは叫びに変わり、個々の身体は集団的身体と化して、溜め込まれていた不満や怒りが幾何級数的に増幅されていき、一気に激発する。

普段はあちらこちらに散在している押さえつけられた感情は、広場というある空間に集合することで初めて集団的な声になることができる。思うに、かつて力をもたない集団が変革の声を挙げることができた基礎的な場というのは、広場だったのではないでしょうか。ただし広場にはヴァーチャルな次元の支えが必要です。それは「われわれ」について語り継いでいく言葉であり、またその言葉を流通させるさまざまな媒体です。新聞やパンフレット、またはチベットの場合では僧侶の祈りやダライ・ラマ14世の写真などが、いわばヴァーチャルな広場となって、人びとを象徴的に集合させていた。しかしそれがある破壊力のある激発となるためには、やはり物理的な広場が必要となる。

広場は強力な触媒の場となることができますが、そこには弱点もある。そこに集まった身体そのものは物理的な暴力によって蹴散らされてしまうし、また遠くにいる人はそこにすぐに集まることができないし(変革と速度の関係!)。とくにこの後者の点は、遠巻きにチベットについて憂慮している人間からすると根本的なバリアになります。

物理的な広場が物理的に制圧されてしまったとき、残された場所はヴァーチャルな広場、つまり言葉やイメージが流通するコミュニケーション空間しかありません。そしてこのコミュニケーション空間は、そこで問題となっているものが世界的な関心を集めているときにはとりわけ重要であります。その空間だけが、チベット問題においてはインドに亡命しているダライ・ラマ14世の存在が象徴的ですが、物理的に「そこ」にいない/いけない人を集合させることができるのです。

広場というのは有象無象が集まってくる場所です。この点からすれば、実際にはこれまでヴァーチャルな広場というものはきわめて限定された形でしか存在していませんでした。メディアの物理的な制約から、その広場に姿を現わすことができる言葉はつねに選別されざるを得ず、それゆえそこでは、有象無象が寄せ集められた広場的な身体の現前という事態は大幅に緩和されてしまいます。それは広場における集団の身体の相互触発というよりは、むしろ代表者たちの討論会といった趣きだったのではないでしょうか。

しかしこのヴァーチャルな広場に化せられていた物理的な制約は、インターネットの出現によって大きくその意味を変えました。もちろんそこでもいわゆる「デジタル・ディバイド」の問題はあるわけですが、それでもインターネット上には、これまでには不可能であったような広場的な場が可能となったというのは確かであるように思えます。はてなに押し寄せる新着日記の波などを見ると、「そこに人がいて語っている」という、ほとんど身体的といっていいような現前の感覚、「そこにいる」という広場的接触の感覚を覚えます。

チベット問題に関しては、各国政府や国際機関、それにそれぞれのマスメディアがいろいろ対応していくのだと思いますが、それとは別のアリーナが、ヴァーチャル化された広場というものもまた存在します。それがインターネットであり、そこでは、論理的であったり妥当であったりといったまとまりのある主張以前の、「同じ関心、同じ憂慮をもった人間がそこにいる」という広場的な現前がヴァーチャル化された形で可能になっています。

以前、松永英明氏に関して、インターネットを行き交うトラフィックと記憶の問題について書いたことがありました*2。インターネットはヴァーチャルな巨大広場であり、そこかしこで往来が姦しくなると、そこに人がワラワラと集まってくる。この「ワラワラ」がもつ威力を発揮するのが広場であり、そこでは「人が一気に大量に通行する」というただそれだけの事実がもつ威力が示されます。

なおインターネットという広場において面白いのは、これも松永英明氏に絡んで書いたことですが、そこでは人びとの交通が記録され、時間を隔ててあとからそこに立ち戻るということが可能になるということです。それはトラウマ的な傷のように、松永英明氏の場合にそうであったように、これから先も完全に忘れ去られるということはなく疼きつづけます。物理的な広場の場合とは異なり、インターネットにおいては行き交う往来は現在という時間に拘束されるものではなく、同時にそれは未来に対して一種の「想起せよ」という命令を投げかけるものでもあるのです。

長くなりましたが、essaさんが提案された「 一日一チベットリンク / Eyes on Tibet 運動」というのは、インターネットという巨大広場のなかに「チベット」という一角を作り上げ、そこにワラワラと集まって「何か」が起こる気配をどんどんと醸し出していこうとするものだと思います。

僕が今回貼るリンクは
チベット騒乱で五輪スポンサーにも厳しい判断」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/131859/
現代においては「ワラワラ」とした気配は、消費者として大企業にインパクトを与えることが、その威力を発揮させる一番の近道であるような気がします。