知っていると想定された主体としての内田樹

もう幾日か前の記事ですが、例によって内田樹氏が挑発的なことを書いていました。

私ども大学教師はあらゆる問いに即答することができる。
その答えを知らない問いについても、そのような問いが存在することが知られていない問いにさえ即答することができる。
なぜ、そんなことができるのか?
知識があるからではないよ。
だって、「答えを知らない問い」にだって答えちゃうのだから、知識に依拠することはできぬ。
では、何に依拠するのか?
その答えを諸君は二年間私に就いて学ぶのである。
健闘を祈る。
(http://blog.tatsuru.com/2007/04/10_0947.php)

ここで挑発的に問いかけられていること(「なぜ大学教師はあらゆることに答えられるのか?」)に対する返答は、しかし、内田氏の文章をちょっとでも読んでいればすぐに想像できます。一言で言うと答えは次のようになります。

なぜなら、大学教師は「知っていると想定される主体」というポジションに立っているからだ。

学生から投げかけられる問いに対して大学教師はなにやら「深そうな」ことを答えておけばいい。教師と学生というある与えられた非対称的な社会的関係に基づいて教師がなにやら「深そうな」ことを言えば、学生は「自分にはまだ理解できない何か深遠な知」について何事かを知っている主体としての教師に「転移」を起こし、あとは学生は勝手に答えを探しはじめます。そしてその答えを自分なりに見つけたときに「先生のあの言葉はこういう意味だったのか!」と勝手に得心する。つまり教師が与えた「深そうな」回答は、事後的に真理として構成されることになるわけです。これが、ソクラテスプラトンによって提示されたいわゆる「メノンのパラドックス」を読み替えたラカン=内田なりの弁証法、ということになるのでしょう。

で、さらにいえば、学生が教師から「卒業」するということは、その両者の関係を規定していた「転移」の関係から卒業することであって、具体的には自分が教師の言葉に見つけた「真理」とは、実は自分自身の発見をそこへと映し出したものに過ぎなかったのだ、ということを発見することです。これがおそらく内田式の「精神分析弁証法的教授法」とでも呼ぶべきものなのでしょう。

この「内田式教授法」は、おそらく「教師」としてのみならず、「物書き」さらには「武術家」としての内田氏の基本姿勢をも形作っているものだと思います。そこには共通の方程式とでもいうべきものがあって、まずは「深そうな」言辞もしくは身振りで持って「機先を制し」、そのことによって自身を「知っていると想定される主体」の地位に置く、というところから始まります。そしてこれがうまくいくとすでに勝負は決していて、内田氏の表現を借りればあとは相手は「活殺自在」ということになります。

このことを理解しておけば、内田氏の文章を読む際の「リテラシー」というものもおのずとわかってきます。内田氏の書き物というのは、なににもましてある「間合い」に関するものであって、そこで書かれている内容そのものを、その「間合い」から引き離して額面どおりに受け取ってはいけないものです。「間合い」問題は内田氏の「企業秘密」であり、そのことをあけすけに語ってしまうと自己を「知っていると想定される主体」に置くという戦略が機能不全に陥ってしまうのでそのことについてはほとんど語られることはありませんが、自分のいっていることを額面どおりに受け取ってはいけない、ということについては内田氏自身が再三注意を促しています。こうした注意を促さざるを得ないことは、おそらく内田氏にとっては不本意なのだと思いますが、教師や武術といった「対面」の場面から離れて、どこへともしれずに運ばれていく「書き物」というメディアジャンルに関してはやむを得ないのだと思います。

僕は将棋には詳しくないですが、羽生善治は勝負の重要な局面において、ときに何の意味のない手をさすことがあると聞いたことがあります。チェスの伝説的名人であるボビー・フィッシャーにも同じような話があります。そうして相手を混乱させるという戦略なのですが、この戦略が可能であるのは、羽生氏なりフィッシャー氏なりが「知っていると想定される主体」の地位に立っているからであり、その限りでそれらの手は「間合い」というコンテクストにおいて機能しうるわけです。しかしそこで指された手を、「棋譜」として残して「間合い」のコンテクストから切り離して広く世に残す際には、当然ながら「注意書き」が必要になります。つまり、その「手」を真に受けてはいけない、と。ちょっと大げさかもしれませんが、内田氏の書き物は、そうした「一手」として理解しておく必要がある気がします。