長崎浩『技術は地球を救えるか』

● 最近読んだお勧め本の時間がないから簡略感想シリーズその二

環境問題というものが技術にとって、それが気候と生態系に関わるという点においてきわめて重要な意味をもっている、という語り起こしはきわめて啓発的です。いわゆる科学技術というものは、計算可能で工学的に処理可能なものを扱うわけですが、気候や生態系に関しては、それを計算しつくそうとすると計算量が爆発してしまうので、原理的に工学的に扱うことが不可能であるわけです。長崎浩氏はこのような観点から、技術は工学的発想とは別の思想を育てなければならない、と主張します。だからといって、環境保護派にありがちなロマンチックな議論ではないのでその点はご安心ください。たとえばバイオテクノロジーに関しては、工学的に扱える分子レベルの次元と、それを生体のなかに戻したあとの生態学的な次元とを区別して、この両者は別の発想に基づいて処理する必要がある、という議論などはまさにその通りだと思います。

中間部ではプラトンの『ゴルギアス』まで遡って、説明可能な知である「真なる技術」と経験的にしか意味をもたない説明不可能な「偽なる技術」という区別に注目し、長崎氏はこの両者をそれぞれ技術と技能というものに平行させて理解しようとしています。そしてそのまま工学的な発想に結びついていくとする技術に対し、原理的に計算不可能な複雑な対象と関係していくものとしての技能の価値の再発見を提案します。これはまあもっともなのですが、プラトンの『ゴルギアス』に触れてアリストテレスの『ニコマコス倫理学』に触れないというのは、形而上学にたいしてちょっと公平ではない、といわざるをえません。というのも、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において認識知であるエピステーメーと実践知であるフロネーシスを区別し、技術知としてのテクネーをそのフロネーシスの一つとして位置づけているからです。そこでは、テクネーは長崎氏がいういみでの技能に近いものとして捉えられています。ただ細かくみていくと、フロネーシスもテクネーも最終的にはロゴスに従属しているということがわかるのですが、しかし表面的にはそうではありません。さらにその辺をめぐっていくつか不満もあるのですが、まあいいでしょう。

とにかく、技術の問題を考え直す格好の媒質としての環境問題、という発想はきわめて有益だと思いましたし、またそこから導き出される複雑なものへと対処するものとしてのもう一つの技術思想、というのも確かに必要だな、と説得されました。





プラトン全集〈9〉 ゴルギアス メノン

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ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

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ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

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