ジャック・デリダ “Mal d’archive”その1

読書感想文を書きます。今回のお題はジャック・デリダの“Mal d’archive”。95年にガリレー社から出版されたこの本は、アーカイブという概念をひとつの軸としてフロイトを論じているものです。まず一読して、技術やメディアの問題に関する自分の興味関心からいって、これをいままで読んでいなかったのはきわめて重大な手落ちだと痛切に思い知りました。またそれだけではなく、その分析というか、フロイトの議論に寄り添いながら同時にそれを切り刻んで少しずつ新しい光景を示していく手際は、その他の多くのデリダの著作に比べても、格段に鮮やかであるように思いました。まだ読み終わってからそれほど経っていない(一週間くらい前ですが)というのもありますが、いまのところ、この“Mal d’archive”はデリダの最高傑作の部類に入る、というような印象を持っています。

この“Mal d’archve”というタイトルをどう訳すのか、というのがまず微妙なところです。とりあえず、『アーカイブの悪』というのはないな、ということは確かだと思います。むろんそのニュアンスも含まれているわけですが、ここでのmalは、「悪」というよりも「苦痛」といった色合いが強いことは、本文を読めば間違いありません。中山元氏はたしか『アーカイブ酔い』と訳していましたが、これにも少し違和感があります。おそらくデリダの文章を読む感触をも含めて「酔い」としたのだと思いますが、より内容に即して考える場合には、また別の訳語が必要となる気がします。ところで英訳は “Archive Fever”となっていて、僕はこの英訳タイトルはなかなかいいんじゃないかと思っています。本文を先取りしていってしまうと、この‘Mal d’archve’というデリダの造語は、アーカイブというものが絶えず自己を破壊しながら生み出しつづけるその際限のない運動のことを指すものであり、「熱病」とともに「熱狂」を意味するfeverという言葉は、フランス語のmalからは少し離れてしまうかもしれませんが、なかなかしっくりくる気がします。そのあたりも勘案して僕が最初に思いついたのは『アーカイブの熱病』というものでしたが、しかしこれはどうも鈍重だなあと思い、さしあたりここでは『アーカイブ熱』としておくことにします。ちなみにこの『アーカイブ熱』というタイトル訳もどこかで見たことあるような気がしますが、どこで見たのかは思い出せません。と、長々とマクラ、失礼しました。

この『アーカイブ熱』ですが、なによりもまずその人を食った目次が読み手を大いに笑わせてくれます。面白みを損なわないために、原書のページ数とともにその目次を挙げます。

銘・・・・・19
前置き・・・45
序文・・・・55
本論・・・・129
追伸・・・・149

と、まさに「人を食った」としか言いようのない構成になっており、本論がほとんどオマケみたいになっています。そしてこの構成は、アーカイブの輪郭の問題、つまりどこからアーカイブが始まりどこでそれが終わるのかという問題、に直接結びついているわけです。ちなみにここで「本論」と訳したのはtheses(テーゼ)ですが、それを挟む諸部分が人工補綴protheses(プロテーゼ)と呼ばれており、ここも技術論の観点へと結びついていくところです。

デリダはまず、銘の前の冒頭部分で「アルケー」という言葉の二つの意味について触れることから、この書物を開始します。「アルケー」という言葉は一方では「始まりcommencement」に関係し、他方でそれは「管理commendement」に関係する、と。デリダはこの二つの要素がそれぞれ、「物理的、歴史的、存在論的」なものと、「ノモロジックnomologique」なものに関係するとします。つまり、前者がその事実としての開始に関わるのに対し、後者はその開始したものを管理、維持するいわば一種の権力に関わるわけです。「アルケー」とはいうまでもなくアリストテレス形而上学における中心概念ですが、デリダはその議論を暗黙のうちに参照しながら、「開始」と「管理」との関係がアリストテレスにおける「ピュシス(自然)」と「テクネー(技術)」の区別に重なっていくものであることを示します。そしてまさにその区別の妥当性をこそ揺るがしていくのがデリダの分析プログラムであるのだろう、ということは容易に想像がつきます。

デリダは『アーカイブ熱』を通してアーカイブについて論じていくわけなのですが、アルケーに含まれる二つの意味は、アーカイブというものについて考える際に大きな光を投げかけてくれます。というのも、アルケーの二つの意味、すなわち事実としての開始とその管理、は、まさにアーカイブを統制するものであるからです。アーカイブには起源があり、それを管理する集団がいる。ただしこの起源と管理の関係は、それほど単純なものではありません。ごくごく素朴な考え方をすれば、まずなにかが起源において始まり、その始まったものを管理人が管理をする、という風に理解することができそうです。しかし実際には管理人が管理するのは、実は個々の記録だけではなく、その記録を貫いているはずの起源そのものでもあります。アーカイブとはつねに何かについてのアーカイブであるわけで、その「何か」の一貫性を保証するのがアーカイブの起源であるのですが、管理人はそのような起源そのものを管理する。デリダはその事態を、フロイトアーカイブ、という問題をめぐって考察していきます。

しかしなぜフロイトなのか。アーカイブの管理は同時にアーカイブの起源の管理でもある、というテーゼはごくごく一般的なものであり、どのアーカイブに関しても同様に当てはまるものだと思います。それならば、フロイトに限定することなく、一般的なアーカイブ論を展開することもできそうなものです。あるいは、その一般的なアーカイブ論を浮かび上がらせるための個別事例として「フロイトアーカイブ」に焦点を当てているということなのか。むろん、例によってデリダの作業はそんな単純なものではなく、また例によってここではなによりもまず、「フロイトアーカイブ」と述べる際の「の」が問題になってきます。「フロイトアーカイブ」とはなんのことか。常識的に考えればそれは、フロイトに「ついての」アーカイブだということになりますが、デリダはそこにもう一つの解釈を交錯させます。それは、フロイトに「とっての」アーカイブ、すなわち「フロイトアーカイブ論」です。『アーカイブ熱』におけるデリダの戦略を単純化してしまえば次のようになると思います。フロイトに「ついての」アーカイブの問題を、フロイトに「とっての」アーカイブの問題と同時に考える。そしてこの二つの問題は、「アーカイブとは何か」という問題をめぐって循環し始めます。

まず、前者の問題、つまり「フロイトについてのアーカイブ」の問題は、そもそも「アーカイブとは何か」という定義なくしては考察することができません。ではアーカイブの定義をどこから調達してくるのか。デリダはその調達先としてフロイトを指名します。アーカイブとは何であるのかをフロイトさんに聞いてみよう、というわけです。しかしここで重大な問題が発生します。というのも、アーカイブについて論じているはずのその「フロイト」とはいったい誰であるのか、ということを決定しなければならないからです。通常、そのことはまったく問題にはなりません。誰もが、フロイトとは誰であるのか、ということを知っていると信じていますし、またどれがフロイトについて書かれた本であるかも知っていると信じています。ただ、問題は次の点にあります。「フロイトによって書かれたものの総体」というのはけっして自明なものではなく、「フロイトアーカイブ」として作り上げられるものである、という点です。ここにめくるめく迷宮が出現します。「フロイトについてのアーカイブ」という問題を考察するためにまずアーカイブの定義を調達しなければならないのだが、実はそのアーカイブの定義そのものが、あるアーカイブの作業に依拠することによってしか可能ではない、というわけです。ここに、中山元が「アーカイブ酔い」と呼んだような事態が現われている、とさしあたりは述べることができるでしょう。

ただ、この「アーカイブ酔い」状態もまた、考えてみればごくごく一般的な問題です。言葉というのはそもそも遠大に迂回した同語反復によって構成されている、なんてことは辞書を開いてみればわかることです。とするとそこではまだ、なぜフロイトであるのか?という疑問に対する答えは出ていないことになります。さて、ではなぜフロイトなのか?アーカイブを論じるにあたってなぜデリダフロイトを選ぶのか?それ対するデリダの答えは、フロイトアーカイブ論それ自体が、上で触れたようなアーカイブをめぐる際限のない循環を考慮に入れたものであるからだ、ということになるでしょう。単純化してしまえば、「フロイトアーカイブ」について考察すること自体がたんに迂回した同語反復であるのではなく、「フロイトアーカイブ」に現われている「フロイトアーカイブ(論)」そのものが、アーカイブの循環性を指摘している、という点に、「フロイトアーカイブ」というテーマが特権的な「アーカイブ酔い」を生み出す場となる可能性がある、ということです。ただし、これはあまりにも単純化してしまったかもしれません。

デリダが「フロイトアーカイブ(論)」の中心として見出すのは、「死の欲動」の概念です。そこで問題となっているのは同語反復などではなく(ある意味ではそうなのですが)、むしろ起源の破壊というものです。デリダは次のように述べています。

それ〔死の欲動〕は働いており、そしてそれがつねに沈黙のうちに作動しているがゆえに、それはそれに固有なpropreアーカイブというものをけっして残しておくことがない。その固有なアーカイブを、それはあらかじめ破壊してしまう。それはまるで真実のところまさにそこにこそ、それに固有の運動の動機そのものが存在しているかのようである。それはアーカイブを破壊することに専心する。それはそれに《固有の》痕跡を抹消するという条件において、あるいはまた抹消するという観点において??それゆえそれはもはや正しくは《固有な》とは呼べないものである??のことである。p24

ここでは固有なもの??いうまでもなく起源と深く関係するものです??を破壊してしまうものとして死の欲動が位置づけられるとともに、そこで破壊されるものとしてデリダアーカイブの固有性を挙げています。デリダはここでは明示的には述べていませんが、死の欲動アーカイブとをこのような形で結びつけるに際しては、そこには一つの前提が念頭に置かれているでしょう。それは、起源に端を発するとされ、またその起源の管理を通して記憶を管理していく「固有な」アーカイブというもののあり方を、人間の意識についてのあるモデルと平行的に捉える、というものです。この平行関係は、より広く記憶の問題として捉えるとわかりやすくなる気がします。

アーカイブも意識も、どちらもある記憶の統一体として理解することも可能です。統一体、ということはつまり、そこにはある「固有性」というものが想定されているということです。アーカイブの場合はその起源が「固有性」の由来となるでしょうし、意識の場合はおそらく「人格」なり「個人史」なりがその由来として見出されるのだと思います。そしてそのある由来の地点という中心にさまざまな記憶を取り集めそこに統一性を賦与することでアーカイブ=意識が形成される、というわけです。ところで、フロイト自身はアーカイブというものについて一般的な形では議論していないと思いますが、意識についてはいうまでもなく繰り返して論じています。そしてフロイトの意識論の功績は、意識の中心性(あるいは固有性)を大きく相対化して、無意識の領域を「発見」したことにあるというのが一般的な評価ではないでしょうか。この無意識を、記憶の問題として、あるいは個人的な記憶のアーカイブとして捉え直すことができるように思います。

アーカイブというものが起源と管理を通して構成されているのだとすると、さしあたり意識と無意識とは、個人的記憶のアーカイブの管理に関わるものであると理解することができる気がします。つまり、意識による記憶の管理と無意識による記憶の管理が存在する、というわけです。そしてフロイトは、人間の記憶(ということは同時にその想起のメカニズム)は、意識によってのみならず無意識によっても管理されているということを発見した人である、ということになります。そして意識=管理人は無意識=管理人の作業を抑圧する、というわけですね。ただこの場合、管理が複数化されたとはいえ、起源はといえば唯一のものとして想定されています。つまり、「本当の自己(あるいは欲望)」がまず存在し、それが意識=管理人ではなく無意識=管理人のもとにある、という図式です。そしてのちにその起源が「エディプス・コンプレックス」と呼ばれたりするのだとしても、その図式そのものは変わりません。

その図式では基本的に、記憶のアーカイブの起源が個人の内部に見出されることになると思います。個人の意識の問題と、より広い(社会的な)アーカイブとを平行的に捉えることに心理的抵抗が生じるのだとすると、その原因は個々にある気がします。フロイトは個人の意識を問題にしていたのであって社会的アーカイブの話はしておらず、それゆえ死の欲動をそういった一般的な意味でのアーカイブに当てはめるのはどうなのか、という反応はいかにも妥当であるように見えます。ただし実際には、フロイト自身の議論に即したとしてもそうとも言い切れないものがあります。たとえばデリダフロイト最晩年の『モーセ一神教』を挙げますが、フロイトはそこで、ユダヤという集団的な記憶のアーカイブを、基本的には個人の意識を説明するモデルと同じモデルで説明しようとするわけです。つまりエディプス・コンプレックですね。ユダヤという民族の統一性を作り上げているのは、集団的意識=管理人の作業ではなく集団的無意識=管理人の作業である、という風にフロイトの議論を言いかえることもできるかもしれません。

少し話はそれますが、集団的記憶の問題ということでいえば、たとえば『トーテムとタブー』でも扱っているわけですが、デリダは、一般的には非常に評判の悪い『モーセ一神教』により焦点を当てます。それは、この『モーセ一神教』という書物のステータスそのものが、アーカイブの問題に興味深い光を投げかけるからです。フロイト自身は『モーセ一神教』を一種の「歴史小説」として位置づけています。とすれば、その本は理論としての精神分析とは関係しない、という発想も当然ながら可能です。それは小説であり、分析あるいは理論ではない、というわけです。しかしそこでは、理論と小説(あるいはフィクション)の境界はどのようにして決定できるのか、言い換えれば「フロイトの理論」に関するアーカイブの境界はどのように決定できるのか、という問題が浮上してきます。この境界に問いを要請するのは、小説だけではなく、手紙や私的なメモもまた同様です。どこまでが「フロイトの理論」について説明している文書であり、どこからがそれ以外の非関与的な文書となるのか。あるいは近似的に、なにを『フロイト全集』に収録するのか、という現実的な判断基準としてこの問題を捉えることもできるでしょう。ここには、アーカイブの起源と管理の問題が如実に現われてきます。

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なにやらどうも長くなってしまいました。振り返ってみると、どうみてもここまでのところで前置きの内容ですね。ということで、具体的な内容に関しては次に回すことにします。ただ、デリダが展開している多岐にわたる議論を一つ一つ追っていくことなどできないし、そもそもそういうことを基本的には許容しないような文章になっているので、ごくごく大まかな力線だけを取り出すことを試みるに留めます。

ちなみに、もうずいぶん前のことですが、有名ブロガー松永英明氏の「オウム問題」に関して書いた文章で、すこしデリダフロイトについて触れていることを思い出したのでここにリンクを貼っておきます。
松永英明氏の記憶痕跡
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060314#p1