ニコニコ動画と同時性

「面白くないものが面白くなる」 ひろゆき氏が語る「ニコニコ動画」の価値
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0701/30/news035.html


動画の上にそのままコメントをつけられるという「ニコニコ動画」というのが存在していたのをまったく知りませんでした。で、このところ忙しいのでそんなの見て時間使ってられるか、と思った三秒後に当然ながら試しに見てみることにしたのですが、これがいろんな意味で面白い。

動画にコメントを書き込む、というのはyoutubeみたいに動画のしたにコメントが並べられていくのではなくて、テロップのようにコメントが動画の上に流れていくことを意味します。書き込まれたコメントは記録され、それぞれのコメントが書き込まれた再生時間に画面の上を流れていくようになってきます。ただし書き込まれた全てのコメントが表示されると画面が埋まってしまうので、最新の200件のコメントがそれぞれのタイミングで表示されることになります。

まあぐだぐだ説明するより見てもらう方が早いでしょう。
レミオなんとかの名曲「粉雪」。
http://www.nicovideo.jp/watch?v=utQsfXeT5qeVg

この「ニコニコ動画」を見て僕は非常に興味を覚えました。一方でテレビやラジオに代表される放送というモデルは、同時性の感覚を生み出します。テレビを見たりラジオを聞いたりするという行為の意味は、その同時性の感覚なくしては理解できません。「昨日あれ見た?」みたいな会話も、そういった同時性の感覚に依拠しています。この放送というモデルはその同時性の代償として、視聴者が一方的な受け手となることを要求します。たとえばyoutubeのように利用者が好きなときに視聴できるメディアの場合は、放送におけるような同時性は生まれないからです。利用者の能動性に対して引き出されるというこのコンテンツ受容のモデルは、「放送」モデルに対比させて「通信」モデルと呼ぶことができると思います。

ここまで書けばもう何を言おうとしているかは明らかだと思いますが、「ニコニコ動画」は明らかに「通信」モデルを採用しているにもかかわらず、擬似的な同時性を強力に、あるいはテレビ以上に強力に生み出しています。この点を僕は非常に面白く思ったのでした。むろん、いわゆる「実況」板などにおいても同時性は生み出されていたわけですが、そこにはコンテンツはなくコミュニケーションがあっただけでした。しかし「ニコニコ」動画においては、動画にコメントがそれぞれのタイミングで重ねられていくことで、そのコンテンツを「同時に見ている」という感覚がはっきりと生み出されます。実際には、流れていくコメントは記録されたものであり、それを書いた人が自分と同時にその動画を見ているわけではないのですが、そんなことは重要ではありません。

ニコニコ動画」を、「通信」モデルで引き出されるコンテンツにコミュニケーションをかぶせたもの、として理解することは、おそらく「ニコニコ動画」の本質を逃すことになります。重要であるのはそれが、コンテンツそのものに「同時性の感覚」をもたらしている、という点にあるのだと思います。むろん、それはテレビやラジオにともなう「同時性の感覚」とは異質なものです。それらの「放送」が、いわばコンテンツの向こう側に他人の同時性を感じさせるのだとすれば、「ニコニコ動画」はコンテンツの手前にそれを感じさせます。つまり、一緒にテレビを見ている感覚ですね。

ニコニコ動画」をちょっと見て、正直に言うと僕は「なるほど!」と感心したのでした。そこでは同時性か非同時性かという二者択一ではなく、同じコンテンツをみた利用者のそれぞれの時間を、コメントの記録という形で圧縮して、動画の一回的な時間的な流れにそれを一致させる、という手法がとられています。実はあらゆる同時性というのは、実際にはメディアにおけるこのような「時間の圧縮」が介在しているわけで、その普遍的な構造を、「ニコニコ動画」はアクロバティックに、というよりはむしろ快活に実現している、と僕は感じました。

ひろゆき氏という人物を僕はよく知りませんが、もし彼がこのアイデアを考え出したのならばたいしたものだなあと、素直に感服する所存です。