『ドイツロマン主義における芸術批評の概念』について

修士論文が終わったのでなんか別のものを書こうと思い、ちょっと考えた結果ベンヤミンを選ぶことにしました。修士論文ではそれなりに抑えた文体で書いていたので、今度はもっと好き勝手な文体で書こうと思ったので、だったらベンヤミンかなあと結論付けたのでした。とりあえず大まかなテーマは「固有名と星座」。比較的初期の文章に焦点が当たると思われます。ということで、以後もつづくか解りませんが、ベンヤミン読書感想文シリーズ開幕。第一弾は表題の通り、『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』について。

1、構成

修士論文(なのか?)だけあって、非常に簡潔な構成になっています。第一部「反省」では、フィヒテにおける反省概念を入り口に、それをさらに徹底していったドイツ・ロマン主義(とくにフリードリヒ・シュレーゲルノヴァーリス)の反省概念を説明する。そして第二部では、そこで提示された反省概念を実装化するものとしてのドイツ・ロマン主義の芸術批評の概念が描き出されていく。

そこで提示されていく反省概念と芸術との関係については、四つのことを踏まえておけば充分であると思われます。まず、フィヒテの反省概念。ベンヤミンの議論の中では、フィヒテは反省という契機に本質的な重要さを見出しながら、そのポテンシャルを「自我」という同一性の枠の中におさめてしまった、という風に位置付けられます。つぎに(初期)ドイツ・ロマン主義における反省概念。これは、フィヒテが反省にはめてしまった枠を取り払い、反省概念を徹底化させたものとして位置付けられます。さらに、反省の客観性。反省、というとなんだか主観的、観念論的な印象がありますが、ベンヤミンは反省に徹底した客観性の地位を与えようとする。そして、反省と理念との関係。反省はなんらかの認識を参照するのではなく、理念の統一性を指し示すものとして理解されます。

2、内容

いちいち参照するのは面倒なので、強権的に要約していきます。

a)フィヒテの反省概念

「反省」という契機への注目が目指すのは、主観と客観というニ項対立の乗り越えです。思惟という言葉が繰り返し使われているのでこれを用いるとすると、根源的であるのは「対象についての思惟」ではなく「思惟についての思惟」である、とされます。正確には、「思惟の思惟」ということがいわれます。そしてこの「思惟の思惟」を通して見出されるのが形式であり、その形式を通して初めて外的な「対象」という客観が可能になる、という順序にさしあたりなっています。対象の認識があり、その次に反省が繰るのではなく、まず反省が先行する、というわけですね。ベンヤミンフィヒテが踏み出したこの一歩を大きく評価すると同時に、みずからが垣間見せた可能性を最終的には「自我」や「定立」というものの枠内に収めてしまうという点においてフィヒテを批判しもします。

b)初期ドイツ・ロマン主義における反省概念

すでに述べたように、初期ドイツ・ロマン主義における反省概念は、フィヒテが最終的にそこへと帰り着いてしまった「枠」を取り払うものとして位置付けられます。いわば、反省至上主義を徹底するとどうなるのか、という可能性を追求した人たち、という捉えられ方ですね。ここに、反省を通して現れる「無限性」や「絶対者」のイメージが提示されます。ただ、このように述べる限りだと独我論や単純な観念論と区別がつきません。ここでの反省概念の徹底は、次に説明する反省の客観性の担保とともに理解される必要があります。

c)反省の客観性

反省の客観性、といっても、そこで客観性と述べられているものは、一般的な意味での客観性とは大きく異なります。そこではきわめて奇妙な客観性が念頭におかれています。ベンヤミンの議論は具体的には芸術作品に対する反省というものに焦点が当てられるのですが、ここでは一箇所だけ引用する事にします。

作品の批評とは、むしろ作品がなす反省なのであって、この反省は言うまでもなく、作品に内在する批評の萌芽だけを展開させる事ができるのだ。(ちくま学芸文庫、p.160)

ここでは批評家と作品とが主体と客体という関係にはない事がはっきり見て取られますが、しかしそこには奇妙な客体性(客観性)が見出されます。実際に作品から批評を取り出すのは批評家でしかないわけですが、しかしそこで取り出される批評は作品そのものにすでに内在しているものであると理解されているわけです。つまり、反省が作品への客体化されているわけですね。ここに、批評(=反省)の客観性=客体性が担保されるわけです。ちなみに、作品へと客体化されている反省が形式と呼ばれています。

d)反省と理念

ある作品が真の芸術作品であると言うことは、それが批評を呼び求める事にある、とベンヤミンは述べます。ただし批評は作品そのものに形式として客体化されており、批評家はその客体化された反省を引き出すだけであるとされます。このとき、「芸術作品」の場所は、もはやそこにある作品には見出されません。というのも、ある作品が芸術であるという所以は、それが批評を呼び求め、そしてそのことによって自身のなかに客体化されている反省を展開していく事によってのみであり、むしろその反省の展開のプロセスこそが「芸術」と呼ばれることになるからです。それゆえ批評は、ある完成された作品に加えられる注釈ではなく、作品そのものを完成させるものとして位置付けられる事になります。むろんそこには本当の意味での「完成」というものはなく、いわば「完成」へと向けられた反省の際限のないプロセスのみが展開されていくわけです。このとき、「芸術」は来るべきもの、すなわち理念であることになります。あらゆる芸術作品は、その来たるべきものとしての芸術に関する証言あるいは預言のようなものであり、それらは、過ぎ去ったものではなく、来るべきものの痕跡であります。ここではベンヤミンはそれを「象徴」という言葉を用いて説明しています。つまり、反省を要請する形式とは象徴的形式であるのだ、と。そしてあらゆる芸術作品は、それぞれはむろん完全に個別のものではあるけれど、それぞれに呼び求めまた展開されていく反省を通して、芸術という理念を指し示していく、とされます。ここに、芸術というものの統一性が、批評を通して引き出される作品そのものの反省として姿をあらわしていく、とベンヤミンは主張します。

3、ベンヤミンとカント
以上の暴力的な要約には、媒質性(メディア)の問題なども絡んでいくのですが、そこに触れると長くなりそうだったのでやめました。個人的な感想としては、ベンヤミンは徹底的にカントから出発しているのだなあと改めて思いました。たとえばフィヒテからシュレーゲル/ノヴァーリスと展開されていく反省論は、『純粋理性批判』における図式論と想像力の問題に対する応答として翻訳する事ができる。さらに、そこに『純理』における理念の位置付けを(転倒的に)加味すればベンヤミンの立場になります。『純粋理性批判』は悟性にアプリオリな規定能力を付与し、そこに感性と理性を従属させているわけですが、ベンヤミンはその図式を転倒させて、理性と理性によって生み出される理念から出発してカントを読み替えていこうとします。しかしこの態度は、なにも奇異なものではありません。それはハイデガーが『カントの純粋理性批判現象学的解釈』で、『純粋理性批判』の第一版における把捉、再生、再認の三つの総合をそれぞれ現在、過去、未来という時制に読み替えて意識の統覚を来るべきものである捉え直した時に行なっていた事でもあります。というか、端的にいって、ベンヤミンのカント解釈はきわめて正当であり、「来るべき哲学のプログラムについて」なども含めて、カントについてのコメンテーターとしてのベンヤミンはもっと評価されるべきだと思いました。

4、結論
ベンヤミンはカントを読まずして理解できない。以上。