パース対やくざ

今日はアメリカの記号論チャールズ・サンダース・パースと、日本のヤクザとの異種格闘技の経緯と結末について報告しようと思っているのですが、そのためにはまずフランスのコミュニケーション学者であるダニエル・ブーニューという固有名詞から出発しなければなりません。

夕方の六時半頃、シャノアール鶴瀬店に行き、ずっとダニエル・ブーニューという人の『コミュニケーション科学入門』というようなタイトルの本を読んでいました。読んだ範囲の内容をすっごくおおざっぱに要約してしまうと、まず、このブーニューさんはコミュニケーションというものにおいて「情報information」と「関係relation」というものを区別し、この後者が前者に「時系列的かつ論理的に」先行するといいます。どういうことかというと、たとえば僕が誰かにある情報を伝えようとする場合には、まずもってその誰かとの伝達の回路を確保しなければならない、ということです。それは同じ空間にいて話しかけるというのでもいいし、手紙を書いて送るのでもいいし電話をかけるのでもいい。さらにこの「関係」には、「情報」が解釈される文脈というものも含まれます。あらゆる情報は、それをいかに解釈するべきかという文脈とセットになっていなければ意味をなさないわけです。とにかくそういった回路を確保し文脈が確立された上ではじめて、情報の伝達というものが可能になる、と。まああたりまえの話です。そしてさらに、そこで確保された伝達の回路と文脈の性格が、情報の内容を根本的に大きく規定しているのだ、という話になっていくのですが、その話は措いておきます。

ブーニュー氏は、その「情報」と「関係」の区別を踏まえた上で、アメリカの記号論者であるチャールズ・サンダース・パース記号論を紹介します。例の異種格闘技に関係する点にだけ話をしぼりますが、このパースは記号が意味をなす形式を三つに分類しています。それが、「指標index」、「類像icon」、「象徴symbol」の三つであり、簡単に説明すると、「指標」というのは足跡などのように物理的な連続性を通して記号の働きをなすという形式、「類像」というのは絵のように対象との類似を通して記号の働きをなすという形式、象徴というのは言語のように決まり事によって記号の働きをなすという形式です。記号というのは、古典的な定義によれば、「ある別の何かを指し示す何か」というものですが、その「指し示し」にはこのように三つの形式がある、というわけです。この発想は、単純にいってしまうと言語をモデルにしているソシュール系の記号学に対しての一種のカウンターとして機能しうるものであり、まあいろいろな可能性があるわけです。

ではそのパースの発想を紹介するブーニュー氏の独創性はどこにあるのかというと、記号が機能する三つの形式、「指標」、「類像」、「象徴」を、記号のピラミッドとして階層モデルで定式化した点にあります。一番下に「指標」、真ん中に「類像」、そしててっぺんに「象徴」が位置するピラミッドです。たぶんパース自身の議論では、一次性、二次性、三次性という独自の概念とセットとなって、順番は「類像」、「指標」、「象徴」となっていたと思いますが、ブーニュー氏は「指標」を一番下にもってきます。これを明快に定式化したことはブーニュー氏の独創と言っていいのではないでしょうか。ただ、「下」といってもそれが劣っているというわけではなく、むしろこの場合、「前」とか「先」というイメージのほうが適切かもしれません。上のところで、「情報」と「関係」の区別を紹介し、さらにそこでは「関係」が「情報」に対して「時系列的かつ論理的に」先行するということを説明しました。そこで「先行」が述べられているのと同じ意味で、「指標」は「類像」に「先行」し、「類像」は「象徴」に「先行」する、とされるのが、つまり記号のピラミッドです。

個人的にはこのブーニュー氏のビジョンだとまだ捉えられないところがあると思うのですが、それを大幅に補いつつ自分なりの定式化すると、このピラミッドは次のように再定式されます。触覚的/物理的な接触の回路がまず確保され、つぎに視覚的/想像的なイメージが構築され、そして最後に聴覚的/象徴的な意味が成立する、というピラミッドです。まあこの再定式にはいろいろ注釈が必要なのですが、長くなってきたので基本的に省略して、あらゆる文字というものはそもそもは絵(つまり類像)であったということだけ付け加えておきます。アルファベットでさえ、もともとは表意文字だったということがわかっているわけです。そして、いわゆる「文字を読む」という行為においては、漢字のような表意文字においてさえ、「類像」的な性格は背後(とういか下部)に退いて、象徴的な意味が成立します。で、そうすると、たとえばパソコンの画面上で文字を読むという行為は、まず自分の網膜とスクリーンとが光を媒介にして物理的な回路を確保するというステップがまず先行し、つぎに文字の視覚的な把握が引き続き、最後に文字の象徴的な次元での解釈が成立する、という「時系列的かつ論理的な」順序が成立していることがわかると思います。この点で、視覚というものは、物理的な次元と象徴的な次元を媒介している特殊な地位にあることがわかりますが、それについてはこれ以上触れません。

と、今さらながら気づいてしまいましたが、じゃあ声の場合はどうなるのか。話し言葉を理解する際には、「類像」のステップは介入しない気がします。どうなんでしょう。とりあえず「類像」の地位はスルーしておいて、「指標」が絶対的に先行するという点だけは揺るがないということは言える気がします。声だって、まず空気の振動という物質的な接触が必須の先行条件となります。じゃあ沈思黙考はどうなるのか、という疑問も湧いてきそうですが、うーん、どうなんだろう。これはコミュニケーションとはいえないだろうけど。とりあえず、ニューロンだとかシナプスだとかの問題ってことにしておきます。

ちょっと最後のほうがぐだぐだになってしまいましたが、とにかくそんなようなことが書いてあるブーニュー氏の本を鶴瀬のシャノアールで読んでいたわけです。すると、いきなり入り口から、「この店何時までじゃ?」と必要以上の大声でがなり立てる声が聞こえました。「10時半までです」という店員の応答を聞いて入ってきたいかつい男たちは、あきらかに仁義なきかたがたでした。三人、齢は40くらいか。しかしまあ関係ないと思って本を読んでたのでしたが、すぐに奥のほうから大きな声が響いてきました。どうやら三人のうちの二人は兄弟のようなんですが、その二人があきらかに口論をしている。むろん、店中に響き渡る大きな声で。どうやら、金銭にまつわるトラブルのよう。「金銭にまつわるトラブル」って書いただけで、もう事件の香りがしますねえ。口論はおさまる気配がなく、猛々しい声が空気をふるわせます。すぐに、奥のほうに坐っていた客たちが帰り始めました。タイミング悪く入って来た客も、そのままUターンしたり、察しが悪く坐ってしまい注文した客も、五分もせずに帰って行ったりしました。僕は、知ったことかと本を読んでいたのですが・・・。しかし、どんなに本に集中しようとしても、怒りを含んだでかい声が響いてくると、それだけで本の世界から鶴瀬シャノアールの「いまここ」へと暴力的につれもどされる。なんどもなんども本の世界に集中しようとするのですが、ちょっとでも怒号がおそってくるともうダメ。折しも、ちょうど「指標」の先行性が論じられていたくだりでした。

ヤッサンたちの口論が束の間おだやかになった隙に、本の世界に入って行くと、そこでは「指標」の先行性が論じられている。すぐに怒号が僕の鼓膜を揺らして、本の世界からつれもどされる。この対比が面白いのは、本のなかでは「指標」の先行性が「象徴」の次元で論じられているのに対して、鶴瀬シャノアールではヤッサンの怒号がまさに指標的に僕のもとへと届いてきてしまうということでした。鶴瀬シャノアールの「いまここ」から、書物という媒体を通して象徴の次元へとのぼって行き、そこで「指標」の先行性についての説明を読むという経験と、指標の次元で僕に届いてくる怒号を通して象徴の高みから引きずりおろされる経験とを往復しながら僕が思ったのは、ブーニューの解釈するパースの議論のこの正しさの意味はいったいなんだ?ということでした。とりあえずそこでの経験からして、「指標」の先行性はまさに正しいと僕は思わざるを得ませんでした。しかしそれが正しければ正しいほど、その先行性が説明されている象徴の世界から僕は引きずりおろされざるを得ない。そして「指標」の先行性の正しさが証明されている真っ最中、すなわちあの怒号と接続されてしまっている状態においては、その先行性の説明などというものは絶対に不可能であるわけです。とすると、その時点の鶴瀬シャノアールという空間においては、ブーニュー/パースが正しければ正しいほど、その正しさは存在しなくなる。というのもその正しさは、あくまでも象徴の次元で説明される正しさであり、「指標」の次元で実際に起こっていることとは別の次元に位置しているわけです。これは、一般的な問題です。

こうやって文字を書いたり話したりすることは、言語という象徴の次元に依拠した営為でしかありえないわけですが、ほかならぬその次元において、象徴の手前の次元を説明しようとすること、これはおそらく極めて一般的な困難事だと言えるでしょう。その困難さを、僕はヤッサンのおかげで身を以て知る事ができたのでした。

で、結局のところ、パース(ブーニュー)VSヤクザの異種格闘技の結果はどうだったのか。おそらくはこうです。

パースのほうが正しいが、ヤクザのほうが強い。

現実はかくも凡庸なんですねえ。