記憶術のおもひで

記憶術というものが、もともとはレトリックの一つのパートとして生まれたということは昔に読んだ佐藤信一郎の『レトリックの消息』に書いてあったから知っていました。ちなみにレトリックというのは日本語でいう修辞というニュアンスがもつ意味よりもはるかに大きいもので、古代におけるもっとも主要な三つの学問(レトリック、文法、弁証法)のうちの一つであり、五世紀から七世紀ごろまではその三つの中でも最も重要だったらしいです。で、いわゆる修辞というのは、レトリックという学問の中の大きく分けて五つあるセクションのうちの一つにすぎません。そして記憶術というのも、そのセクションのうちの別の一つであるわけです。

コミュニケーションにおける顔の役割について研究している先輩の博士論文をいただいたのでそれを読んでいたら、面白いことが書いてありました。レトリックの始祖にはアリストテレスがいるわけですが、その段階では後に発展することになるある要素がまだ未発展でありました。もともとレトリックという学問は、公衆の前での演説を行なうための技術であり、たんに文章を作り上げるだけではなく、それを人々の前で発表する際の技術も当然ながらそこに含まれています。で、1960年のアメリカ大統領選挙でテレビ映りの良かったケネディーがニクソンに勝ったことに象徴されるように、演説が効果を上げるためには顔というものが大きな要素となります。身もフタもない話ですが、仕方ありません。顔がおどおどしてたり目がキョロキョロしてたりやけに汗をかいてたりすると、演説の内容自体が立派でも、あまり効果が上がらなかったりするものです。アリストテレスのレトリック学では、この顔の問題というものがまだ展開されてはいなかった。

それを正面から取り上げたのがキケロです。ちょっと引用してみます。フランス語から翻訳するので、ちょっと怪しいところがあるかもしれませんが。

「多くの人々が、演説の身振りは演説のために有効であり、説得するために効果的であるということを述べてきた。私としては、レトリック学の五つの部分のうちどれか一つが他のものを圧倒していると簡単に決めてしまうことはできないかもしれないが、しかし身振りがとりわけ大きな優位を示しているということは強く保証してもよい。かくして、この主題について注意深く書き残している者が誰もいないのであるから(あらゆる人々が、声や顔や仕草というわたしたちの感覚に依存するものを扱うことは不可能であると見積もってきたのだった)そして演説者がレトリック学のこの部分について知識をえることは非常に重要であるから、何事も見過ごすことなくその全体においてこの問題を研究する必要があるということを私は信じている。」"Rhetorique a Herennius"(日本語タイトルはわからなかったのでフランス語タイトル)

と、翻訳したら疲れたので、あとは駆け足。

つまり、演説するさいの身振りも大事にしましょうってことを言い出し、じゃあ具体的にはどうすればいいのかってことをキケロは研究したわけですね。で、すでに書いた通りそこでは目の動きというものが特に注目されました。たとえば目を伏せるとダサく見えるみたいな。となると、演説のときに原稿を手許に置いてそれに目をやるというのはあまりよろしくない、ということになります。はい、そういうことなんです。

記憶術は、演説者が演説中にうつむかなくても済むようにと開発させられた。

へえへえ

ちなみに、八世紀頃からは主な表現手段が文字媒体に移ったため、三学のなかでは文法がもっとも重要になり、レトリック学の中でも身振りと記憶の部門が衰退していったというのが、ちょっと切ない後日潭です。