恩寵団地

うちの近所の団地では大規模な建て替えが済んだばかりで、このところ猛烈な引っ越しラッシュが始まっており、そこら中にさまざまな種類のゴミが捨てられまくっていて独特の風情を醸し出しています。僕は駅に行く途上でその団地のまっただ中を通っていくので、それらどこか切なく同時にすこし爛れた感じの風情を日々満腔に吸い込んでおります。

先日はトロフィーが大量に捨てられているのを見つけて興味を覚えてみてみたら、昔野球チームで一緒だったイイヤマ先輩が小学生の時にもらったトロフィーでなんだか遠くに思いを馳せて、アインシュタイン相対性理論と絡めて日記を書こうと思いながらもこのところの筆倦怠でそのままうっちゃっていて、今日もうっちゃるのでした。

今日は粗大ゴミにまぎれて本の姿がちらほら見えたので何があるのかと思っていくつか見てみると、そのなかに三島由紀夫の文庫が二冊あったので拾っていきました。『永すぎた春』と『葉隠入門』の二冊。本当は電車の中でフランス語翻訳の課題をやらなければならなかったのですが、ついつい読んでしまいました、『永すぎた春』の方。

と、主人公の郁雄は東京大学法学部の学生で、かつ非常に勤勉な性格の持ち主で、ああ自分も見習わなければと、勉強しなければいけないのに小説を読んでいる引け目からかそんなところばかりが印象に残りました。で、結局行き帰りの電車の中で全部読んでしまいました。最後の部分だけはすこし神秘的な思想が垣間見えるのですが、全体としては毒も痛みも狂気もない至極穏当な小説で、また三島由紀夫ですから当然泥臭さも人間くささもない清潔かつ知的な小説です。が、なにか引き込むところのある小説で、読んでてまったく退屈しませんでした。が、書きたいことはそんなことじゃありません。

道ばたで拾った本を読む、って、こういうこと僕はすごく好きなんです。自分で何を読むかを自分で選んでしまうと、何かその時点で予定調和の匂いがする気がして、それが昔から嫌でした。その本を読む必然性がまったくないという状況で本を読む、こういうことを昔から無意識に求めていた気がします。高校生の時などは、読んだことのある作家は基本的に読まないと決めて、名前も何も知らない人の本ばっかり読んだり、五十音順で「あ」から順番に読んでいったりした記憶があります。が、そんなこともどうでもいい。

三島由紀夫の『永すぎた春』を読みながら、僕はあらゆる出来事がこうやって道で拾った本を読むような偶然で成り立っていればいいのに、と思ったのでした。人との出会いも、知識の獲得も、料理の味も、通る道筋も。と思いながら、実はすでにそのような偶然はつねに起こっているのかもしれない、とも思いました。それから戯れに、ある神学を構想してみました。偶然としての神に関する神学です。

偶然とはそれ自体が神の恩寵であり、その恩寵に触れようと思えば、まずもって偶然に貫かれなくてはならない。しかし、偶然とは単にそれとして到来するものではない。偶然が偶然として意味をなすのは、わたしたちがその偶然をなんとかして取り込むことができた場合だけである。たとえば今日僕はたまたま落ちている本と遭遇したが、それに気付きながら通り過ぎたとしてもこの遭遇自体は発生している。しかしそれはいまだ偶然という次元には達していない。偶然がわたしたちの身に生じるためには、その偶然を取り込むためのアクションを起こさなくてはならない。つまり偶然とは、その偶然を取り込むアクションと同義であるのだ。

とすれば、逆説的ではあるが、偶然とはわたしたちの意志なくしては存在しないことになる。そして、思わぬ事態との遭遇自体はあらゆる瞬間において溢れかえっており、それを偶然へと高めるのはわたしたちの意志に他ならないのだから、実は偶然とはわたしたちの意志が生み出すものなのだ。ということはつまり、神の恩寵とはわたしたちの意志が生み出す偶然という形で出会われるものだということである。

むろん、わたしたちの意志は、あらゆる瞬間に偶然を取り込んでいけるほどに強靭ではない。わたしたちには惰性というものが必要なのだ。だからたとえば家から駅までの道筋は、特に意識することもなく歩いていて気付けば駅についているという塩梅だ。その惰性に則っているかぎりで、偶然が出会われることはない。というのもそこに意志が存在しないからだ。しかしこのような惰性というのが一般的には人間の通常体であり、これは、偶然という名の神の恩寵を至高なるものと設定するあの神学からすれば、堕落以外の何物でもない。つまり、このような惰性によって行動することを覚えること、これがエデンの園の「知恵の樹」の正体であったのだ。

知る、ということは過去と未来とにかけて一貫するある観念を獲得することである。つまりそれは、偶然の入り込むの余地のないある対象である。アダムとイブが知恵の実に手を出す以前、二人はそのような知というものを知らなかったため、あらゆる瞬間が偶然で満たされていた。つまり二人は、意志そのものを所有していたのだ。しかしもちろん二人は創造主ではなく、世界を創造しまたそれを展開させているのは神である。二人の意志が可能としているのは、神の創造した世界をあるがままに受け止めるということであり、そこでは世界が存在するというただそれだけのことが、あらゆる瞬間において神の恩寵として理解されるのである。

わたしたちは神の恩寵に目を閉じ耳を塞いでしまう悪しき知から解放されなければならない。あらゆる想起と予期とを捨て去り、絶対的な意志をもってこの現在における偶然を待ち受けなければならない。その偶然こそが、神の恩寵なのである。

と、このように知の放棄を訴えるかなりラディカルな神学を妄想したのは、修士論文の中間発表が一ヶ月後に迫っているという事実とは一切関係ありませんのであしからず。