東武戦線異状なし

帰りの東武東上線で、久方ぶりに見ました。
黒々としたバーコードヘアー。
いやー見事でした。

それでちょっと考えました。バーコードヘアーには何のためになされるのか。とりあえず一つだけ明らかなのは「隠す」ためではないと言うことでしょう。だって、ねえ。しかしそれにしても、あのフォルムはあたかも「隠す」かのようです。おそらくあれはむしろ、「隠す」という言葉の持つ輪郭を根本から動揺させる戦略的表現なんじゃないか、と僕は思いました。いや、そうに違いありません。アヴァンギャルドというやつです。

アヴァンギャルド、すなわち前衛の最前線はいまどこにあるのか。芸術には疎いので現在の動向がどうなっているのかはわかりませんが、しかしあの見事なバーコードヘアーを見るかぎり、あるいはあそこがいまの最前線なのかもしれない、という思いつきもあながち間違っていないのではないか。

おそらくあのバーコードヘアーの作家は団塊の世代あたり。彼らが若かりし頃、つまり六十年代末というのは、日本でもっとも前衛が花咲いた時期です。しかし学生運動が退潮し、街頭に秩序が戻っていくのにあわせて、芸術的な動きも次第に勢いを失っていった、という感じでしょうか。

アヴァンギャルドのフロント(前線)が街頭から姿を消し、そして団塊の世代はロングヘアーを切って背広に身を包み就職をしました。しかし実は彼らは、アヴァンギャルドのフロント(前衛)を、自らのフロント(額)に隠し持っていたのです。そのことを、おそらく彼らも忘れていたのでしょう。高度経済成長のモーレツな流れのなかで、彼らもかつてのアヴァンギャルドのことなど考える余裕などなかったに違いありません。

しかし、じつはフロント(額)は戦っていた。日々の苦労のなかで少しずつフロントを後退させながら、それでもそれはアヴァンギャルドのフロントであった。そして定年を前にしたこの2006(ニイマルマルロク)という時点、フロントが完全に後退しきってしまったと思われた刹那、彼らは隠し持っていたキバを剥き出しにした

そう、それがあのバーコードヘアー。

「隠す」という仕草を敢えて戯画的に示すことで、「隠す」という行為を鮮やかに指弾してみせる爆弾的表現。そのメッセージは単純明裁、「隠すな、あるがままのお前の姿を見せてみろ!!」ということです。その剥き出しの生命に、僕は東武東上線の準急に揺られながら、胸をたださずにはいられなかったのでした。