右翼と左翼

昨日の日記で触れた雑誌VOL。そこに載ってたフランソワ・ズーラビクヴィリという難解な名前の人が書いていた文章の中に次のような一節がありました。

潜在的なもの、これを否定するのが右翼であり、これを計画として表象することで変質させてしまうのが左翼なのだ。」p41

これはかなり言い得て妙です。ここでいわれている「潜在的なもの」というのは可能性の条件そのものを新たに組み替えうる次元ということなんですが、まあ難しいことはさておいて、「潜在的なもの」というのが実は現実そのものである、ということがまず前提されています。つまり、現実というのは絶えざる生成の中にある、というわけです。しかし人は現実そのものを直視することができないから、それを想像的な物語の中に翻訳してしまう。そのふたつの象徴的なやり方が、右翼と左翼であるのです。

まず右翼は、潜在的なものを否定する、という風にいわれていますが、これを自分なりに翻訳すると、たとえば「日本」や「皇統」というようなすでに存在していると想像される統一性を絶対視することで、潜在性が否定されるということです。ちなみにこの場合、想像的な物語は過去へと向かいます。

一方左翼は、潜在的なものを計画として表象することで変質させてしまう、といわれます。これを自分なりに翻訳すると、今度は「来るべき未来」、あるいは「ここではないどこか」という風に、可能性そのものを一つの想像的な物語に仕立て上げることで、こちらは逆説的に潜在性が否定されるということです。ちなみにこの場合、想像的な物語はおおむね未来へと向かいます。

そしてこのいずれもが、現実そのものという事態の生成の地点を見つめることができない、という風な位置づけがなされています。これはとてもわかりやすくてよいです。

ただし、知的遊戯としては僕としては面白いですが、繰り返しますが、これはどう考えても「ニートやフリター」のための議論だとは思えません。

あと、potentialite/potentialityを「潜勢態」と訳すのはいいんだろうか?「潜勢態」はvirtualite/virtualiityであるっていう風に僕は理解していたんですが。で、ドゥルーズの場合、possible/realは「可能態」/「現実態」であり、virtual/actualが「潜勢態」/「現勢態」となってこの二つの軸を区別したというのが特徴なはずなんだけど、もしかしてpotentialityはpossibleとは別のことなんだろうか・・・とここからいろいろ調べ始めてドツボにはまりました。

この辺の話のおおもとはアリストテレスの『形而上学』の九巻のところだと思うので、手許にあった岩波文庫の出隆訳をみてみると、ディナミスは「可能態」でありエネルゲイアが「現実態」となっていて、これはおおむねpossibleとrealに対応するだろうと思ったのですが、英語の訳を調べてみるとちがいました。
http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0052&query=toc&layout=&loc=9.1045b
ここではディナミスはpotentialityと訳され、エネルゲイアはactualityと訳されていました。エネルゲイアがactuality?しかも、日本語では円現とか完全現勢態(出訳)とか訳されているエンテレケイアも同じくactualityでした。区別しないのか?

で、調べると驚いたことに『形而上学』のロシア語版がネット上にアップされていました。
http://www.philosophy.ru/library/aristotle/metaphisic/metaphisic.html
英語版があるのはわかるけど、ロシア語版まであるとは。で、せっかくだからちょっと読んでみると、ディナミスがвозможностьバズモージュナスチ(可能性)、エネルゲイアがдействительностьジェイストビーチェリナスチ(現実)となっていました。オックスフォードのrussian/englishの辞書を引いてみると、それぞれpossibilityとrealityあるいはactualityとなっていました。で、ここでもエンテレケイアがエネルゲイアと同じ言葉で翻訳されていました。

フランス語は翻訳はアップされていないみたいでしたが、ウィキペディアをみてみると、ディナミスがpuissance(力)、エネルゲイアがacte(行動)となっていました。僕はen puissanceとen acteと覚えていたのですが、どうちがうんでしょうか。で、フランス語だとエンテレケイアはentelechieというかたちで区別されて訳されて(というかそのまま)いました。フランスウィキペディアの説明だと、エネルゲイアとエンテレケイアの区別は難しい、みたいなことが書かれているので、ほかの言葉だと一緒にされてしまってるんでしょう。

ドイツ語だとMoeglichkeitとWirklichkeitになっているようで、まあ英語とあんまり変わらないと思いますが、エンテレケイアの訳語に関しては、疲れたしドイツ語もまだあんまり読めないし調べるのはやめますが、何しろ哲学の国ですから、さすがにエネルゲイアと区別しないなんて事はないでしょう。

それにしてもつくづく感じたのは、カタカナってすごいなあってことでした。